第018回「合肥の攻防」

 さて、孫権の動きである。

 時をわずかに遡る。劉備と諸葛亮が智嚢を振り絞って曹操を撃滅している最中、彼は彼で木偶のようにジッと座したままなにもしなかったわけではない。呂蒙から送られてくる戦況を周瑜と解析しながら、劉備が善戦していることに気づき、揚州から北に向かう準備も抜かりなく進めていた。


 そして、劉備が歴史を揺り動かした。もはや、誰の目にもあきらかなほど漢王朝の衰亡はあきらかである。だが、あの弱小である劉備が北の大軍を撃滅して、曹操自身を討ち取ってしまうなどとは驚天動地の事件であった。


 ――劉備とはそれほどまでの英雄だったのか。

 曹操死す。その一報を聞いた孫権は勢いよく立ち上がると、冬眠し損ねた熊のようにあたりをうろうろと動き回った。呉軍の総指揮官である周瑜も絶対にありえないであろうこの逆転劇には心底驚いたのだろうか、端正な容貌を歪めて「うむう」と低く唸った。


「孫主よ。こうなれば愚図愚図している暇はありません。いまや、日の出の勢いである劉備を降すことはまずもって不可能です。ここはすみやかに軍を発して合肥を落とすことが肝要かと」


「む、むう。そうだな。よし、公瑾よ。我らもこの機を逃さず、全軍をもって中原に鹿を追うぞ!」


 孫権は満を持して長江を渡った。冬の冷たい風を浴びながら、江を埋め尽くすような船団が凄まじい速度で進んでゆく。孫権は徐州の合肥攻略に向けて軍をふたつに分けた。


 一手は、孫権自身が率いる本隊で、率いる部将は、孫桓、呂範、潘璋、周泰、甘寧、朱桓らの総勢五万。


 もう一手は、周瑜が率いる別動隊だ。こちらは皖を攻略してから合肥を目指す。率いる部将は、程普、黄蓋、韓当、呂蒙、徐盛、凌統、太史慈ら総勢三万である。


 ここで、ほとんど触れられていない水軍に関してしばし述べておきたい。水軍の主となるものは楼船と呼ばれた。楼船とは多層の甲板を持った大型船のことで、外観が楼閣に似ていたことからそう呼ばれた。幅が広く動きは鈍かったが、弩を携えた多数の兵士を乗せることができ、強い攻撃力を有してさながら水に浮かぶ城のような船である。


 孫権は楼船を使って東南アジア諸国に使者を送った際には、七枚の帆を張って六、七百の乗員を載せて長距離を運行させた。


 楼船は大型で主力であったが、単独では用いなかった。周囲にはさまざまな機能を持つ船を配置して陸戦と同様にひとつの陣形を組んで戦うのが常であった。


 漢末の学者である劉煕の記した釈名には、斥候、先登、艦、艨衝、赤馬、艇などの各種の戦船に関しての説明がある。


 斥候は望楼を持った船で敵を視察するいわゆる巡視艇。

 先登は敵船隊めがけて突撃する快速艇。

 艦は楼船と同様に多人数の兵士が乗り込む主力。


 艨衝は細長く幅が狭い船体で、敵に体当たりを喰らわせ撃沈することを主眼とした船。


 赤馬は船体を赤く塗って馬のように速く走ることから、そう呼ばれた。いわゆる競艇用のカヌーのような快速船。


 水戦はこのような楼船に各種の艦船を配備し、ひとつの軍としてまとまり戦われた。


 これらの大軍を迎え撃つは、曹操に廬江太守として任じられ皖城を守る朱光である。


 朱光は、皖に本営を置き、盛んに水田を開墾させ力を蓄え、鄱陽の不服住民の首領に誘いをかけて、曹操軍に内応させようと計っていた。このことを、呂蒙は


「皖の田地は肥沃であり、ひとたび豊作となれば彼らの軍勢は必ずその数を増します。そうしたことが数年続けば、曹軍の意図が現実化して、孫主や我ら揚州勢が脅かされるのは間違いありません。合肥を攻略するのは悲願でありますが、まずその前に目障りな皖を落として進撃しなければ、後顧に憂いを残すこととなりましょう」


 と、孫権に上陳したので、周瑜率いる別動隊三万は皖城の攻略に向かったのだった。


 ――ふむ。これならさほど手間はかかるまい。

 周瑜は小舟を近づけて軍を上陸させると城構えを見てほくそ笑んだ。皖城は周瑜が想像していたほど強固そうではなかった。


 劉備が荊州で曹操を斃したのは青天の霹靂であるが、徐州に攻め入る呉軍としては絶好の機会である。ここで日数を無駄に浪費すれば、許都からの強力な援軍が来ないとも限らない。ならば、少々の無理攻めをしても落としておく必要がある。


 周瑜の命を受けて、まず先鋒の太史慈が火の出るような猛攻を行った。


「我に続け」

 太史慈の勇猛さは呉においても指折りだ。自ら陣頭に立って吠えた。呉軍は空が見えなくなるほどの矢の猛射を行うと、金鼓を打ち鳴らして、城壁を一斉に登った。


 この時、徐州にも曹操討ち死にの報は伝わっており、城兵の脱走は絶えず続き、朱光の率いる兵力は二千にも満たなかったであろう。


 曹操の支配地は広大であったが、後継が未だ定まらずに許昌にいる暫定的な当主と目される曹丕も呉の総攻撃に対応が遅れがちであった。


 自然、城を任された将はそれぞれの才覚で働かならねばならず、援軍が期待できないととなれば士気は常に低くても仕方がない。


 皖城は落ちた。


 城主である朱光は城門が破られても、屈する姿を見せず、わずかに残った兵を指揮して懸命に戦った。


 しかし、太史慈の指揮する強力な攻撃には抗せず、乱軍の中で落命した。戦闘後、多数の骸の中から見つけ出された朱光の顔は軍馬により踏み躙られ、降伏兵によってようやくそれが彼であることがなんとかわかったという酷いありさまだった。周瑜は、朱光の敢闘精神を称えると、彼の骸を手厚く葬り、勝報を孫権に送った。


「でかしたぞ、公瑾」

 劉備が曹操を斃し荊州を得たことに苦い思いを持っていた孫権は、周瑜からの書簡を携えた使者が驚くほどに喜びを露にした。


 ――これでさらに進撃できる。

 周瑜はすでに軍を進発させて、龍舒を落とし、舒を制圧しながら合肥にまもなく到着する位置にまで移動している。


 合肥は九江郡有数の都市である。見渡す限りに見える無数の沼沢が点在する水郷地帯の中でも比較的高台に造られた街だ。

 東肥水と西肥水の合流地点にあるので合肥という名前で呼ばれていた。


 この時の合肥には七千程度の兵士かおらず、急ぎ、主将として着任した朱蓋ひとりでは八万を超えようとする孫権軍には抗しがたかった。


 合肥の城自体はかつて曹操が揚州刺史として任命して送り込んだ劉馥が過剰なまでに防備を厚くしておいたので、特別に強固であった。しかし、八万の兵を率いる孫権と歴代の諸将の前では風前の灯と言っても差し支えないだろう。


 この合肥城を強化した劉馥は字を元穎といい、沛国相県の出身である。劉馥はかつて、建安の初期に袁術の将であった戚寄と秦翊を説き伏せ、曹操に帰順した過去がある。


 劉馥は、曹操の命を受けると単身合肥の空城に乗り込み、州庁を設置すると数年のうちに周囲の民に恩恵教化を行き渡らせ、土地を肥えさせた。劉馥は、いずれ南からの侵攻がある予見し、土塁を高く築き、木や石を積み上げ、草筵を数千万枚編み上げ、魚油数千石を貯蔵して来るべき時に備えたのだ。


 曹丕も呉の侵攻を黙って指を咥えていたわけではない。曹丕自身の将才は並以上だとしても、一世の英傑である曹操と比べること自体不可能であった。


 しかし、曹丕のそばには人材収拾が半ば癖であった父曹操が搔き集めた謀臣や名将がまだまた残っていた。


「よし、張喜と蔣済を援軍に送ろう」

 泥縄であるが、曹丕はふたりを合肥の援軍として千人の兵を授けて、途中、汝南を通過させる際に兵を徴募させながら進ませるという方針で出発させた。


 蒋済たちの率いる兵は頭数が少なく、また疫痢で弱体していた。さらには、曹操の死を知った汝南の土豪たちからは考えていた以上に兵の集まりがよくなく、予定の万余には到底届かず、五千程度の雑軍を編成するのが精一杯だった。ここで、蔣済は一計を案じた。


 ――孫権を騙す以外にこの窮地を乗り切る方法はない。

 蒋済は歩騎四万を率いてまもなく到着するという書簡を携えた使者を、わざと孫権に捕まるように手配したのだ。この書簡を目にした孫権はわずかに躊躇した。許都から四万の兵が援軍として合肥に籠れば、まず落とすことは不可能だろう。たとえ合肥を落とせたとしても、その時に呉軍は目に余る被害を被り、その傷の大きさは計り知れない。


 ――なんたることだ。

 孫権はこれを幕僚たちに計ったが、静かに聞いていた周瑜が小さな微笑を浮かべた。


「孫主よ、これは稚拙な策ですな。曹丕が送った援軍の蔣済が汝南で兵を集めているとは聞きましたが、曹操の死により思うように上手くいっていないとのことです。四万の兵というのも、我らを退かせる疑報に違いありません。このような些細なことは気にせず、この機に乗じて攻め落としましょう」


 城将である朱蓋、それに合肥を築城した劉馥の子である劉靖は眼下を埋め尽くすほどの兵を率いてやって来た孫権を迎えながら、決死の覚悟で防戦準備に努めていた。


 朱蓋は城兵を励ましながら、東に濡須口からの孫権の五万、西に皖城からの周瑜の三万を迎えて善戦した。開戦から三日間、呉軍は火の噴くような苛烈な攻撃で合肥を攻撃した。


「ようし、あまり急ぎ過ぎるな。よく、ひきつけてから射殺せ」

 朱蓋は、蟻のように城壁に取りつく呉兵に向かってこの日のために備えておいた弩を乱射した。


 漢代の弩の張力は平均が六石とされている。一石は三十キロなので、百八十キロは優に超える力を持っている。これは、数百メートルまで飛翔する力を備えており、至近距離で朱蓋軍の弩を受けた呉兵は、まるで紙人形のように宙をくるりと舞って、地に落ち五体を打って即死した。


「石だ。石を落とすのだ」

 わらわらと攀じ登って来る呉兵に向かって、朱蓋の指揮通りに合肥の兵たちは両手で抱えるほどの巨大な石を次々に投げ落とした。落石は、実にシンプルであるが強力な破壊力を持つ古代からの兵器である。


 登りかけていた兵士たちは落下する石に対していかなる防御姿勢も取ることはできない。頭を砕かれ、身体を打たれて悲鳴を上げながら城壁の下に落下し、骸は折り重なって山と成った。


「ものどもはなにをしておるか。この体たらくはなんぞや。合肥の曹軍はたかだか七千程度だ。犠牲など顧みずに攻撃を続けよ!」


 孫権は、攻防が間近で目に見える位置まで進出すると、自ら剣を引き抜き合肥の反撃に及び腰になっていた部将たちへと強烈な発破をかけた。


 この主の激励叱咤に、甘寧をはじめとする猛将が苛烈な攻撃をさらに加えるが、合肥はこゆるぎもしない。朱蓋は整然と城兵を指図し、まるで呉軍を寄せつけない。孫権の苛立ちは次第に高まるが、攻城戦は兵士が多いからと言ってそう簡単に決着がつかないのが常である。


「孫主よ。合肥の兵はたかが知れておりますれば、そう焦らずとも落城は時間の問題です。それよりも私が恐れていますのは、曹丕の出方です」


「援軍か? しかし、いまの状況ではそれほどの大兵は編成ができないであろう」

「かといって、合肥は我らと曹軍の重要な国境線。この土地の重要性は敵も熟知しております。また、曹操が斃れたといっても、かの者が集めた賢臣や名将はいまだほとんど健在。当然、次の手を打って来るでしょう。城よりも、それが心配なのです」


「うむう」

「確かに、このまま落ちぬ合肥の城を囲んでいても軍の士気が下がるだけです。それよりも、ここはひとつ東北にある逍遥津を落とすのはどうでしょう」

「逍遥津か」


 孫権は周瑜の提案に低く唸った。大きな手のひらで丈夫な顎と髭をしきりにさすっている。津とは河川の渡し場のことで、重要な交通の要所でもある。この逍遥津を守る砦にも曹軍は五百の兵を籠めていた。


「よし、搦め手でゆこう」

 孫権は呂範に三千騎を与えると攻撃を開始した。呂範は孫策の配下として仕え、各地を転戦した歴戦の勇士である。軍を逍遥津に進めると、まず砦に向かって一斉に弩を猛射して敵の気勢を削ぎ、それから機を見て歩兵を突撃させた。老練な呂範の攻撃に曹軍の五百は瞬く間に戦意を失い、北に向かって潰走した。


 逍遥津を呂範があっという間に落としたことで孫権は幾分溜飲が下がったのか、弾けそうな怒りを収め、微笑を口元に浮かべた。周瑜の献策通り、あとは合肥を囲んで根気よく攻撃を続ければよいのだ。


 さらに三日ほど猛攻を続け、幾分、合肥から立ち昇る鋭気が薄れたかに見えた時、許昌より曹丕の発した援軍が寿春に到着したという報が孫権の軍営にもたらされた。


「敵の将は誰ぞ」

 ――曹洪。


 その名を聞いたとき、孫権も幕舎にいた周瑜も顔色を変えた。曹操の従弟であり歴戦の名将である。戦が苛烈になることは予見された。孫権は瞳をぎらつかせると勢いよく立ち上がり、飢えた虎のような声で吠えた。


 合肥はいまだ落ちない。


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