第030回「断頭将軍」
この当時の劉備が行った益州攻略の壮挙は中原の名士たちからは、幾分、醒めた目で見られていた。
曹魏政権に仕えていた丞相掾の趙戩は
「劉備は成功しないだろう。用兵は稚拙で戦うたびに敗北し、逃走にあけくれている。どうして人の国を狙えようか。蜀は小さな州であっても、四方を囲まれた堅固な要害が多数あり、兵は剽悍だ。自らの力で独立が保たれ、早急に併呑することは不可能であろう」と述べている。
だが、この趙戩の発言に対して徴士の傅幹は
「劉備は寛大で情け深く、度量があり、人に死力を振り絞らせる人物である。諸葛亮は政治に練達して、状況の変化を読み取る力がある。かの者は正道によりながら権謀術数に優れている。さらに、劉備の股肱である関羽や張飛は勇敢で義理堅く、どちらも万人の敵になる男だ。しかもこれらが将軍になっているのは侮りがたい。諸葛亮、関羽、張飛の三名はみな英傑である。さらに劉備の知略にこの三者が補佐して、どうして成功しないというのだ」
と述べている。曹魏政権に仕えていながら、ここまで劉備を擁護する傅幹は珍しい存在であるといえなくもない。
大船団が移動を終えたのちに、諸葛亮の別動隊が露払いとして巴郡の各所を充実している戦力で薙ぎ払ってゆく。
この巴郡で無視できない地点が江州城である。諸葛亮は先鋒を張飛に任せると、この城を守る巴郡太守である厳顔を撃破するように命じた。
「軍師どの。任されよ」
一万の兵を率いた張飛は意気揚々と進発した。厳顔は益州でも名の知られた豪族でその武勇の勇猛さは州内に轟いていた。
一方、このころの張飛は当陽で曹操の本軍と激戦を繰り広げ、経験においてはかつての比ではなかった。
張飛と厳顔の両軍は広々とした野で激闘した。張飛は自ら丈八の蛇矛を手にすると、巨大な愛馬に跨り歩兵を突撃させた。
対する厳顔は、五千の兵を負けじと繰り出してくる。
この時、四十三歳になった張飛は武人としてもっとも脂がのった時期であった。武勇、判断力、そして兵を進退させる経験、そして若かりしころにはなかった冷静さ。それらが嚙み合った張飛の強さは格別であった。
厳顔も凡将というわけではない。士卒の心をつかんで離さず、経験も武勇も水準以上だ。
が、張飛が相手では分が悪すぎた。張飛は、自ら陣頭指揮に立って蛇矛を振り回して敵陣をかき乱すと、厳顔の陣のゆるみを素早く見てとり、その穴に騎兵を埋没させた。張飛の騎兵。鍛えに鍛え、選び抜いた五百騎の強さは破格であった。凄まじい突破力を誇る騎兵の勢いに、厳顔はたちまちに押され切って軍を後退させてゆく。
「伸び切ったな」
張飛は厳顔の陣が薄く、長く、前後に引き延ばされたとみるや、左右から歩兵を突貫させた。陽光に煌めく戟が東州兵を次々に屠ってゆく。
「よっしゃあ! トドメだ。この俺に続け」
張飛が大音声で怒鳴ると、突撃の合図を示す太鼓が雷鳴のように鳴り響いた。喚声を上げながら、津波のように張飛が馬を駆けさせながら突っ込んだ。
張飛が蛇矛をここぞとばかりに振るった。ただの一撃で、厳顔軍の歩兵が五人ずつ吹っ飛ばされる。嵐に巻きあげられる木の葉のように、張飛ひとりだけでたちまちに五十人近い敵兵が肉餅のように叩き潰される。
「あれが噂に聞く張飛益徳か」
厳顔は額一面に汗を浮き上がらせながら、嬉々として戦闘に臨む敵将の強さを目の当たりにして、ギリリと奥歯を噛み締めた。
こうなると兵数でも練度でも劣る厳顔軍では支えきれない。張飛の突進力に完全敗北した形で厳顔は、なんとか軍の崩壊を免れながら撤退した。
あとには、数百を超える厳顔軍の死体が荒野に取り残されていた。
「へん。ざまあみやがれっての」
緒戦に快勝した張飛は得意満面の様子で自軍をまとめると奇襲を嫌って陣をやや後方に下げた。
「だが、ここは絶対に落とさせぬぞ」
野戦ではかなわぬと悟った厳顔はその日のうちに江州城へと兵を籠め、対決姿勢をあきらかにした。
一両日たっぷりと休息を取った張飛軍に鋭気が満ちあふれている。張飛は馬上で蛇矛をしごきながら、自慢の虎髭を震わせ全軍に命じた。
「一気に江州城を落とすぞ。我に続け」
奮い立った張飛の軍勢はすべてが精鋭である。歩兵の突撃。溌溂として、動きは俊敏である。厳顔自ら城壁に立って矢を射かけるが、荊州の強兵は盾で矢を防ぎながら猛攻を開始した。雨のように矢が空を黒く覆い尽くす。城兵は抵抗したが、張飛軍の一手が防備の薄い一角をたちまちに突破した。城門が開く。あとは堤が切れるように勢いがつく。兵たちが城内に雪崩れ込んでいった。
江州城はわずか二日の攻撃で落ちた。これは張飛軍の戦意がいかに高かったかを内外に知らしめた。
厳顔はわずかに残った兵と城内で抵抗を続けたが、矢尽き、刀折れると軍兵に捕縛された。張飛の前に引き出された厳顔は後ろ手に縛られたまま、自分よりも頭ひとつ大きい張飛を澄んだ瞳でジッと見ている。
「我らが大軍を前にどうしてわずかな兵で抗戦できると思ったのだ。降伏するというのが当然の理であろう」
張飛が怒鳴ると、厳顔は静かな声で反駁した。
「貴卿らは無礼にも我が益州を自儘に侵略した。我は武人として恥じぬように、当然の如く戦ったまでだ。我が州に首を刎ねられる将はいても、降伏する将はおらぬ」
もともと気が長いとはいえない張飛である。厳顔の言葉にカッと頭に血を上らせると雷鳴のような大音声で怒鳴った。
「さすが巴郡の太守、この張飛さまを前にいい度胸だ! この者の首を刎ねよ!」
慌てふためいた側近の兵がバラバラと部屋の中に駆け込んでくる。しかし、厳顔はわずかも顔色を変えず、不思議そうな声で言った。
「首を斬るならさっさと斬ればよい。どうしてそのように腹を立てることがある」
「う、む」
――確かにそれもそうだ。
厳顔は捕縛されたまま身に寸鉄も帯びない。抵抗することは不可能なのである。そんな相手を前に子供じみた怒りを露にした自分が張飛はたまらず恥ずかしく、また、このような状況で至極冷静な厳顔の度胸と態度に感服した。
――果たして俺は、同じような状況で同じ言葉を敵将に言えるだろうか?
張飛は自ら厳顔を縛っていた縄を解くと、深く謝した。
「ご無礼仕る。確かにあなたのお言葉の通りだ。我はもう少しで酷い過ちを犯すところであった」
潔い厳顔の武人としての態度は張飛の心に深く染み入ったのだ。張飛は、城内の一室を清めて整えると一席設けて、厳顔を賓客として遇した。これはかつての張飛にはなかった人格的成長を示している。かつての張飛であったならば、厳顔の態度を思いやることなく、首を打っていたことだろう。
――なるほど、この張飛という男、ただの猪武者ではなさそうだ。
一本気な厳顔と張飛はもともと馬が合ったのだろう。酒を酌み交わすうちに、張飛はおのれの存念を述べた。
「厳将軍。我は主人である劉豫洲と共に益州に入ったのは理由がある。いま、漢室は曹操のあとを継いだ曹丕によって献帝が苦しめられ、帝位はやがて奪われるだろう。我が主は若年のころより、黄巾の乱を見て天下に義を示し、万民を救うためにひたすら戦ってきた。だが、志だけでは勝てぬ。中原と河北を制した曹賊を滅ばすことは、一朝一夕には不可能であることは明白。そこで、我が主は荊州と益州の兵を借り受け、二州の兵を錬磨して同時に北上させて曹賊を討つしか、漢王室を復興させる方法はないと考えたのだ。我は、元来幽州の野夫であり、本質的に難しいところはわかっていないのかもしれないが、我が主の志を完遂させるためならばどのような苦難も厭わぬと誓っている。どうだろうか。あなたのような素晴らしい武人の手を借りて、益州の民を安んじることができれば最良。真の意味で漢朝を復興させる、そんな夢を共に見ようではないか」
張飛の言葉は彼の本質を表していた。愚直で慣れぬ敬語と修辞を使い、ところどころつっかえながら話す態度はむしろ厳顔の胸を強く打った。
「――なるほど。あなたのような臣がいるならば、劉豫洲は賭けてみる価値があるかもしれませんな」
「と、いうことは?」
「もとより厳顔は敗軍の将。この皴首が、まだ天下国家に役立つならば、もう少しだけ汗をかかせていただきましょう」
厳顔の言葉に張飛は破顔した。童子のように顔中をゆるませて笑う張飛を見て、厳顔は負けたことがまるで悔しくなく、むしろ爽快に思えた。
厳顔が降ったことで、江州県は瞬く間に劉備軍の勢力下に入った。人々は、張飛が厳顔の命を奪わなかったことで、好感を持ち、周囲の小豪族は競って張飛軍へと我先に降伏していった。張飛は、諸葛亮が到着する前に、降兵三千を幕下に加えて一万三千余の軍に膨張していた。
「さすが益徳どの。我が主もこたびの戦功をお喜びになるでしょう。さて――」
諸葛亮の船団が江州県に上陸すると、わずかな月日を置いて劉備の本隊も無事到着した。
劉備の本隊は江州県で食料と水を補給すると、意気も盛んに北上を開始した。劉備は徳陽を抜いて梓潼に至るとそこを根拠地にして住民を安堵し、涪県を攻略する。
諸葛亮の別動隊は江州から犍為郡の江陽、漢安、資中を抜いて成都に到達する進路だ。劉璋は、張飛が巴郡太守である厳顔を易々と破ったことを知ると、従事の張裔を呼び寄せると、兵三千を預け徳陽にて劉備軍を撃退するように命じた。
張裔は字を君嗣といい蜀郡成都の出身である。公羊春秋及び、史記、漢書に精通し、武関ではなく文官であった。張裔は実務の才があり、頭の回転は早く従事と共に帳下司馬を兼任した。
劉備軍の本隊は四万を超えている。さらには、曹操との戦いで錬磨された将兵共に古強者がそろっていた。戦闘経験のない張裔がこれを撃退するのは不可能であり、劉章自身も防備を整えるための時間稼ぎ程度にしか思っていなかったであろう。
「さあ、軽く屠ってくれようぞ」
将帥で作戦参謀の龐統はこれが初陣といっていい。荊州では第一の人材であると謳われ、いまだ真価を発揮していない彼には気負いがある。
幸いにも劉備軍には荊州から帯同した指折りの猛将が揃っており先鋒にはこと欠かなかった。
龐統は、黄忠と魏延に先陣を任せると一万の兵を与え徳陽城に攻撃を行った。張裔は優れた幕僚であったが、その真価は戦場では発揮される類のものではない。
対する、黄忠と魏延は曹操を討って経験と自信を積んだ陸戦の名手だ。戦う前から結果は目に見えていた。間を置かず襲いかかる両将の攻撃は苛烈である。徳陽城の前陣は耐えられるものではない。張裔はほとんど防備することもままならず、千足らずの歩兵はたちまちに蹴散らされた。逃げ散った兵は這う這うの体で城に逃げ込んだ。
「なんたる不甲斐なさ。腕試しにもならんわ」
黄忠は馬上で大刀を振りかざし自慢の歩兵を一気に出撃させて壁に取りつかせた。こうなると徳陽城はいくらももたない。魏延も手薄な場所を見つけては声を嗄らして叫び、兵たちを次々に繰り出す。張裔はほとんど指示も出せずに散発的な反撃を行った。
しかし黄忠の率いる老練な弩兵の一斉射撃を受けると、壁上からわらわらと散らした蜘蛛の子のように落下するだけだった。
さらには、劉備軍の本隊三万が到着すると徳陽城の動揺は大きくなった。無数の「劉」の旗印を見た瞬間、もはやかなわぬと思った軍民は張裔の指揮から外れて勝手に城門を開いてしまう。ここぞとばかりに黄忠と魏延の兵が突っ込んでゆく。
三日と経たずに城は落ち、張裔は成都に向かってわずかな兵と共に落ち延びていった。
――なんだ、このようなものか。
龐統は入蜀前に諸葛亮から東州兵の剽悍さをくどいほどに聞かされていたので、初戦では相当に苦労するかと思っていたが、蓋を開ければどうということもない。自信をつけた劉備軍は北上して広漢に至った。
広漢県を守るのは益州きっての名将である黄権である。字を公衡という巴西郡閬中出身のこの男は知略と勇に富み決断力があって応変の才を持つ屈指の指揮能力を持っていた。
諸葛亮は前世で戦闘においては転変の才があった黄権を評価していたので、龐統には構わず梓潼に向かい、周囲の要害である葭萌や白水を取るように指示していた。
が、一戦で張裔の守る城を落とした龐統は、この孔明の指示に唯々諾々と従うことに疑念が生まれていた。
――儂は童子のように言いつけられたことを守るだけの存在ではない。
「のう、士元よ。孔明が広漢の長である黄権とは戦わぬように言われていたが、そなたはどう思うか」
「劉主よ。この戦の総指揮官はこのわたしでございます。孔明が黄権を難敵であるというのであれば、ここで討っておかねば背後を衝かれる恐れを残すことになります」
「しかし、無用な城攻めに時間を費やすのはどうだろうか」
「なにも城を落とすということではありませぬ。索敵によれば広漢の城に籠る兵は二千足らずだというではありませんか。軍を寄せて威嚇すれば敵は恐れて縮むのみ。それから梓潼に向かい、要害を落として根拠地とし、ゆるゆると成都に向かえばよろしいのです」
「うむ、士元に任せる」
龐統は広漢城からやや離れた小高い丘に営塁を築いた。この場所からならば、周囲は見渡せるし、攻撃の時は城を攻めやすい。
――見よ、孔明。このような城などたちまちに抜いてアッと言わせてやる。
功名心が龐統の研ぎ澄まされた知性をわずかに曇らせたのか、それは明け方に起きた。
白々と夜が明け始めたころ、いつの間に忍び寄っていた黄権の奇襲部隊が一斉に劉備軍の陣地を襲ったのだ。見張りの交代のわずかな隙を狙って、少数精鋭の歩兵が攻撃を開始する。火矢が水色の空を縫うように飛び交い、天幕に火が広がった。
「我が主よ。お逃げください」
慌てふためき、警護の兵が劉備の幕舎に飛び込んで来る。
「待て。声を聞けばわかる。敵は少数。落ちついて火を消すのだ」
さすがに百戦錬磨の劉備である。落ち着き払った態度は泰然としていた。劉備は初日であるがゆえに鎧を脱がずに休んでいたので、悠々と幕舎を出て陣地を見回る。主人の落ち着いた様子に兵の動揺はすぐさま鎮まった。
龐統も警戒を怠っていたわけではないので、すぐさま応戦にかかったが、それを合図かのように黄権は素早く退いた。
被害は極めて軽微である。
しかしながら、百数十人の重軽症者を出したみごとな奇襲は黄権の軍事力の非凡さを物語っていた。
――なんという失態だ。
龐統は青白い顔で劉備の幕舎を訪れると、その場に跪き罪科を贖うために首を垂れた。
だが、劉備はわずかに顔を左右に振り、表情を変えずに言った。
「よい。まだ、戦が始まらぬうちに自軍の将帥を斬る愚か者がどこにいようか。士元の才は私が認めている。だが、これで気が済まぬというのであれば、張裔を撃退した功でこたびの敗戦を帳消し、というのはどうだろうか」
劉備が諸将を見渡して言った。
「よいのでありませぬか。士元どのがいなくては、困ります。なにせ、儂など自分が益州のどのあたりにいるかもよくわかぬのですぞ。士元どのがおらねば、我らこの地で右往左往の上に、思い余って敵陣に突っ込み斬り死にせねばなりませぬからな」
簡雍が飄々と混ぜっ返した。彼が話すと場が和らぐ。得意な能力といえた。劉備が苦笑を浮かべている。そのほかの諸将も特に異論はないとむしろ龐統を気遣う様子を見せた。
「のう軍師どの。戦はこれからが本番じゃ。この老骨も荊州にいたころから卿の驍名は聞き及んでいる。その力を発揮するのはこれからだろうて。いまだ命があるならば、次の戦いで汚名を返上すればよいことよ。我が主が言うとおり、勝敗は兵家の常じゃ、気にするでない」
黄忠がしんみりした顔で言うと、龐統は
――我、その言葉に救われた。
そのような心持ちで顔を上げ、劉備に仕えたことは間違いではないと確信し、胸に熱いものが灯っていた。
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