第031回「葭萌関・白水関・涪城攻略」

 広漢県の長である黄権は予想以上に手練れであった。

 龐統は、諸葛亮の忠告を聞かなかった自分を恥じている。そして、つまらないプライドに固執し、愚を犯すほど頑迷固陋ではない。


「城兵の数は二千程度。打って出る可能性が低いのならば、ここは抑えを置き、予定通り北進して葭萌県を目指しましょう」


 龐統は黄権の抑えに劉琰と三千の兵を据え置くと軍を前進させた。なるほど、黄権は状況がわかっている。数千程度の兵で真っ向切って劉備軍四万に立ち向かうほど無謀な行いはしないだろう。


 ――時には離も必要か。悔しいが、孔明のほうが我よりも一歩上であったわ。


 ゆるゆると劉備軍は広漢郡を北に移動する。この郡は、漢の高祖である劉邦が置いたのが始まりであり、益州でも主要な城が揃っている。群治所は雒県にあり、おそらくそこで最終的な激戦が行われると龐統は推理した。広漢郡の主要な要衝を攻略して西進すれば、太守である劉璋がいる成都まで距離は遠くない。


「劉主よ。成都の劉璋は暗愚でたいした備えをしてはいないでしょう。ここは、精鋭を選抜して、一気に急襲をかければ敵は抵抗せずに降伏の道を取るに違いありません」


「士元よ。斥候によれば、劉章の遣わした蜀軍が間近に迫っていると聞いているが」

「益州の兵はたいした戦闘経験がありません。ここに半ばを置く。つまり、二万の兵を葭萌付近に残置して敵を釘付けにするのはたやすいことです」


 龐統は、葭萌に兵を置いて囮にして、涪、綿竹、雒を迂回する策を提案したのだ。

 だが、劉備はこの龐統の策を用いずに、益州の要害を順繰りに落とすことを指示した。


 ――致し方なし。ここまできたならば、急ぐことはない。

 劉備の決意が固いことを知ると、龐統は気持ちを切り替えて、その指示に従った。

 まず、手始めに葭萌城を最優先に攻略した。


 龐統は、劉備の養子である劉封に手勢二千を与えると、城攻めを行った。二十代前半と若く、勇猛果敢な劉封は槍を携えると軍に先駆けて城を攻撃した。


 この葭萌城に劉璋が籠めていた城兵は数百程度である。城将も気迫に欠けていたこともあってか劉封の苛烈な攻撃を支え切れず、三日で城は落ちた。


「次は白水関だな」

 劉備は溌溂とした表情で言った。益州に入ってからは、黄権の奇襲を除けば劉備軍は連戦連勝である。


 ――思えば、長い雌伏の時であった。

 劉備は、若き日のことをまざまざと思い出す。徐州を始めとして、呂布、袁術と転戦し、時には袁紹の部将として曹操と戦った。いずれも言えることは、必ず劉備軍は寡兵であったということだ。


 それがいま現在は、四万という錬磨された精鋭と、信の置ける多数の部将を従えて堂々と戦っている。


 若き日の劉備が持っていた将といえば、関羽、張飛、趙雲くらいなもので、ひとりひとりは優秀であるが、あきらかに数は足りていなかった。


 だが、いまや違うのだ。自分には戦術的に選択肢が与えられた。どの将をどういう状況でどのように使うかが許されている。これは、長年傭兵として戦い続けてきた劉備からしてみれば、夢のような話であった。


 白水関の主将は楊懐と高沛である。

 このふたりは劉璋に忠実な益州の名将だ。劉備軍の戦略が、涪城から雒県、綿竹、そして成都と西へ向かう一本道であるとすると、北にいる楊懐と高沛が南進して退路を断って来るのは、戦略上まずかった。劉備は魏延と陳式に先鋒を命じて、この二将を討つことを命じた。


 魏延はいうまでもなく、関羽や張飛に比肩する劉備軍で五指に入る猛将である。陳式も若いが用兵に長け、白水関攻略の将に任命されその意気は天を衝くばかりである。


 楊懐及び高沛は劉璋旗下でも名の知れた勇将である。ゆえに劉備軍が多勢だからといって、決して関に閉じ籠り震えている弱さはなかった。


「けなげな者よ。ひと息に踏み潰してやろうか」

 魏延は向かってくる楊懐と高沛の軍に向かって猛進した。敵勢はわずか二千足らずである。劉備軍本隊が到着せずとも、手勢三千で充分だと獰猛な笑みを浮かべて騎兵を接近させた。


 魏延はすさまじい勢いで楊懐の陣に突入すると押しまくった。魏延自ら怒声を発して戟を旋回させて、楊懐軍の兵士を殺傷した。陳式も負けじと高沛の軍勢に遅いかかる。曹操の兵と連戦して、揉みに揉まれた荊州の将兵の強さは、張魯と時たま戦う程度の経験しかない東州兵を瞬く間に打ち破った。楊懐の前陣があっという間に腰砕けになる。


「この程度で我らに歯向かうと天に唾するも同じよ」

 魏延は楊懐の防衛をあっさり破壊すると、軽騎兵を小さくまとめてさらに前進させた。


 たちまちに、主将である楊懐の本営が乱れた。魏延は戟を振り回して、右往左往する本営の兵士たちを追い散らすと、運よくきらびやかな甲冑をまとった将を発見した。


「おう、そこなるは蜀の名のある将と見た。我こそは南陽の魏延なり。いさぎよく、我が正義の刃を受けい」

「こしゃくな!」


 開戦して数時間も経たずに陣を破壊された楊懐は矛を手に取ると、周囲にいる部将たちの制止を無視する形で騎乗し、駆け寄ってきた。


「我こそは白水を預かる楊懐なり。劉備の犬め、血祭りにしてやる」

「そう来なければ、嘘だ」


 魏延はうれしげに奥歯をガチガチと音を立てて咬み合わせると、鞍を左拳で強く叩いて駒を発進させた。


 戟。陽光を反射してきらめいた。魏延は矛を両手で天にかざしたまま突っ込んでくる楊懐の闘志に燃え盛った瞳を真っ直ぐ見返した。


「ぬるいわ!」

 ――轟音。

 凄まじい速度で二将が駆け違った。パッと凄まじい血煙が立って、宙に首が翔んだ。楊懐は首なしのままま、数十歩進むとピタリと停止。ぐらりと上半身がゆれる。しばらくして横倒しに右へと落下した。主を失った馬が所在なさげに歩み、小さく嘶く。


 一騎討ちを見守っていた諸将から歓声が上がった。

 魏延はゆるゆると駒を進ませると、地に落ちた楊懐の首に戟の先端を刺し込み、グッと力を入れて天に差し上げると高々に宣言した。


「敵将楊懐は魏延文長が討ち取ったり!」

 魏延の凄まじい武勇は証明された。それと同時に戦いの帰趨は決まった。残った楊懐の軍勢が総崩れに陥る。しばらく陣を持ちこたえていた高沛も陳式の苛烈な攻撃に耐え切れず、陣は瓦解した。


 敵勢が算を乱して潰走すると、見守っていた劉備が全軍を突撃させた。こういった戦況の見極めは劉備のもっとも得意とするものである。


 四万を超す軍勢が一気に寄せると、敵勢は白水関に戻ることもできずに、まともな陣形を取ることもなく次々に討たれてゆく。ついに高沛自身も軍をまとめ切れずに浮き足立つと、最終的には陳式の放った矢に貫かれて戦死した。


 戦闘は一両日に終わった。

 劉備軍の快勝である。


 荊州軍の士気はいままでにないほど高まった。葭萌の領域を満遍なく攻略した甲斐もあってか、劉備軍の兵糧は充実している。葭萌城や白水関の武器倉庫から充分な戦略物資も補充した。


「さあ、成都へ向かおうぞ」

 劉備の言葉。龐統はその意を組むと、先鋒を黄忠と卓膺に定めた。黄忠は言わずと知れた劉表旗下にいた猛将である。


 齢六十を過ぎて体力気迫共に、関羽張飛に劣らないため、こたびの遠征でもっとも劉備に信を置かれている。卓膺も若いがその能力を劉備に認められ荊州で加わった部将だ。劉備たちが目指すは涪県である。


 涪県には成都から勇んでやってきた劉璝、張任、冷苞、鄧賢の四将が迎撃のために堅固な陣を築いて待ち構えていた。


 黄忠と卓膺は小高い山を踏破して猛烈な勢いで進むと、霧に煙った敵陣を目にして奮い立った。


「ふふ、戦の仕方を知らんやつばかりよ。ちと、脅しつけて目を覚まさせてやろうぞ」


 黄忠は自慢の大刀をかついだまま空を翔ぶように駒を駆けさせ、一気に攻め入った。


「黄忠これにあり。いざ、勝負」

 常先登陷陣つねにせんとうしてじんをおとし勇毅冠三軍ゆうきさんぐんにかんたり


 史書にあるよう黄忠の武勇はとびきりで、その騎兵の速さは飛来する矢が届く前に敵勢を噛み破る獰猛さを併せ持っていた。


 黄忠が鍛えに鍛えられた騎兵千五百騎と共に益州軍の陣に飛び込むと、凄まじい突破力で冷苞の防衛を破壊した。自慢の大刀が真っ白に輝き振り抜かれると、一度に四、五人の首が刎ねられ、あたりは朱に染まった。


「敵将出会え。我こそは、荊州の黄忠なり」


 黄忠は冷苞の陣を踏み躙ると、勢いのまま隣り合った鄧賢の陣に突撃した。黄忠は弩兵に矢を射かけさせて敵勢の勢いを削ぐと、そのまま自ら先に立って突っ込んだ。


 ――あの将は死を恐れぬのか。

 益州軍に恐怖が伝播する。


 これを見ていた鄧賢は前陣を崩壊させないために、自ら矛を手にして暴れ回る黄忠に挑みかかった。


「おう、けなげよの」

 が、黄忠が大刀を風車のように旋回させながら叩きつけると、ただの一撃で矛を弾き飛ばされて鄧賢は呆然自失となった。


「あ、あああ」

 鄧賢から魂魄の抜け出すような声が漏れた。見るからに黄忠は老武者だ。長く胸まである髭は雪のように白いが、鄧賢の手指には打たれた大刀の衝撃で激しい痺れが残っている。


 鄧賢はそれなりに武芸に自信があったが目の前にいる男ほど実力が隔絶している相手と斬り合った試しがない。本能的な恐怖が鄧賢の全身を浸した。


 ――こんな怪物とはやり合えぬわ。

 馬首を返して鄧賢が一目散に逃げだすのを見て、益州軍の戦意はみるみるうちに萎えて行った。これを見逃す黄忠ではない。


「見よ、みなの者。敵将は臆病風に吹かれて退散したわ。いまこそ、功の樹て時ぞ」


 黄忠に切り裂かれた陣へと続く歩兵が飛び込んでゆく。やや、遅れて到達した卓膺も歩兵を指揮して猛然と襲いかかった。


 みるみるうちに、鄧賢の兵は厚みを失くすと、潰走状態に陥った。続けて、先鋒に負けじと魏延や劉封が手勢を引き連れて及び腰になった劉璝や張任に押し寄せる。


 ――ここで勝負だ。

 龐統は劉備に合図を送ると、待機していた本軍を解き放って総攻撃を開始した。まず、果敢に戦っていた冷苞が流れ矢に首筋を貫かれて戦死した。


 将を失うと、残りの兵たちは踏み止まって戦う勇気を失うのが常である。東州兵が強いといっても、中央で激戦を繰り返してきた劉備軍に比べればたかが知れていた。


 明朝から始まった戦いは、昼を迎える前に、敵勢の退却という形で終結した。逃げ遅れた鄧賢は、劉備とよしみを通じていた孟達の甥ということもあって、潔く降った。


 またもや快勝である。劉璝と張任だけがかろうじて戦場を落ち延びた。


「さあ、主よ。残敵を掃討しましょう」

 龐統は自軍の損害の少なさに顔をほころばせて、そう献策した。劉備は輔匡を呼ぶと、直ちに涪城の攻略を命じた。


 輔匡は字を元弼といい襄陽郡出身で、荊州にて劉備に仕え、その豪気さを買われて今回の遠征に参加した将である。


「我が主よ、お任せあれ。たちどころに落としてみせましょうぞ」

 涪城のわずかな守備兵は輔匡に攻め寄せられるとほとんど抵抗なく降伏した。ここで、二万余の降兵を手に入れた劉備は彼らに恩愛と金穀を与えて自らの理想を述べて、故郷に帰りたい者は帰らせ、自軍と共に戦う兵には篤く恩賞を与えると約束すると一万五千ほどの兵が残った。


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