第016回「劉備の南巡」

 荊州から曹操が永遠に去った。諸葛亮は、これで主君である劉備が荊州における南郡の江陵県、県、秭帰しき県、中盧ちゅうろ侯国、編県、当陽県、華容侯国、襄陽県、邔侯きこう国、宜城侯国、じゃく侯国、臨沮りんしょ侯国、枝江しこう侯国、夷道県、夷陵県、州陵県、佷山こうざん県の十七城を手に入れたことになる。


 新野ひとつだった昨年と比べれば、膨大な版図を得たと言ってよい。幾何級数的な増え方を見れば、劉備軍の計数に明るい官吏は諸葛亮の行った技はまさしくマジックなのだ。


 蜀漢帝国を建国した際に、益州一国が七百万強程度の人口であったことを考えればいまだ南部の四郡を手に入れていない状態でも劉備は相当な官吏や兵馬を養う経済的基盤を手に入れたことになる。


 劉備と諸葛亮たちが敗軍の曹操を追っていた時、江陵の背後では途方もない背信が行われつつあった。すなわち、夏口周辺に駐屯していた呉の軍団の動きである。三万の兵を率いる呂蒙は、最初、劉備が火攻で曹操に大勝したことをなかなか信じず、それどころか警備の名目で江陵に侵入しようと大挙して迫って来た。これを敢然と追い返したのは李厳である。なにせ、仕えたばかりの劉備がたった一戦で大陸最強と謳われた曹操を屠ってしまったのである。


 ――嗚呼、我は真に仕える主君を見出すのに間に合ったわ。

 北国の強兵による無敵の大軍団を鮮やかな火計で焼き払い、さらには敵の総大将まで討ち取ってしまった劉備の武略は凄まじい。この時、劉備の偉業は荊州の民衆すべてにいにしえの光武帝、或いは高祖の生まれ変わりであろうと、もてはやされるほどに広まり、さらに神格化される最中であった。


 無敵の曹操を破った劉備は古今類を見ない英雄であり、その家来である自分が江東の土豪如きに破れるはずがないのだ。主の力がおのれにまで到達し、ある意味自己を同化させ英雄視するほとんど狂気染みた妄執と勇気は凄まじかった。


 たった一万の兵であるが李厳はどのような敵が攻めて来ようが、

 ――我らには、劉備玄徳がついている。

 という、神威が常にバックボーンにある以上、軍に恐れが生じるわけがなかった。呂蒙は、この一歩も退かぬ李厳の持つ異様な覇気に圧倒された。


 やがて手に入れた情報から確かに劉備が曹操を討ったと確信を得ると、柴桑の本営に裁可を得る前に軍を退いた。これは、夏のころに、劉備が騎兵を派遣して、曹操軍でも指折りの名将である張遼と徐晃を撃破した事実も大きかった。


 ――おそらく、いま現在の劉備は我らが知る劉備とは違う。

 知のある呂蒙は無意味な戦いをしない。軍船を残らず引き揚げさせて柴桑に戻ると、孫権と謁見し、自らが見聞きしたもの、手に入れた情報をあますことなくさらけ出した。


「ふむう、まさかあの劉備が」

 孫権は、報告を聞くとすぐさま魯粛と周瑜を召喚し、わずかに三者で会談したのち、議場において劉備との約束通り徐州を攻めるという決定を下した。


 遅い、と感じていたのはこの三者の中で魯粛だけであると決定付けるのは疑うということを知らず身に付けず今日まで生きてきた者だけだろう。同盟の意義として、劉備は孫権に対して曹操を防ぐかわりに徐州を攻めてほしいと願い、互いに了解していたはずである。


 だが、政治はそれほど単純にはできていない。孫権も、周瑜も劉備と曹操が争っている間に、虎視眈々とどちらかが肉となり、安易に食めないかと狙っていただけのことである。それが証拠に、孫権と曹操が取り合っていた合肥に騒乱の気配は満ちていなかった。孫権は隙あらばと呂蒙の船団のほかにも柴桑へと秘密裏に力を集中させていたのだ。


 孫権の軍が夏口から退いた知った諸葛亮は胸を撫で下ろした。この状況で、両面作戦はさすがに取りたくなかった。劉備と孫権が争えば、いまや虫の息であった曹家の軍団は案外あっさりと息を吹き返してしまうかもしれない。


 ――それよりも荊州南部を掌握せねばならない。

 前世では、江陵はこの時期曹操のものであり、周瑜が力戦して攻めていた。だが、いまや南郡を手にした劉備を遮る者はいない。


 荊州南部は、武陵、零陵、長沙、桂陽の四郡で構成されている。諸葛亮の記憶している限りでは、前世でこの四郡を攻略した際には、せいぜい三千ほどの軍勢であったが、現在の劉備軍は八万近い。これらを、襄陽や江陵など主要都市に割り振っても、平定に必要な兵士は余りあるほどだ。


 早ければ早いほど南巡は効果を発揮する。

 すでに、劉備が曹操を斃したことで、その威名は四海に広がっていた。その効果を、劉備も諸葛亮ものちのちに痛いほど実感することになる。


「主はなにもなさらずとも構わないのです。武は必要なく語りかけてください」

 江陵から南を目指せばそこは武陵である。劉備の盛名は時間が経つにつれて光と荘厳さを帯び、ゆったりとした一万の兵には王者としての風格さえ漂わせていた。南方の四郡は、劉琮が降伏した際に曹操に属することになった太守たちばかりである。


 ――だが、いまやその畏敬の対象は霧のように消え去った。

 劉備の軍行には荊州の名のある士や兵が次々に加わった。兵士は瞬く間に一万五千ほどに増えた。力とは膨張する時は、まさしく雪玉を雪原に転がすかのように、無尽蔵に増えてゆく。群府に近づくと、寒さが一段と増した。



 武陵の太守は金旋という男だ。

 金旋は字を元機といい京兆尹の出身である。黄門侍郎から漢陽太守となったのちに、改めて徴召され議郎を経て中郎将となった。そして武陵太守を兼任した。普通にエリートと言っていいだろう。劉備は戦端を開く前に、書簡を送って金旋に降伏を促した。


 ――すでに曹操は死んでいるのだ。金旋にはもう寄る辺はない。

 だが、現実が見えないのか、あくまで武陵太守として降は行えないのか、金旋は劉備の本営に


「偽言は通用しない。我らは断固として抵抗し、曹丞相の援軍を待つ」

 とだけ伝えて来た。愚かであるが美しくもあると諸葛亮は感じた。

 この時の劉備軍には荊州ですでに得た粒ぞろいの良将がそろっており、経験や錬磨は完璧ではなかったが、のちの蜀漢帝国を支えるオールスターが多数存在した。


 実際、金旋ひとりでは持ちこたえようがなかった。諸葛亮が指揮を執って、一斉に攻撃を始めると、金旋は瞬く間に陣を瓦解させて城に逃げ込んだ。


「けっ、なんでえ。話にならねえじゃねえか」

 張飛が蛇矛の柄を握る手に唾を吐きかけ悪態をつきながら、金旋が逃げ帰った城を睨んでいる。


 金旋の兵は三千ほどであったが、昼間に行われた一戦で半数近くが斃れ、かなりの兵が劉備軍に帰順していた。


「愚かなことを。金旋はどうやら目が見えぬようだ」

 劉備が騎乗しながら悲しそうな目をした。戦場には一方的に屠られた歩兵が屍を晒している。すでに荊州は劉備のものであり、それゆえ無駄な血を流すことがどれだけ意味がないか、主は知っているのである。諸葛亮としても、これほど格下の敵と戦う意味合いは見いだせなかった。


 ――ここは城内の父老に働きかけるほうが話が早いだろう。

 諸葛亮は、荊州を政治的に総覧しており、どの郡にどのような長老がいて、隠然たる実力を持っているかを記憶していた。姓名どころか、その一族における主要な人間の名前を数十人単位で把握している諸葛亮の書簡による説得は、軍を振り向けて城内を威圧するよりもよほど手っ取り早い。


「主よ、ここは私に考えがありますれば、お任せください」

 劉備の許可を受けた諸葛亮は密かに城内へと送り込んだ密使によって父老に書簡を届けさせた。書簡には、いまや曹操を討った英雄である劉備にしか荊州を治めて平和をもたらすことはできないという趣旨か記されていた。


 荊州人は、基本的に北の曹操も東の孫権も嫌っている。諸葛亮は荊州が独立国として存続するには当世の英雄である劉備に預けるしか道はないと強く印象づけたのだ。


 翌日の朝、城内からは幾多の兵士を従えた父老の使者が金旋の首を桶に入れて、城外に陣を張る劉備のもとに届けてきた。


「とりあえず武陵はかたづいたが、あと三郡か」

「いまは時間が惜しい。今月中にかたづけましょう」


 諸葛亮の言葉に、劉備と軍を統括していた張飛があからさまな驚きを見せた。劉備本人すらあまり理解していないが、曹操を討ったという事実がどれほど大きいものかを知るいい機会である、と諸葛亮は考えた。四海にその威を轟かせていた曹操をたった一戦で撃滅した劉玄徳の名は古今東西歴史書に書かれた伝説中の人物以上の格をすでに与えているのだ。


 ここでいう、残りの三郡を守る太守とは

 長沙の韓玄

 桂陽の趙範

 零陵の劉度

 この三人である。


 諸葛亮が調べたところ、各郡にはそれぞれ三千近い兵力があり、各太守が曹操に節義を貫いて強力に抵抗を行えば、ひとつの郡を下すのに一カ月は必要となり年を越えてしまうだろう。


「そうはなりません。武陵が一両日に降伏したことで、追い風はこちらにあることが証明しました。すでに荊州は主のものであります。あなたさまが歩けば、その地は自ずと領地に組み込まれたとも同然です。すべては、この私におまかせください」


 諸葛亮は、劉備の許可を得て残りの三郡へと同時に軍を発した。長沙には習珍、桂陽には劉磐、零陵には霍峻である。この三将は瞬く間にそれぞれの群府を攻め取り、年をまたがずに、荊州の南四郡は劉備が完全掌握するところとなった。


「孔明、まさしくそなたは我が太公望だ。お主がいなければ、私はいまごろ曹操に追われ、交州あたりをあてもなくさ迷っていただろう」

「いえ、すべては主の威徳と有能な将たちのおかげです。私は、ほんのわずかに歩みやすい道を選び取ったまでです」


 これにて建安十三年(二〇八)の十二月に荊州は事実上平定され、劉備は南陽郡(一部)、南郡、江夏郡、武陵郡、零陵郡、長沙郡、桂陽郡の六郡強を手に入れた。


 さらに諸葛亮は劉備と計って、南郡と武陵郡の境に位置し、江陵からやや南の場所を公安と命名し本拠にした。


 襄陽には関羽、江陵は張飛、江夏は劉琦、武陵は潘濬、長沙は李厳、桂陽に向朗、零陵に麋竺を置き、さらに南方の四郡の都督に今回江陵を押さえた立役者である徐庶を軍師中郎将に任命して統括させた。


 曹操の脅威は完全に排除されたかに見えたが、南陽郡の穣県に劉備をあくまで認めないとして、新野に駐留していた曹操旗下の馮楷が現れて樊城を目がけて侵入する勢いを見せた。


 これを知った関羽は直ちに軍を編成すると、土地を荒らしながら進撃する馮楷に長子である関平と新たに加わった廖化の二将軍を当たらせた。


 馮楷は曹操の荊州平定戦役において後詰を務めており、当陽の戦いでは難を逃れて北帰していたのだろう。この時の馮楷の兵力は五千に満たない。本気で襄陽を攻略に来るとは思われないが、南陽郡南部に勢力を伸ばしつつあった関羽にとっては目障りだった。


「たかだか五千程度とはなめられたものだな」

「父上、わたしにおまかせください。蹴散らしてみせます」


 関羽は関平と廖化にそれぞれ三千の兵を与えて襄陽から出撃させた。若い関平と廖化は火の出るような勢いで、いまだ迎撃の態勢整わない馮楷の軍に襲いかかった。


 関平は騎兵を率いると驚くべき俊敏さで馮楷の前陣にぶつかり、その足を止めた。父譲りの優れた体格と武勇で関平は自ら馬を駆り槍を振るう。


 馮楷は曹操を斃して天を衝く勢いの軍に気圧されてずるずると後退した。関平が馮楷の軍を圧倒している間に歩兵を率いた廖化が手薄な横合いに突っ込んだ。若年であるが用兵に長けた廖化は堅実な指揮で馮楷の中軍を破り、一気に本営まで到達した。馬上の廖化は大刀を打ち振るって中核を突破すると、容赦なく馮楷の首を斬った。


 これにより劉備軍の勢力圏は徐々に南陽郡を侵食し、来るべき曹家討伐の橋頭保を築くことになる。


 勝報を聞いた関羽は破顔すると、馮楷の首を持参した両将を城門で自ら迎え

「さすが我が子と我が股肱よ。諸君らの今後の活躍に期待する」

 と褒め称え、軍の士気は城中を揺るがすほどに満ちた。


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