第027回「劉備の履歴書」

 劉備玄徳、という男がいる。

 姓は劉、名は備、字は玄徳。姓とは同血観念に基づく部族の呼称であり支配階級が持つ支配地に由来した氏とは本来違う。しかし後漢末期、秦漢時代の姓や氏は漠然とした家名を表す程度のものにすぎなくなった。劉備は漢の延熹四年(一六一)に幽州琢県楼桑里に生を受けた。


 劉備の身長は七尺五寸(約174センチ)とやや高身長である。後漢時代のこのころの高身長は魏の尺度(一尺は24,12センチ)で八尺とすると約192センチなので劉備は一般人よりもやや高めという程度である。


 史書によれば、劉備は度量が広く、喜怒哀楽を面に出さず、口数は少ないタイプで漢王朝を興した高祖劉邦の面影があったと当時からいわれていた。


 劉備は後漢王朝の帝室の血筋であり、中山靖王劉勝の庶子の末裔であると称していたが、その出自はかなり怪しいものといわれていた。


 三国志演義の影響で劉備は若いころ筵売りをしていたなどのイメージが定着しているが、真実は少し違う。


 実際は劉備の祖父劉雄は孝廉に推挙され、最終的には東郡范県の県令になったところを見るとまったくの貧農であったとは思われない。


 当時、後漢時代の官吏登用方法は察挙(中央の官僚や地方長官による中央への推薦)と辟召(高級官僚が自らの幕僚を自分の権限により任用する)があった。


 孝廉は察挙のひとつで、基本的に人口二十万人ごとに毎年ひとりしか選ばれない狭き門なのだ。中央勤務の官吏になるためには孝廉に推挙されなければ不可能なシステムになっていた。つまり劉雄が最終的には県令になったのはエリートであったからだ。


 後漢中期における琢県の人口は六十万程度である。

 従って、選ばれるのは毎年三名程度だ。さらに人口が激減した末期には孝廉も十年に一度と試験の難易度もうなぎ上りになっていた。劉備は幼いころは叔父の劉子敬に育てられた。この叔父が劉備の父親代わりであり、養育を行うのである。


 劉備には同年齢に近い親族がいたはずなのだが、不思議と劉氏の一族が歴史の表舞台に出た形跡はない。


 だが、劉備が叔父を信奉していたことには間違いない。


 それが証拠に益州で配下に加わった孟達はもとの字を子敬といったが、君主の叔父とかぶるのをさけて字を子度と改めている。


 ある程度の一族の力があった劉備はもと九江太守である盧植のもとで学問を学び、その伝手で河北を巡って袁紹と競う公孫瓚と知り合っている。


 長じた劉備はおおいなる志をもって、世にはびこる黄巾賊討滅のために義勇軍を率いて、戦いに身を投じるが、それは長く苦しい旅の幕開けに過ぎなかった。


 関羽、張飛らと共に立ち上がった劉備は各地を転戦し、やがてはその勇名と徳を慕われて陶謙から徐州一州を禅譲されるが、そこからが厳しかった。


 袁術と戦っているうちに、呂布に徐州を奪われ、のちに復権を果たすが、次には曹操と戦って再び徐州を奪われた。


 袁紹と組むが、その袁紹も曹操に官渡で敗れ、汝南で曹仁に敗れ荊州にまで流れることとなる。


 一州の主とまでなった男が五十近くまで人に飼われるまで落ちぶれてしまえば、まず、そこからの再起はない。普通は。


 ただ、劉備には不屈の闘志と誰よりも早い逃げ足があった。捨てる、ということをなんら恥じることのない劉備は無能のように思われるが、実はそうではない。


 相当な戦巧者なのである。

 実際、後漢末の黄巾賊動乱時には、数百の義勇兵を率いておこった英雄豪傑はそれこそ星の数ほどいたが、最後に残ったのは劉備だけであった。


 これだけでも充分に凄すぎる。

 生き残ったことで、真偽が不確かな「劉」の一字が生きて来るのである。恐るべき生存能力と、抜群の指揮能力。群雄は、未だ消えずに生き残る劉備に密かな恐れを抱きつつあった。


 そして、劉備はついに諸葛亮という不世出の政治家を手に入れ、いま、漢の建安十四年(二〇九)齢四十九にしてようやく荊州一州を得ることができた。

 ――主は、今後、なにひとつ捨てず保っていかなければならない。


 荊州の諸葛亮は放っていた密偵から、渭水で馬超と韓遂が率いる西方諸侯連合軍が、曹丕率いる軍によって無残に打ち砕かれたことを知り、どこか遠い目をしていた。


 ――やはり、曹操が死んだとしても、曹軍の底力は侮れない。


 諸葛亮は、前世で馬超が曹操に対してどれだけ優位に戦ったことを知っていた。できれば、今回の戦いで曹軍の力を相当に削いでもらい、あわよくば洛陽まで落としてしまうのではないかと思ったが、現実はそこまで甘くなかった。


「孔明。聞いたぞ。曹丕が渭水で馬超を破ったというが、実際はどうであろう」


 憂い顔の劉備が言った。午前の執務が終わり、諸葛亮は主である劉備と茶を嗜みながら、もたらされた報告に関して意見を述べ合っていた。


「事実です。そして主よ。これは曹丕の力、というよりも、曹操の集めた有能な家臣団の実力がいかんなく発揮されたということでしょう」


「曹操の遺徳により曹丕は守られ続けている、ということか」


「はい。それが証拠に、曹軍の夏侯淵は長安を攻略してのちに、馬超を追って涼州の北地、安定、武威、金城、漢陽、隴西などのほとんどの諸郡を平定してしまったそうです」


「夏侯淵か。いずれは我らともまみえることになろうが、恐ろしい将であるな」


 この劉備が恐れていた曹軍の将は言わずと知れた夏侯淵、字は妙才のことである。


 夏侯淵は曹操が兵をあげると別部司馬・騎都尉に任命されて随行し、陳留・潁川の太守に昇進した。

 以後、曹操の主要な戦いには常に奮戦して袁紹と官渡で戦い、軍の兵糧が欠乏した時はこれを絶えることなく輸送して勢いをひるませない機知も備えていた。官渡の戦い以後に昌豨が反乱を起こした際には于禁と協力して、これを討ち降伏させるのに助力を行い、済南郡と楽安郡の黄巾賊徐和と司馬倶らが襲ってきた時には軍兵を引き連れてこれらを撃破した。


 このように夏侯淵の軍巧は衆に抜きんでており、曹軍の中でも五指に数えられる猛将である。


「とはいえ、我らはいずれこれら曹操が残した将を討ち果たさねば聖漢の一統はとうてい果たせませぬ。心してかからねば」


「うむ。敵は手強いが、我には孔明や雲長や益徳といった豪傑がついておる。頼りにしているぞ」


 劉備はそういうとなんともしみじみとしたいい表情を浮かべる。諸葛亮は喜怒哀楽をほとんど面に出さぬ劉備の信頼し切った顔を見ると


 ――なんとしてもこの方の力になってあげねば。


 という気持ちになってしまうのであった。荊州を完全に制圧してからの諸葛亮はその本来の力を発揮し始めていた。彼の本分は軍務よりも内政にある。


 漢王朝を創設した高祖には三傑という優れた補佐がいた。蕭何、張良、韓信の三人である。蕭何は政治、張良は謀略、韓信は戦術のエキスパートであり、それぞれの役目を最大限に果たすことで最大の敵である項羽を斃し天下統一を成し遂げたのだ。


 だが、諸葛亮の本分は蕭何と同じく政治を司るものである。


 蜀漢には張良や韓信と同等の役を果たす人間が欠けていた。


 三国時代が訪れた時点で、蜀が領有していた益州一州のみ。司州、豫洲、冀州、徐州、兗州、青州、涼州、并州、幽州の九州を有する曹魏政権を打ち崩すのは、たとえ光武帝と彼に仕えた雲台二十八将が蘇っても不可能であっただろう。


 ――この歴然とした力の差を覆すのは限られた時を有効に使うしかない。


 諸葛亮はまず劉備に献策して、荊州の戸籍の整備を行った。


「主よ。荊州には中原の争いをさけてやってきた人間が多数おり、故劉荊州は怠慢により彼らの存在を軽んじ、厳しく取り締まらなかったのです。いま、現在曹操の南征は終わり、動乱によってさらに遊民が増加しております。彼らを戸籍に入れて整理を行えば、税の徴収が増えるのはもとより、兵籍に加えて軍を強化する絶好の機会なのです」


 楊儀や蔣琬に命じてこれらの事務作業を行う一方、劉備と計って献帝に上表して劉表の長子である劉琦を荊州刺史に任ずるよう画策した。許都にいる漢の献帝の身柄は曹丕が抑えている。曹丕にとって劉備は実父である曹操を討った仇にほかならず、このような上表が表向きに通るはずもなかった。


 しかし、諸葛亮は劉備が曹操を討ったことで確実に曹丕政権の求心力が落ちていることを計算に入れてこのことを各地に広く喧伝した。 


 これは孫権による荊州奪取の野望をくじくためもあったが、故劉表の長子である劉琦の支持者の力も残らず劉備軍に取り込みたいという目算もあった。


 しかし、この劉琦、諸葛亮が知っていた前世と同じく年が改まってすぐの建安十四年(二〇九)になると病死してしまう。


 元々病弱であったが、彼としては弟劉琮に荊州の実験を渡さず、わずかの間でも荊州刺史としてふるまえたことが安堵感に繋がりそれ以上生きる気力を失ってしまったのかもしれない。荊州刺史劉琦の死亡のあとは、孫権の臣下である呂範が献帝に上表する形で劉備を荊州牧に推薦した。これは、徐州で曹丕軍と戦い、相当な犠牲者を出して力の落ちた状態の孫権がゆるい形での友好関係を維持するために行った方策に過ぎない。さらに、諸葛亮は南陽郡随一といわれる有力豪族の晁氏から多額の金銭を借用した。


 そして、荊州各地の郡からあがる賦税を軍実(軍事費)にあてて、いまや十二万を超える劉備軍の強化に邁進した。曹操を撃破した翌年にあたる建安十四年における劉備軍は、戦闘を繰り返す曹丕や孫権と違い、その挙動はほとんど感じられない。理由としては、諸葛亮が全軍を総覧して徹底的な調練を行ったからだ。


 夏の盛りが終わった九月の閲兵式。

 各地の備えの兵を残して、公安付近に集結した演習では、五万を超える兵が一堂に揃い、その年を通じて行われた調練の総決算たる動きで劉備を驚愕させた。


「孔明、これが私の軍であるというのか」

「まさに」


 一昨年まで劉表の下で寸土の土地もなく、名望だけは大陸に鳴り響いていた流浪の傭兵隊長であった劉備は、これほどまでの大軍勢を機能的に調練した経験など当然ながらなかった。そもそもが、南陽の新野一城では常時養える兵などたかが知れており、戦となれば緊急的に徴募し、経験と勘だけで押し通してきた男である。


 大将といえば、関羽や張飛に趙雲、事務や対外折衝は麋竺や簡雍に一任してきた劉備がこの九か月ほどで見違えるように精悍な兵となった軍を目にし、驚きを隠せないのは当然であった。


 無論、荊州の当陽における戦いで実戦経験はある兵が多かったが、細かな軍規や法を教え込む暇はなかった。


 だが、かつては蜀漢の丞相であり、一国の兵権を握って十万を超える兵を率いて五度の北伐を行った諸葛亮は大陸で数えるほどしかいない老練で経験豊かな政治家であった。


 諸葛亮は臨機応変の戦術的勘が自分には欠けていると知っている。もっとも強い軍が奇兵ではなく、最大限に研ぎ澄まされた兵そのものであることは骨身に染みて知っていた。



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