第023回「曹軍の反撃」

 孫権が山越を防ぐために南に帰ったのは、程昱が行った魔法の結果である。


 曹丕はこの報告を聞くと勢いよく両膝を打ち喜悦を隠さずに立ち上がって、すぐさま命を下した。


「さあ、我が領土を取り返す時ぞ」

 漢の建安十四年(二〇九)三月。


 許都に集結した精兵が頸木を離れた奔馬のように進発した。

 率いる将は満寵。

 曹軍の誇る稀代の名将である。


 満寵は字を伯寧といい、山陽郡昌邑県出身である。


 満寵は十八歳で郡の督郵になると、当時郡内を私兵をかかえて荒らしていた李朔らを捕えて処罰し、若くして勇名を馳せた。


 曹操が兗州を支配すると召し出されて従事になり、やがて大将軍となると西曹属に任命され許都の令となる。


 当時、曹操の一族である曹洪は親愛されて高い身分にあったため、その食客たちは行政区域内でたびたび法を犯していた。


 満寵は当然食客たちを逮捕し取り調べを行った。

 その苛烈さを知っている曹洪は手紙を送り、内々に処分を軽くして欲しい意向を伝えたが満寵が手心を加えることはなかった。


 まずいと思った曹洪は曹操に言上して食客たちの赦免を願おうとしたが、それを察知すると満寵は素早く彼らを殺した。曹操は内心どのように思っていたかはわからないが「ことの処理はこのようにするべきだ」と言ったが、曹洪が満寵をよく思うことはなく禍根が残った。


 また、満寵はもと大尉である楊彪が逮捕されて県の牢獄に入った時も、尚書令の荀彧や少府の孔融が「罪状について聞くに止め、痛めつけないように」と頼んだが、無視して冷酷無比な取り調べを行った。


 挙句に曹操へ「楊彪の罪が明確ではないので釈放しなければ曹公の名声に傷がつく」と言上した。これには曹操も怒りで頬をピクつかせたことは察してあまりある。満寵の本質は酷吏であるといってよいだろう。


 一事が万事この調子だ。満寵は法に厳しく、四角四面な性格で曹操やその幕僚たちも酷く扱いにくかっただろうと推察できる面倒な男であった。


 だが、彼は武芸に優れ勇猛で戦術眼はとびきりであった。かつて、袁紹が河北を有して勢力が盛んであったころ、汝南は袁紹の本籍地であり門生や食客が諸郡に散在し、兵を抱えて抵抗を行い、曹操の頭を悩ませていた。


 曹操はこの事態を解決するために満寵を汝南太守に任命した。満寵は即座に部下五百人を集めると、彼らを率いて二十余の砦を攻め落とし、まだ降伏しない袁家ゆかりの指導者を招き集めると座上において十余人を殺害し、一挙に平定した。この結果、戸数二万、兵二千を手に入れ農耕につかせた。


 孫権が合肥や、周辺諸郡を守るために置いていった兵は僅かである。一万を超えない程度であり、同時にそれは合肥までの補給が切れた証拠であった。曹丕に命ぜられて合肥に到着した満寵は、城の防備を探らせると薄く笑った。


「いとたやすきことよ、これより城を落としにかかる」


 満寵の用兵は衆に優れている。程昱の策で急遽、本拠地に戻ることになった孫権の軍勢は城の修復を行う時間がなかったのだ。


 激戦によって、打ち砕かれ防御力を失くした城に籠る兵を追い出すのに苦労はない。満寵が軍を進発させると、それ阻む呉の軍勢が現れた。


 孫権が廃城同然の合肥に残したのは淩統である。

 淩統は字を公績といい、呉郡余杭の出身である。


 淩統の父は同じく孫権に仕えた破賊校尉の淩操でありその武勇は呉でも指折りであったが、江夏討伐時に敵の流矢に当たって戦死している。淩統も父譲りの勇猛さを秘めており、彼の性格を表すエピソードは強烈だ。


 淩統が山越の不服従民の討伐に参加した時の話である。孫権は保屯を打ち破ると先に軍を返し、麻屯の一万の敵はそのままであった。


 淩統は督の張異に従い、麻屯に攻め寄せ包囲した。それから万全を期すために日取りを決めて総攻撃を行うことになった前日のことだ。


 淩統は督の陳勤と酒席を共にしたが、かの者は自分の気持ちのまま振舞う性格で、要するに酒癖が悪かった。陳勤は酒席の主人であったが、一座の者を小馬鹿にするので、凌統は黙っておらずさすがに注意した。だが、酔っている陳勤は腹を立てて淩統を罵倒し、しまいには父である淩操の悪口まで言い出したのだ。


 いくら上役とはいえ、ここまで酒癖が悪いと座は白ける。みなは呆れて退出したが、酒の勢いでますます理不尽になった陳勤は酒席の外に出たあとでも淩統を罵倒し続けた。


 史書は基本的に簡潔に記すことが多いのだが、ここまで詳細に書かれているのはよほどに陳勤の行動が陰湿で異常だったのだろう。


 淩統の怒りは爆発した。


 酔った陳勤は刀で激しく斬りつけられ、その傷がもとで死んだ。督を殺せばどうなるかは淩統も理解していたのだろう。


 屯の総攻撃の日に淩統は「死んで詫びるしかない」と思い、士卒を督励し自ら矢面に立って攻撃を行った。


 死なばもろともの精神により、結果、敵を完膚なきまでに打ち破った。


 戦が終わったあと、凌統は軍正に出頭したが、孫権は淩統の剛毅さを褒め、手柄を立てて罪を贖えるように配慮した。さらに、江夏攻めでは黄祖の部将である張碩を斬り、先陣を切って城を攻撃して大勝利を収めることに貢献した。


 その淩統を破るために満寵は軍を粛々と進め、城外の荒野で対峙した。満寵は、北上して淮南郡や廬江郡に駐屯していた孫権の軍兵を虱潰しに掃討し、軍の士気は高まっていた。


「やはり城外での決戦を望むのか」

 布陣した呉軍は索敵による情報で七千ほどだ。あれならば、合肥にはほとんど兵は残っていないだろう。敵の主将は淩統である。


 満寵は、呉でも有数の猛将である淩統の性格を調べ上げると、必ず野戦に持ち込んで来ると踏んでいた。


「さあ、ひとつ揉んでやろう」

 満寵が待ち構えていると、凌統は騎兵を出撃させてまっしぐらに向かって来た。詐術のない攻撃である。満寵は、盾を前面に並べると構えていた弩から一斉に矢を吐き出した。凄まじい勢いで雨のような矢が淩統軍に降り注ぐ。


 が、凌統は騎兵の動きをゆるめることなく、そのまま突っ込んで来た。満寵は弩隊を下がらせると、歩兵を出して真正面から淩統軍を受け止めた。


 怒号と歓声が飛び交い、戟と戟とが打ち合わされ、刃のぶつかり合う硬質な音が響き渡った。ぬかるみが多く、水質の悪い地形だ。足元には力が入りにくく、歩兵たちは互いに咬み合うと、態勢を崩して倒れ、次々に命を失った。多数の兵が揉み合いながら、突かれ、切り裂かれて倒れ伏し、大地は朱に染まってゆく。


 ――思った以上に剽悍だ。

 淩統の突破力は満寵が予期していた以上であった。徐々に、陣がズルズルと後方に押されてゆく。


 兵数も装備も圧倒的に満寵が優っていたが、凌統の突撃は幾重にも備えていた防備を易々と貫いてゆく。


 が、満寵は慌てず冷静に予備の歩兵を扇のように広げて左右から淩統の前衛を包んでゆく。消耗度を度外視した淩統は短期決戦で満寵を破ろうとしているのだ。


「我慢比べとゆこうじゃないか」

 錐を揉み込むように頭を入れて来る淩統であったが、満寵は兵を督励しながら先端を突き抜けさせぬように踏ん張った。


「者ども、陣を破らられば軍は崩壊する。ここが耐え時ぞ」


 馬上で剣を振るいながら、凌統の旗を見る。凄まじい鋭気だ。満寵は額に脂汗を滲ませながら、態勢を崩しがちな部分を丁寧に補強する。


 次第に、凌統の進みに鈍重さが見え、やがてそれらは顕著になった。


 ――もう少しだ。淩統の脚が止まった時が勝負だ。頼む、耐えてくれ。


 果たして、満寵の読み通り淩統の突撃が不意に圧力を失った。耐えきったのだ。


 こうなると、数が倍近い満寵軍は有利だ。次第に包囲の輪を縮めてゆく。後方を遮断されることを恐れて、淩統軍は逃げ腰になった。


「いまだ、一挙に討ち取れ!」

 号令と共に満寵軍が打って出た。残った精気を振り絞って歩兵が前に出ると、淩統軍の陣が崩れ始めた。


 恐れが瞬く間に伝播すると、兵を止めることはもはや何人たりとも不可能である。ひとりが逃げ、ふたりが逃げ、やがてそれらは我先にと、雪崩を打って逃走を開始する。


 軍は戦う意思を失った。逃げる姿勢がみなに染み込むと、軍は秩序が保てなくなる。


 満寵の軍が整然と攻撃を行い始めると、淩統軍は潰走し始めた。こうなると戦いは一方的だ。満寵は、逃げ出した敵軍の背を叩きに叩き、敵軍を破壊した。


 数刻のち――。

 合肥からも火の手が上がり、満寵は呉を淮南一帯から追い払うことに成功した。


 ――なんとか勝てたか。

 満寵は勝利したが、凌統はこれまでに戦ったことのないほどの強い将であった。その証拠に、倍する兵を保持していた満寵軍も二千近い損害が出ている。


 もっとも、凌統の七千のほとんどは霧のように消えていった。事実、凌統が江東に戻った際には、数百の兵しか残っていなかったのだ。


 ――これで、ある程度猶予を得ることができたな。

 満寵は淩統を追い払うと、曹丕に向けてすぐさま上表文を送った。


「合肥城は南に江湖、北は寿春より遠方に位置しており、孫賊が攻撃をする際に水を利用して優位に立てますが、我が軍が救援する時にはまず、賊の大軍を打ち破らなければ城の囲みを解くことはできず、甚だ不利でございます。つまり、現在の合肥城の位置は孫権が攻撃を仕掛けるのには容易であるが、我が軍が救援に駆けつけるのはたいへん困難な位置にあると言えましょう。


 臣が考えますれば、合肥の城兵を移動させることが肝要であると存じます。わたしが調べたところ、合肥の西方三十里に依拠すべきすばらしく堅固な要害がございます。改めて城を立て、固守しますれば、それこそ孫権を平地に引き込みその帰路を後方から窺うことになりまして、我らは計略の点で大変有利になると思います。なにとぞご一考を」


 満寵は、孫権に破壊された旧合肥城よりも江から離れた内陸部に新城を作ることを提案したが、これに対して護軍将軍蔣済は異議を唱えた。


「城を移すとは天下に弱さを示すことになりかねません。城の煙火を眺めて城を壊すことになり、それこそ攻撃しないうちに自落することと変わりありません。ひとたび、そのような状態になれば敵の劫略は果てしがございません。どうあっても淮北を守備線となさいますように」


 蒋済の主張を聞くと満寵は曹丕に重ねて上表文を送った。


「孫子は兵は詭道であると述べています。それゆえに、力があれば弱そうにみせかけ、そうでなければ有利な立場を誇示して敵を恐れさせなければなりません。それは外見と実質を必ずしも対応させないことを意味するのです。


 また、よく敵を誘うものは弱さを示すとも申しております。いま、孫権が攻め寄せて来ぬうちに城を移し替え内部に退くのは、外観を示して敵を誘うものなのです。水戦の得意な呉の者どもをもとの城から遠く引き離し、有利な時を選んで戦えば、必ず我らは大勝できましょう。これこそ内に幸いを生じさせる策なのでございます」


 曹丕は両者の考えを吟味すると、守備線を重要拠点である寿春近くの淮北に引き上げるよりも、合肥付近で迎え撃った方が危険が少ないと判断した。

 

 満寵の申し出を「諾」とし、現在の合肥よりも内陸部に位置する場所に新しい城を築くことを決めた。


 これが合肥新城である。


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