第015回「けだし、高祖の風」

 天下の英雄である曹操がこの世を去った。軍中に生き、軍旅で斃れたことは彼の生涯を思えば、むしろ名誉であったかもしれない。五十四歳であった。正史では魏王にのぼり六十六歳の長命とも言ってよい年齢まで到達した男が死んだ。これは、曹操ひとりの天下であるはずだった形勢を覆した形になる。


 戦いはいまだ渦中であるが、劉備はこのことが大陸に伝播すると同時に、おのれが漢の光武帝と同様の伝説中の人間になる過程を他人ごとのように見聞きすることとなる。


 この秘事は、劉備の侠気により見逃された曹操の遺臣によって、その骸を襄陽にまで密かに運び込むことに成功した。よって、いまだ戦場で戦う両軍の兵士たちはあずかり知らぬところであった。


 さて、その当陽の戦場である。

 ここに朱霊という男がいる。字は文博。元は袁紹に仕えたこの名将は、魏書において単独の伝を立てられていないが、俗に言う魏の五将と謳われた、張遼、楽進、于禁、張郃、徐晃に次ぐはずの功を持つ男であった。


 のちに後将軍にまで登った朱霊は、正史では曹操、曹丕、曹叡の三代に渡って仕えた歴戦の将軍であったが、諸葛亮の火攻によって歴史的敗北を晒した軍において、いま現在、その命も尽きようとしていた。


 ――後を追われている。

 不運にも朱霊を追撃していたのは、劉備軍筆頭とも言われる将で、のちに軍神とまで謳われた関羽雲長である。猛獣とも見紛う赤兎を駆り、騎兵を率いて猛火の中を駆け抜ける関羽の攻撃を、もはや数百騎にまで減じた朱霊の隊では防ぎきることはできなかった。騎馬が一斉に突進し、朱霊の後陣を易々と噛み砕いた。関羽は騎兵をもって敵陣に風穴を開けると、自ら重さ八十二斤の青龍偃月刀を振りかざして、鬼神の如く先頭に立って敵兵を屠った。


 関羽はかの呂奉先と同じく、自身が先頭に立ち、部隊の勇を鼓舞して戦う将としてはオーソドックスな種類の男である。


 常に、死が身近にある代わりに一兵卒にまでわかりやすい勇を見せる男の闘い方はシンプルで果てしなく強い。朱霊は、真っ赤な馬体に追いつかれたと知ると、馬腹を腿で締め上げ、逃げるのを止めて馬首を返した。


「そこな敵将。我こそは漢寿亭侯関雲長である。潔く、縛に付くか我が剣で首を斬られるかを選ぶがよい」

「これはおかしなことを。我こそは曹丞相に仕えて久しい朱霊である」


 それだけ朱霊が名乗ると関羽はなにかを思い出したかのように、眉を顰めた。かつて、朱霊は曹操の命で劉備に随従して共に戦ったことがあった。関羽は、その過去をようやく思い出したのだろう。


「これは失礼をした。そなたは朱将軍であるか。久方ぶりではあるが、いまは敵味方に分かれている。潔くみしるし頂戴したい」


「そこもとが豪勇で名高い美髯公であるかは、一目瞭然。ならば、あの世の土産話に我が槍の冴えをとくと味わうがよい」


「善き敵ぞ」

 朱霊は関羽がわずかに口元をゆるめたのを見ると、手にした槍を構えた。目の前の巨人が持つ伝説的な武勇は見知っている。これほどの軍の損害を思えば、曹主は逃げ延びこそすれ、救援の兵を送ることはまず不可能であろう。


 で、あるならば人生最後の敵が関羽ならば、格好がつくというものである。朱霊は馬の頭を左手で撫で上げ、ここまでついて来てくれたことに感謝を示した。


 朱霊は喉元からあらん限りの雄叫びを上げながら突っ込んでゆく。槍。いままで、数えきれないほどの敵を斃してきたのだ。敵が誰であろうと首を垂れて、降を乞うつもりはない。


 瞬間、目の前に冴え冴えとした蒼い月がきらりと光ったように思えた。

 嗚呼、と朱霊は意識が遠のく一瞬、首筋に冷たいものを感じた。

 脳裏には、これでもう戦わずに済むかと、どこか深く安堵していた。







 猛火がいまだ収まらぬ中、張飛は逃げ遅れた曹操軍の残党狩りに勤しんでいた。部将である魏延、劉磐、黄忠、習珍の四人に兵を分け与え、密林に逃げ隠れする敵兵を徹底的に叩いた。連携の取れない軍は惨めである。


 特に逃げ遅れたのは、恨み骨髄にあたる荊州を売った蔡一族であった。張飛は「蔡」の旗印を目にすると、自慢の虎髭が感電したかのようにぶるると震え、隊の鋭気はさらに増した。蔡瑁を旗頭とする蔡氏は劉琮を推戴して、流浪の将である劉備をあからさまに軽侮する態度を常々見せていた。


 ――今日こそその借りを返してやらあ。

「逃げるんじゃねえ、てめえら! 戦うならきちんと最後まで戦い抜け!」


 張飛は、まず、もっとも最後尾にいた蔡和、蔡中の二将を見つけると、情け容赦なく丈八の蛇矛を振り回して切っ先の餌食にした。蔡和、蔡中は張飛の蛇矛によって瞬く間に朱に染まり、死骸を野に晒すこととなる。


 張允は魏延と習珍の追撃によって部隊は崩壊し、捕斬された。蔡勲は黄忠の騎兵によって隊を破壊され、劉磐の率いる弩弓手の放った流れ矢が首を貫き落命した。


 残ったのは一族の領袖ともいえる蔡瑁ただひとりである。さすがに、荊州一の名士である蔡瑁はよく戦った。だが、そもそもが軍の統率に長けていたわけではなく、武勇に優れているわけでもない彼に、この窮地を脱する能力も胆もなかった。


 張飛は馬を駆り、一丈八尺の蛇矛を振り回して猛虎のような勢いで蔡瑁の軍を噛み砕いた。万余を超える張飛軍の一方的な攻めに、二千騎に満たない蔡瑁が立ち向かえるわけもない。


「いい加減に往生しやがれ!」

 ついには本営に斬り込んだ張飛の蛇矛をまともに脳天へと喰らい、蔡瑁は汚泥のような脳髄をあたりに撒き散らして戦場の露と消えた。


 こうして劉備軍の追撃によって、曹操軍を構成する幾多の名将は焦げた臭気の漂う湿地帯に屍を野晒しにすることとなる。


 正史であるならば、のちの魏帝国を支える名将、賢臣が幾人も消えており、歴史はその歯車をおおいに狂わせたのだ。


 劉備軍の追撃は曹操を討ち取ったあたりでにわかに鋭さを失ってゆく。それは主である劉備の感慨などではなく、実際に大敗した投降兵の多さによるものだった。

 

 二万を超える降兵のほとんどは荊州の出身であり、彼らは今回の敗戦の凄さを肌で感じ取っており、風聞であるが曹操の死も聞いていた。


 また、曹操の死が事実でなくとも、やがて北に帰る軍についてゆけば、家族がいる荊州に二度と戻れないと思う気持ちが強かったのだ。


 劉備は帷幄をめぐらすと、いまだ残敵の掃討を執拗に続けさせている一部の諸将を集めてささやかな宴を開き、そこであらためて曹操の死を告げた。劉備に従う諸将は歓喜を爆発させた。特に、張飛をはじめとする旗揚げ以来の宿将たちの喜びは大きく、麋竺などは悶絶してその場で気を失うほどであった。


 ――曹操を追い払うだけではなく、まさか討ち取ってしまうとは。

 劉備のことをどこか懐疑的に見ていた麋芳などは作戦の主要部分を担っていたこともあったが、その日から態度が一変した。


「劉主は高祖の生まれかわりに違いない」

 誰かが呟いた。それが狂喜乱舞する諸将の帷幄の中では誰とは判然としなかったが、まさしく天が告げた言葉であると誰もが信じ、劉備を尊崇すること、天と同じかそれ以上であった。


 だが、本格的に勝利の宴を開くにはいささか早かった。いまだ、南郡は各地で戦闘中であり酒に酔う暇はなかった。しかし、彼らに不満はない。将校から兵卒に至るまで劉備軍に属する男たちは、この戦場に参加したことで、数代先に至るまで勇者として扱われたからだ。当陽における戦いは、それほど歴史のターニングポイントであった。


 ここで劉備軍がすぐさま北部に進撃できなかったのは、降伏した兵の武装解除や江陵までの移動に手間取ったこともあり、あらためて勢いに乗り襄陽を落とすにしろ、軍の再編成が必要だった。


 諸葛亮は、劉備との相談の上、関羽に二万余の兵を与えて出撃させた。関羽は、緒戦において編県で陣を敷いている杜畿を見るとこれに襲いかかった。                                          


 杜畿は字を伯侯といい司州京兆尹杜陵県の出身である。若いころ父を失い、継母に虐待されたが孝行を尽くした。天下が混乱した際には荊州に数年住んでいたが、継母が亡くなったのちにその遺体を背負って北に帰った。道中、盗賊に襲われたが他の者がすべて逃げた際も杜畿は盗賊に道理を説いて退散させた胆力と弁舌の持ち主である。


 曹操が河北を平定したのちに、高幹が并州を上げて反逆した。その際、荀彧に

「杜畿は大きな困難にぶつかれるだけの武勇を持ち、変化に対応できる叡智もあわせ持っているので、彼を試しに使ってみてください」とその才知を褒め称えられた上に推挙されて曹操に仕えた。


 杜畿は政治に長け、兵糧を集めて送ることに異能を発揮し、曹操に漢の蕭何と同等であると賞賛されたほどの、政治・軍事のプロフェッショナルであった。

 

 杜畿は三千という寡兵であるが、正々と軍を指揮して一度は関羽を押し返す凄みを見せた。しかし、曹操を斃すという歴史上もっとも強力な上げ潮に乗った劉備軍の鋭気は杜畿の想像をはるかに超えた勁強さがあった。関羽は青龍偃月刀を振りかざすと眦を決して自軍の兵卒に宣言した。


 ――我らは杜畿の陣を一両日に撃破する。

 勝つべくして勝つ。それがこの男の基本概念である。関羽の兵略は極めて単純で策を弄さぬが、それだけに強かった。騎兵ひとりひとりに関羽の魂魄が乗り移ったような鬼気迫る力が生じて、それは疾風のような素早さで敵兵を翻弄した。


 杜畿は本営を突破されると、ついには指揮を執っていた馬から降りて剣を手に抵抗を続けたが、暴風のような攻撃の前に戦死した。関羽の兵は減じるどころか、襄陽に近づくにつれて故劉表に仕えていた在野の土豪が吸い寄せられるように集まり、最終的には三万を超えた。


 さて、襄陽を守るは曹操がその勇猛さと叡智あふれる才を認めてもっとも頼みにしていた一族の勇将曹仁である。


 曹仁は字を子孝といい曹操の従弟にあたる。若い時から、弓術、馬術、狩猟を好み、その道の達人でもあった。董卓の乱が起き、群雄が割拠した際には自ら兵を徴募し、豪殿若者千人余を集めて淮水・泗水(徐州)方面を暴れ回り、のちに曹操の配下に属して別部司馬となり行厲鋒校尉に任ぜられた。


 曹仁は、曹操の騎兵隊長であり、常に軍の先鋒となり、袁術・陶謙・呂布・張繍・袁紹と戦った。まさしく曹操の懐刀といってよいこの男は、荊州平定戦においては行征南将軍に任じられて劉備と諸葛亮の率いる軍と激闘を繰り返していた。


 ――まさか、曹公が亡くなられるとは。

 曹仁は荀攸たちが運び込んだ曹操の遺骸に対面すると、しばらく呆然としたのちに現実に引き戻された。先日、当陽で行われた激戦において曹操軍が劉備の火によって焼き払われて、甚大な被害を被ったのは理解していたが、詳細は未だ掴んでいなかった。


 曹仁は、多数の斥候を放って収集した情報を分析した結果

 ――もはや襄陽はたもてぬ。

 という結果に落ちついた。現に、軍の大敗と曹操の死は城内には歴然とした事実として駆け巡っており、官吏や軍民の動揺は計り知れない。


 三万を超えていた軍も脱走兵が相次ぎ、いまや八千にも満たない数である。さらには、劉備の差し向けた一軍がひたひたと襄陽目指して迫っているとの急報があった。


 ――退却するにしても、これでは形を整える暇もないわ。

 曹仁は時間稼ぎの苦しい仕事を杜畿に頼んだ。杜畿は三千といういまになっては貴重な数の兵をもって場外に陣を敷いたが、まもなく到着した関羽の率いる軍に蹴散らされたという急報が入り曹仁は魂魄が抜け出たかのように全身を脱力させた。


 これで、まだ曹操が存命であるならば籠城して援軍を待つという手もあったが、もはやどのような名将であっても一段と鋭気を増した劉備軍切っての精鋭である関羽の軍を止めることができない。万余を越えた関羽を防ぐ将も兵も荊州には存在せず、曹仁は樊城を守る故劉表の臣であった文聘と語らうと、生き残った将兵を収容して北に逃走した。


「なんとも呆気ないことよ」

 関羽は長子である若干二十一歳の関平に樊城を奪い取らせると、もはや荊州に大敵はおらぬことを実感し、深いため息を吐いた。まさか曹操が死ぬとは微塵も考えていなかった。関羽は、曹操に恩があるが、かの者が地下に旅立ってしまえばもはやどうすることもできなかった。主君であり、兄弟の誓いを行った劉備の躍進は素直にうれしい。


 そして、それを果たしたであろう荊州の名士で今回の勝利の立役者である諸葛亮にはもはや妬心すら起こらず、ただ、畏敬の念があるばかりだった。あの、三十にも満たない軍師は自分が何十年劉備に仕えていてできなかったことを、いとも短い月日でやってのけてしまった。


 南郡の北部の襄陽と南部の江陵を完全に確保した意味は大きい。この荊州におけるふたつの大県を足がかりとすれば、いまや四分五裂となった曹操の残した軍を破ることも夢物語ではないかもしれぬのだ。


「なんだ、これは」

 知らず、関羽の太い二の腕が瘧にかかったようにぶるぶると小刻みに震えていた。劉備に仕える限り、どこか広い根拠地を得ることは大望を果たすための絶対条件であったが、長い荊州の生活における沈黙それらは、黒く腐っていた。その腐れたなにかが音を立てて崩れ、新たな生命が強い躍動をこの身にももたらしているのだ。


 ――やるぞ、必ず。

 新たな決意を胸に関羽は城壁からどこまでも見渡せる大地に向かって力強く掌を伸ばして、強く、つかんだ。


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