第014回「曹操の最期」

 戦線は膠着状態に陥った。季節は夏を過ぎ、秋も終わりに近づきつつあった。諸葛亮は、曹操が堅固な八陣を劉備軍が捨て去ったことについての疑念が徐々に薄れつつあり、それが当然だという驕りに変わったことを、兵の挙動から見て取ると、最後の作戦に出た。


 ――決着は火攻しかない。

 曹操軍の軍営は、知らず、襄陽から江陵まで長々と連なっている。特に、江陵の付近は水気が多い湿地帯で地面から離したものが多かった。


 ――これに火をかけるのは偽投降にて曹操を油断させる、それしかないな。

 江陵城にも曹操の密偵は当然ながら潜入していた。そこで諸葛亮は、日ごろあまり仲がよくない張飛と麋芳に戦術的な問題で諍いを起こさせ、その夜に、劉備を見限り投降したいという旨の書を使者と共に送らせた。


 ――我がこと成れり。

 曹操は麋芳の投降を聞いて破顔した。

 この時、曹操は五十四で知勇共に脂がのり切った年齢であったが、袁紹を官渡で破った時も、許攸が投降してきたことを思い出していた。


「戦も終盤になるとこのような運びになる。幸先がよいわ」

 罠ではないか、と考えなくもなかったが、城中に入れてある密偵の情報によれば、麋芳が張飛と諍いを興し、それを劉備に告げられ前線から遠ざけられたのは間違いのないことである。


 麋芳はかつて曹操にその武勇を賞賛されたことがあり、許都での面識もあり疑う余地はあまりなかった。


 城内の細密な情報がもたらされれば、城攻めの方法も新たに思いつくだろうし、なによりも徐州以来から仕えた劉備の腹心が寝返ったという事実は敵方に大きな動揺を与えるだろう。さらに、麋芳は江陵を出て投降する際に、城の軍需物資を曹操軍から隠すという名目で持ち出すことを約束してきたのだという。


 諸葛亮は麋芳から曹操の色よい返事が来たことを知ると、その場で勢いよく立ち上がり、両眼を見開き全身を震わせた。麋芳は諸葛亮のあまりの興奮具合に驚き、思わず身体を反らし、瞳に恐怖に近い色を宿らせた。


「これで我が軍は勝利する」

 諸葛亮は、この月のある日限定で、間違いなく短時間であるが赤壁の戦いの時以上の強烈な南風が吹いたのを覚えていた。それは夜半から、明け方にかけてのみであったが、その東南の烈風が吹くことを、予測ではなく知っていたことが勝利への鍵だった。


 諸葛亮は、麋芳が軍需物資に偽装させた、油や硫黄を染みこませた車輛を進発させたのを確認すると、作戦を告げた。それは、諸葛亮が転生してからこの日まで練りに練った曹操軍を一撃に屠る必殺の作戦内容である。


 火攻が成功すると同時に、関羽、張飛、趙雲の三将を主として騎兵をもって進発し、敵の本営を壊滅させる。


 江陵城は、劉琰と残りの将に防備を任せて、一挙に敵を撃ち砕く。

 ――それがすべてだった。


 麋芳は偽りの投降のために、車輛を領内から搔き集め、さらに数百の牛に運ばせて、曹操の本営に向けて奔らせた。荷物には、薪や柴草にたっぷりと油や硫黄を染み込ませておき、いつでも火がかけられるように準備した。無論、同時刻に、この日のため、前衛の八陣が陥落した際に曹操軍へと投降させた偽りの兵たちに、火の手が上がると同時に各軍営を焼き払う時間を告げて待機させた。


「降伏だ」

「我らは曹操軍に投降するぞ」


 麋芳の旗印を掲げた膨大な牛車が車両を引いて猛烈な勢いで駆ける。これを見た曹操の軍は、あらかじめ麋芳の降伏を知っていたので、奪った軍需物資を満載させていると思い込み、易々と防備線を通過させた。


「麋芳が降ったぞ」

 安楽な声が軍営に満ちる。それらが阿鼻叫喚のうずに変わるのにたいした時間は必要なかった。麋芳は牛の尾に巻きつけた柴草に火を灯すと、尻に剣を刺して痛みで怒り狂わせた。無論、満載した固形燃料の塊は巨大な火の塊となって、柵を破壊しつつ曹操の営塁に飛び込んでゆく。


 計ったかのように、東南から烈風が吹き荒れた。この天候の急変を予測できたの、天下にただひとり、前世から生まれ変わった経験を持つ諸葛亮孔明ただひとりであった。


 焔は強烈な風に煽られてみるみるうちに巨大化し、曹操の軍営を片っ端から焼き払った。直ちに、城内から関羽、張飛、趙雲が率いる合計三万の兵が出撃した。


 この日のために溜めておいた力が爆発した。三将は馬を駆って敵陣に目がけて突っ込んだ。趙雲はありったけの火矢を放って、燃え盛る火勢をさらに強めさせた。関羽と張飛はその豪勇を振るって、なりふり構わぬ退却をする曹操軍を踏み躙った。見渡すかぎりに、曹操の陣営は朱に嘗め尽くされた。


 火、火、火。

 烈風は弱まるどころか、諸葛亮の記憶以上に強まり、そのために劉備軍は一旦兵馬を退かせて、ゴーゴーと音を立てて燃える敵軍営から距離を取る必要性があった。


 紅蓮の炎がすべてを焼き尽くしていく。諸葛亮は白馬に騎乗しながら、遠い目でひとつの段階をやり遂げた感慨に耽っていた。


 ――これではほとんどの兵は脱出できなかっただろう。

 諸葛亮は勝利に酔いしれるよりも、猛り狂った火勢の強さに、むしろ強烈な恐怖が沸き起こっていた。


「なんという火計だ」

 隣の主である劉備も、あれほど強大だった曹操の軍営が残らず燃えてゆくのを、どこか呆然とした表情で眺めていた。


 ――だが、まだ曹操の首を見ていない。

 諸葛亮は心悸を整えると、頭を切り替えて軍の再編成を行った。この場で曹操を討ち取らねば、真の勝利とはいえない。


 さらに言えば、この戦で局地的に勝利したといえども、曹操が生き延びれば漢王朝復興は必ず妨げられるであろう。伝説的な戦いは、いま最終局面を迎えていた。


「孔明、総攻撃を行うぞ」

 劉備の命を受けた諸葛亮は諸将を統括して、いまだ火勢の収まらぬ軍営に容赦なく襲いかかった。まず最初に曹操の本営が焼き払われたのが大きかった。これによって、曹操軍は、連携がまったく取れず、指揮を仰ごうにも、互いの連絡すら取れないありさまに陥った。


 諸葛亮は、孤立した軍営をひとつひとつ丹念に攻撃し、水も漏らさぬ布陣で撃破してゆく。伸び切った数百里を超える曹操の陣営は、通常時ならば危機において、助け合って戦うことも可能であったが、諸葛亮の遠大な火攻がそれを不可能にした。


 ここまで一方的に曹操軍が破れたのは、火による効率的な破壊力のせいもあったが、長対陣による将兵の厭戦気分や、疫痢の猖獗などで軍そのものが衰えていたことに問題があった。


 劉備軍は、敵軍営を破壊しながら、文字通りの連戦連勝を続けた。李典は退かずに守りを固めたが、やがて苛烈な攻防の末に斃れた。楽進、毛玠、路招といった曹操軍生え抜きの将軍も劉備軍の激しい攻撃によって戦死した。


 火傷がいまだ治りきらない李通は最後まで降伏を拒んだが、趙雲の攻撃によって猛火に巻かれ焼死し、骸も残らなかった。


 参軍の張儼も乱れた諸将を鼓舞して戦ったが、部隊は関羽の攻撃によって壊滅し、首を斬られた。牛金は勇ましく名乗りを上げて挑んだが、張飛の蛇矛によって突き殺され、隊は残らず降参した。


「曹操はどこだ。雑魚はいい、曹操の首を捜すのだ」

 諸葛亮は劉備と共に行動しながら、もはや散発的にしか反撃のできない曹操軍を一方的に屠り、かつ追撃を行った。弩による射撃により、軍営に残っていた兵はまともな反撃もできずに射殺されてゆく。


 船や兵器や機械、兵糧や軍需物資は残らず焼かれて、曹操軍の死骸はおびただしい数が江に満ち、その流れを堰き止めた。


 この当陽の戦いにおいて、曹操軍は戦死者焼死者だけでも十万余を越えた。さらに降伏兵だけでも二万に至った。


 歴史的大敗である。

 ここまで曹操は戦でみごとに打ち砕かれたことはいままで一度もなかっただろう。


 戦場に取り残された将の中に、虎豹騎を率いた将である曹純がいた。

 曹純は、いまや、七十騎を切った虎豹騎と共に逃げ惑いながら、曹操の逃走路を確保し、なおかつ少しでも友軍の将士を回収しようと躍起になっていた。だが、その力戦も終わりを迎える。


「今度は立場が逆になったな」

 燃え盛る業火を背景に白毦兵を従えて現れたのは、諸葛亮に命じられて残敵を掃討していた陳到であった。


「これは――」

 曹純が驚きで両眼を見開いた。

 陳到は新たに編成を行った四百の白毦兵により曹純の退路を断つと、戟を振るって総攻撃の合図を行った。


 生まれ変わった白毦兵は、長阪の仇である虎豹騎に向かって一斉に襲いかかった。弩による猛射により虎豹騎は槍を交えることなく、バタバタと倒れてゆく。


 残った騎兵も、白毦兵の怒りの籠った戟により馬から叩き落され、大地に転がりトドメを刺されていった。


 陳到は、野太い笑みを浮かべると戟をつかんで勢いよく打ちかかった。曹純は真っ青な顔で立ち向かう気配を見せた。


 しかし、すでに精も根も尽き果てていたのか曹純の動きは鈍かった。陳到が怒声をほとばしらせながら戟を振り下ろすと、頭を派手に割られて馬から落ち、絶命した。


「敵将曹純は劉豫洲が将、陳到が討ち取った!」

 高らかに名乗りを上げた。残った数名の虎豹騎はそれぞれ槍を投げ捨てて素早く剣を抜き、自らの喉笛に当てると勢いよく引いてみごとな最期を遂げた。







 曹操の敗走。

 天下統一の総仕上げになるべき南征は結果、惨め過ぎる敗北を完全に優勢であった曹操に与えた。兵力的に優位であり、終局で決定的なミスを犯した。


 曹操は、火炎に巻かれた将兵を見捨てる形で逃亡を続けたが、彼の逃げるという技術は残念ながら劉備ほどの名人級ではなかった。結果、敗走途中で胸に矢を受け、その余命は幾ばくもなかった。


 ――曹公の出血がひど過ぎる。

 参軍として影のようにつき従い、行動していた荀攸は、もはやひとりで馬にも乗れず護衛である許褚に担がれて息も絶え絶えな主を見ながら、どこか現実感がなかった。曹操の戎衣は水を被ったようにおびただしい血で濡れそぼっていた。荀攸はすでに、かなりの時間、曹操の声を聞いていない。主は半死半生の体である。


 曹主は、今年で五十四である。若くはない。年齢的には老齢に差しかかっている。仮に命を長らえても劇的な回復は望めないだろう。そもそもが襄陽まで命はもちそうにない。徒歩で曹操に従う兵は五十名にも満たなかった。


 ――嗚呼、曹公は天下を手に入れかかっていたのに。

 大業の完遂はそこまで見えていたのだ。だが、それは南方の激戦地でするりと抜けてゆき、ついには乱世の姦雄と呼ばれた男の命を断とうとしている。荀攸は、自分がついていながら、劉備の火計を見破れなかったことに歯噛みしていた。


 ――精神にゆるみがあったのだ。

 悔やんでも悔やみきれなかいが、いまさら遅すぎる。思えば、劉備の仕込みはずいぶんと前から行われていた。


 各軍営の火の回りの速さも、偽りの降伏兵と劉備軍の手際のよさだろう。それにしても、今夜だけ吹いたこの烈風の忌々しさよ。


「天は我らを見放したのか」

 将といえば、許褚のほかに夏侯惇がいるが、こちらも腕に深手を負っており、戦力的には期待できなかった。敗走路を確保するために発った曹純も戻る気配はない。

あたりには劉備軍の旗が満ちており、すでに討たれていると見たほうが自然であった。


 矢は、曹操の右胸と脇腹に深く刺さっている。荀攸は主の胸にある真っ赤に染まった矢じりの羽根の赤さに目がくらみ、天を仰いで自らの顔を手のひらで覆った。なんたることだ。引き抜けばその場で絶命するのは、戦場を長く往来してきた荀攸には理解できた。


 荀攸の顔には絶望の色が濃かった。瞬間、激しい金鼓が周囲の森林から鳴り響き、顔を上げると樹木の向こうに開けた場所があるのがわかった。曹操を担いでいた許褚の足取りがピタリと止まった。荀攸の目には、許褚の巨体が陽炎のように揺らいで見えた。


 ――ついに、か。

 半ば予感していたが、その先には予想通り「劉」の旗がひしめいていた。荀攸は自分たちがすでに虎口に陥っていたことをようやく理解した。


 白馬に跨った男が劉備であろう。こうして遠くから眺める敵の主将には、勝者としての余裕すら漂っていた。隣にいる若い男が、曹操が危惧していた諸葛亮という謀士であることが理解できた。荀攸は綸巾を被った男の放つ強烈な気に打たれ、よろよろとその場に座り込んだ。


「曹公、許昌での一別以来となりますかな」

 劉備の言葉。許褚に抱かれていた曹操は虚ろな瞳をさ迷わせていたが、目の前の男が劉備であるとわかったのか、白い歯を見せてなんとか地面にひとりで降り立った。


「こんなところで会うとは、玄徳よ。まさしく貴君とは運命的なものを感ずるよ」

 曹操の声。かすれているが荀攸にはいつもと違わぬ強さを感じた。下馬した劉備が近づく。


「本来ならば、久闊を叙して酒の一献も酌み交わしたいところであるが、これも戦場の習いである。曹孟徳どのにあっては、潔くそのみしるしを頂戴したく存ずる」


 劉備の目には強い意志が宿っていた。荀攸は不覚にも、漢王朝四百年の歴史を劉備の後背に見た。これが帝王の血なのか。我らは所詮、貴き血に勝つことはできぬのかと、悔しさよりも脱力感が大きかった。曹操は両手を広げると、おおげさな仕草で言った。


「だから言ったではないか。天下の英雄とは君と余だけである、と」


 曹操は不敵な笑みを浮かべると、大きく右にふらついた。許褚が慌てて支えようと腕を伸ばしかけるが、その時ばかりは「よい」と気合の入った声を上げて制した。

 

 許褚の大きな瞳に涙がみるみるうちに盛り上がった。許褚は、目蓋を閉じることなく、声を立てずにボロボロと泣き出した。不思議と惨めさはなく、どこか爽快な泣き方だった。


 劉備と曹操が互いに見つめ合う。荀攸はふたりが分かち合っていたであろう、長い戦いの時間を思うと、自然に目頭が熱くなった。泣くな。自分にそう命じた。少なくとも自分には、この両雄を前にして涙する権利がないと思った。


 両英雄にもはや言葉は必要なかった。曹操はぐらりと大きく身体を傾け、そのまま突っ伏すように身体を劉備に預けた。


 劉備は曹操の身体を正面から抱きかかえるとわずかに顔を歪めて、そのまま背をわずかにさすった。大きく、包み込むような慈愛の籠った手の動きだった。


 劉備は曹操をしばらく抱き留めたあと、その場に跪く許褚及び荀攸や夏侯惇を含めた将校や兵卒を眺めて「忍びぬ」と一言述べ、なにもせずに兵を退いた。


 荀攸は劉備の情のある行動に深い感謝を述べつつ、そのまま敗残の兵を指揮して主の亡骸を運び、密林と濃い沼を縫うようにして襄陽に向かった。


 天下統一に向けての賽が振り直された瞬間だった。

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