第024回「二曹の争い」

 ともあれ、程昱の策により山越を動かして孫権を南に退散させた曹丕であったが、軍の再編以上に頭の痛いことが持ち上がった。


 鄴にいる曹植の存在である。

 曹植は字を子建といい、曹操の五男にあたる。異母兄は曹昂、曹鑠で同母兄は曹彰、同母弟に曹熊がいる。


 曹植は、早熟の天才肌で十歳余にして「詩経」「論語」及び「楚辞」漢賦数十万字を朗読し、父曹操と同じく文才に優れ文章をつづることを得手としていた。


 ある時、曹操が曹植の文書を見て

「おまえは人に頼んだのか」

 と問うと、曹植は


「言葉が口をついて出れば議論となり、筆を下ろせば文章となります。どうか目の前でお試しください。どうして人に頼みましょうか」と答えた。


 当時は鄴の銅爵台が新しく完成したばかりで、曹操は我が子たちをすべてつれて台にのぼり賦を作らせた。


 曹植は筆をとるとたちまち作りあげたが、それは立派なものでさすがの曹操も彼のすぐれた才能には感心しきりであった。


 曹植の性質はおおまかで細かいことにこだわらず、車馬服飾に関して華美は貴ばなかった。難しい質問をされた時もすぐさま応じ、曹操にその才を寵愛された。曹丕は、この知においては自分より数段すぐれていると認めざるを得ない弟に関して、嫉妬もあったが、太子の座を奪われるのではないかという恐れが常にあった。


 だが、建安十四年(二〇九)において、曹植はいまだ十八歳である。年齢的には幼いといえるが、それは二十二歳である曹丕にもいえたことだ。


 曹操自身も荊州において戦死するとは露も思ってはおらず、そのために明確な後継者をこの時点では定めていなかった。


 つまり、曹操の後継者は簡単に決まらなかった。曹操は多数の子に恵まれていたが、中でも長子の曹丕と曹植はともに衆に秀でる才能を持っており、ふたりのどちらかが後継者であるだろう暗黙の了解があった。


 唯一、この後継者争いに加われそうであったのが次男である曹彰であった。


 曹彰は字を子文といい、若いころから弓射と御者に優れており、猛獣と格闘して捻じ伏せる筋力を持つ武芸に長けた男であった。遠征にたびたび従って巧を樹て激しい気性を見せたので、曹操は曹彰の激しさを矯めようと諭した。


「おまえは書物を読んで聖人の道を慕うことはせずに、汗した馬に乗り剣術を好んでいるが、それは匹夫の働きぞ。どうして世間の人がおまえのやることを尊重すると思うのか」


 そして、曹操は曹彰に「詩経」と「尚書」を読むことを課した。


 これは、呉の孫権が旗下の呂蒙に武芸一辺倒ではなく、書を読むことで深い知恵を得るよう諭したことに酷似している。


 呂蒙は素直な性格で孫権の忠告に従い、戦場でも時間があれば書を読むようにし、やがては知勇兼備の大将へと成長したのだが、曹彰にそこまでの器量はなかった。曹彰は、曹操に言われた教えを守らず、部下に対して


「男子はひたすら衛青や霍去病となり十万の騎兵を引きつれ、砂漠を馳せ廻り、蛮族を追い立て功績を挙げて称号を得ることが本懐だ。どうして書を読み博士になどなれようか」とこぼす始末だった。


 また、曹操は我が子たちに好んで行うことや将来の展望を聞いたが、曹彰は


「将となるのが望みです」とだけ端的に答えた。


 曹操が

「将となってどうするのだ」と言うと


「甲冑を着込み、武具を手にして危険を前にして怯まず、士卒の先頭を切って戦います。軍の恩賞は必ず行われ、刑罰は信義に基づいて必ず実行します」と答えた。


 これでは曹操も曹彰を一介の将としてしか扱いようがなかった。


 そもそも、この時代の士大夫の仕事は政治家になることで、身体を張って戦う将や兵卒は一段下に見られるのが常であった。


 儒教に重き価値を置く名士の評価する人物と武勇を尊ぶ思想の持主とは社会層が大きく異なる。


 それを明確に示す逸話が、劉備に仕えた名士の劉巴と抜群の豪勇を誇る張飛との間に起きたある逸話がまさに象徴的であるといえよう。


 張飛はある時、劉巴の家に遊びに行った。


 劉巴は張飛を家にはあげたが、話をまるでしようとはしなかった。世間一般的に、天下の豪傑で知られ気性の荒いイメージである張飛は、いわゆる上に弱く、下に強かった。


 上とは名士のことであり、下はおのれに仕える部将や一般兵である。


 名士に強い尊敬と憧れを抱く張飛であったが、劉巴が一言も口を利こうともしない傲岸不遜な態度にさすがに頭から湯気を出して怒り、その場を去った。


 それを聞いた諸葛亮は劉巴に対して

「張飛はまったくの武人ですがあなたを尊敬しているのです。あなたが高い志をお持ちなのは知っておりますが、主君である劉将軍はいま、まさに文武の力を結集して大義を定めようとしているのです。どうか、我慢を覚え、あのような武人にも優しくしてください」と言った。


 これに対して劉巴は

「大丈夫たるものこの世に生きていくからには、当然四海の英雄と交わるべきです。どうして、あのような兵士(兵隊野郎)と共に語ることなどできましょうか」


 と言い放ったのだ。


 ここで劉巴がいう英雄とは政治家のことだ。断じて軍人はその中に入らないのである。儒教を根底に置く名士の強烈な差別感がありありとみえるが、当時はこれが常識だった。


 身体を使う肉体労働者や軍人よりも、頭脳を使って天下国家を語る政治家が尊ばれるのが中国の伝統的気風であるのは、いまも昔もさほど変わらない。


 曹操が後継者を決めかねていたのは、この曹植の持つ父にも勝る文学的センスが名士層に対抗しうる文化的価値を秘めていたからであった。


 曹植が長ずるほどに曹操の迷いは大きくなった。決断力に富む曹操は明確な後継者を定めない愚を理解していないはずはなかったが、曹植の文学的才能によって儒教に変わる新たな価値観である文学的地位の確立という方法はそれほどに魅力的であったのだろう。


 三国時代では名士層を取り込まねば、領地を安定化させることは不可能であった。


 劉備は諸葛亮という徐州出身で荊州においても勢力基盤を持つ名士を手に入れることで荊州を安定させた。


 だが、主君にとって名士は毒にも薬にもなりうる存在なのである。


 河北に覇を唱えた袁紹は、名士を重んずるあまり君主としての権力基盤は弱く、結果的に彼らに振り回される形で自滅している。


 名士層をいかように扱うかでその州における君主の権力の強さが決まるのだ。


 曹操も将来的に名士の力を弱まらせておのれに力を集中させたい狙いがあったが、それは荊州征伐時における決定的な敗北と死で宙に浮く形となった。


 名士層の根底にある儒教的価値観では、長子である曹丕が後継者となることは決まりきった道理であり、そのため残された曹兄弟ではそれぞれを推す派閥が生まれるのも自然であった。


 荀彧、陳羣、董昭などは曹丕を推し、一方、曹植も楊修、丁儀、丁廙、邯鄲淳、楊俊などに推され、両者の対立は激化の一途をたどっていた。


 ――なんにせよ、鄴の曹植は邪魔だ。

 建安十四年(二〇九)の四月、曹丕は献帝の詔勅により正式に漢の丞相として任命された。


 当然のことながら、董昭、華歆、王朗、陳羣などによる強力な政治的働きかけによるものである。


 この月に、軍の中核であった河南出身の青州兵は引き鐘を鳴らしながら故郷に戻った。これは曹操がかつて討伐した青州黄巾と個人的な強い結びつきがあった証拠であった。彼らは、曹操の後継者がほぼ曹丕に定まると契約は終了したと見たのかすべて帰農したのだ。曹丕は薄々そうなることを予期しており、彼らを止めることはなかった。


「丞相。いまだ難問は山積みでございますな」

「仲達か」


 憂い顔の曹丕に語りかけたのは、のちに諸葛亮の最大のライバルとなる司馬懿仲達であった。


 司馬懿は曹丕に仕えて信任され、陳羣、呉質、朱鑠と共に「太子の四友」と呼ばれ、その序列は陳羣に次ぐ二位である。この権謀術数の塊のような男は、曹丕に対して献策を行った。


「曹公が陣中に没し、天下は以前よりもはるかに混迷を帯び人々はこのような時こそ平穏を望みます。丞相は、曹公の後継者として名乗りを上げ、軍と官吏を制御し、南に盤踞する孫権と劉備を討ち、西は馬騰、張魯、劉璋を平らげねばなりません。そのためにはご兄弟のことを真っ先に考えねばなりません」


「彰、植、熊たちのことだな。植を除けば、一応は私の指示に従っているとは思うが」


「そうでございましょうか。若年で病弱である蕭懐公(曹熊)さまはともかく、臨淄侯(曹植)さまと越騎将軍(曹彰)さまは別です。特に、臨淄侯さまは与党を侍らせて鄴にて十万の兵を抱えております。これが一斉に背けば、天下は散り散りになりその時になっては手当のしようもないでしょう」


「確かに仲達の言うとおりであろうが」


「先年、長楽衛尉に任命した馬騰の軍はとりあえず解体が済んでおりますので、いますぐどうこうというわけではりませんが、まず、越騎将軍さまを召喚し、本意を問いただす必要性があるでしょう」


「仲達に任せる」


 司馬懿は使者を送ると、まず、許都に曹彰を呼び出した。越騎将軍曹彰は身を守る近衛部隊数千余騎を率いると、堂々と許都に入城した。


 ――場合によってはひと合戦仕ろうぞ。

 だが、案に相違して曹彰は曹丕をはじめとする幕僚たちに歓待されると、連日連夜のもてなしを受け


「越騎将軍よ。いまや、父上が陣中に没し四海は都を狙う悪辣な賊が大手を振るっている。そなたの武勇こそがいまこそ必要なのだ。私は若輩で心もとないが、国の為に尽くし世に平安をもたらそうと死力を尽くしている。将軍が私に力を貸してくれるのであらば、すでに憂いは去ったも同然。天下が平らかになった暁には、爵位も封土も思いのままぞ。兄弟力を合わせてこの難局を切り抜けようではないか」


 と、曹丕が下手に出たことで曹彰はすっかり気をよくし、態度を軟化させた。


 曹彰は武辺一辺倒に見えて、そこは曹操の子である。まるきり、周りが見えないということではなかった。兵を指揮することでは弟たちに引けを取らぬが、政治に関してはそれほど自信がなかった。


 ――この分ならば、頭を下げたとしてもそれほど悪くはされないだろう。


 見立てがつくと動きは素早かった。

 翌日、曹彰は衣服を改めると群臣の前で臣下として仕えることを誓い、曹丕の憂慮の一端を解消した。


「だが、これで終わりではありませんぞ。鄴には臨淄侯さまが、南の合肥はいまだ孫権が狙っておりますし、南陽には荊州の関羽が宛を狙っております。そして寿春にはいまだ去就をあきらかにしない曹洪と于禁がおります」


「わかっておるわ」

 曹丕は司馬懿を直視した。狼虎を思わせる強烈な光を帯びた瞳がジッとこちらを見据えている。


 鄴の曹植は十万余。呉の孫権も十万。荊州の関羽は三万。寿春の曹洪は七万。少なくともこれらが一挙攻め寄せてきたら、許都はひとたまりもない。あちこちに軍を出しており、曹丕を守る兵は三万余というところだ。


「丞相。ここは冷静にひとつずつ切り分けて考えましょう。呉の孫権は合肥を巡る戦いで相当な犠牲を払っております。つい先日も、満寵が呉の守備兵を駆逐して諸郡を奪い返したばかり。時間を置かねば孫権による再度の遠征は不可能と存じます。


 そして、襄陽の関羽。これは、劉備が荊州を切り従えたばかりで、領内の統治を優先するでしょう。つまりこちらも北上する可能性は極めて低い。


 そして、鄴の臨淄侯さま。確かに、河北の強力な兵が籠っていますが、それが一同臨淄侯さまに唯々諾々と従うというわけではりません。曹公によって任命された諸将は、おのれの職務を第一に優先し、この争いに加わることは望まないでしょう。なにより、兵を率いることができる将帥が臨淄侯さまに対してどう出るかは未知数。となれば、まず最初に丞相が手を付けなければならないのは――」


「都護将軍のことか」

 曹丕は曹洪の名を出すとあからさまに苦い顔をした。


「丞相、わだかまりをお捨てなされ」


 司馬懿の言葉に曹丕は眉をわずかに痙攣させるが、激した様子はなく、そのまま両腕を組んで天井を仰いだまま、黙った。司馬懿の言葉に反発はある。それらはすべて曹丕の個人的感情にもどつくものであると言えた。


 が、道理だ。人間には相性というものがある。曹丕は曹洪も于禁も正直なところ好意的に見ることができない。ここが我の勝負どころなのだろうか、と思う。


 司馬懿は、曹丕の返答を待ったまま姿勢を正している。人は難局に会うと、それに圧し潰される人間と、乗り越えてさらに一段階成長する人間に分かれる。曹丕は、かなりの時間悩んでいたが、やがて思いきりがついたのかやわらかな声で言った。


「確かに、仲達の言うとおりだ。ここで我を張っても意味はない。都護将軍も文則も曹家に歯向かうような男ではない。彼らが、自儘に行動したのも国家のことを思ってのことである。もとい、我のような若輩者が上に立つと思えば不満も出ようが、それらは今後の行動で得心させるしかないだろう。仲達よ、寿春に使者を出し、両将を慰撫して決して臨淄侯のもとに走らせるな。かのふたりは名将だ。敵に回れば手強いが、我が膝元に入ればこれほど心強いこともないだろう。我らには、いまだ四方に敵を抱えており、軍が荊州で受けた大きな傷はふさがりかけたままだ。仲達よ。今後も、我が間違った方向に進もうとしたら止めてくれ。我の蒙を啓いてくれたお主には感謝の念しかない」


 司馬懿は拱手すると、すぐさま使者を寿春に送った。


 驚いたのは曹洪である。

「なに、我を後将軍に任命するだと?」


 てっきり処罰の使者であると身構えていた曹洪と于禁は曹丕の使者から受けた褒美である多大な金銀と、さらには新たな千戸の領邑に目を白黒させた。


 于禁も新たに五百戸の領邑を加増され、多大な金銀財宝の目録を前に態度を軟化させざるを得なかった。


 ――なるほど、子桓のやつめ。我らに対する怒りよりも実を取ったか。


 曹洪はどこか拍子抜けした体で思いを巡らせた。


「丞相閣下は引き続き両将は寿春に留まり、孫権の北上に備えよとのことにございます」


 使者の言葉。曹洪の満足いくものだった。

 かねてからの懸念であった武具や兵糧も車輛を連ねて城内に運び込まれるさまをおのれの目で確認すると、曹洪も于禁もあとは名実たる後継者の曹丕に従うほかなかった。


 そして、最後に残った難問は曹植その人であった。

 曹丕がかねてより険悪であった曹洪と和解するのを見ると、形勢が変わったことを感じ取った曹植派の人間はあからさまにすり寄って来た。


 こうなると、曹植をもっともそばで支え、煽り立てていた側近の丁儀、丁廙兄弟は曹丕が派遣した許褚と精鋭部隊に鄴で捕えられ、なんら反論する機会を与えられずに首を斬られた。楊脩は目端が利き、素早く曹丕に恭順の意を伝えていたので、その首はたもたれた。


 残るは、曹植ひとりである。

 あ、これも意外に混乱は起きず平穏にことは進んだ。


 曹植は実母である卞太后の口添えもあってか一命を救われ安郷侯に任じられ粛々と都を去った。安郷は冀州北部である。僻地と言っていい。曹植は曹丕によって完全に軍権を奪われ、政治から永遠に遠ざけられた。


 ――これでひと安心と言ったところか。

 これより先は、次々に国替えをさせられ、曹植自身幾度も功を樹てるために歎願を行うのだが、すべてはその才が発現するのを恐れた曹丕によって黙殺される。


 こうして、天地を揺るがす乱に肥大するかと思われた後継者争いは幕を閉じる。


 そして、人々は鮮やかにことを収めた曹丕のもとでその存在を徐々に大きくする司馬懿を否が応でも認めざるを得なくなるのであった

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