第013回「江陵城の攻防」

 中国は城郭都市が基本である。日本のように、生活の場と城がわかれておらず、巨大な城壁にすべてをまるごと囲い込んでいるのが特徴だ。


 各地には県城、国境には長城、村落にも壁が張り巡らされており、それは外敵から身を守る中国人の本能に近い。定住生活を営む中国の民は、生涯をその囲いの中で暮らす。


 劉備の南下に流民が従い土地を棄てる行為は、曹操の虐殺を恐れての例外中の例外だった。強力な城壁が破られ、侵略者が乱入することは、民衆にとって死を意味した。


 中国の落城風景は日本のそれとは格が違う。基本的に兵士は極貧の農村出身者で構成されており、彼らは高額な報酬や勝利時の略奪が目当てで命を張っているのだ。彼らの勝った時の狂奔はいかなる名将であろうと止めることはできない。


 孫子の兵法でも兵糧物資は敵地で調達することが推奨されており、奪うという行為はあたりまえすぎる光景なのだ。


 城門が破られ、敵が侵入してくれば人々の安楽な生活は破壊され、その場が地獄に化すことは歴史が証明している。


 蜀の丞相として活躍した諸葛亮は、国力の貧弱さから常に攻勢に回らなければならない立場であり、追い詰められて守禦に陥ることはなかったが、自らの経験から城を守る研究は怠ってはいなかった。


 強力な前衛である八陣が奪われたいまとなっては、本城である江陵という一大城郭都市を守り切らなければらない。二十万近い曹操軍に取り巻かれる景色は現実感がなく、むしろ眺めるだけであるならば壮大だった。


 ――だが、この城を落とさせはしない。

 諸葛亮は、思想家であり、兵術の実戦派であった墨子が編み出した守禦の術を自ら改良して曹操に立ち向かった。


 まず、曹操は圧倒的兵力に任せて一斉攻撃を行った。蟻傅ぎふと呼ばれるスタンダードなこの攻撃は、兵士が城壁に向かって蟻のように群がることからこう呼ばれた。諸葛亮は慌てず、城兵に矢を乱射させて群がる敵兵を城壁から一掃した。


 落下してゆく敵兵は城壁の直下に埋め込まれた杭の餌食になった。地面から四十センチほど突出した鋭い杭に貫かれた兵士は残らず即死する。


「火だ」

 諸葛亮は、あらかじめ城壁の外側にぐるりと埋め込んでおいた柴草に火矢を放ってたちまちに炎上させた。焔のまわりは凄まじい速度だ。事前に柴草に硫黄や油を染みこませており、知らずに密集した敵兵たちは猛火に包まれて右往左往する。城を防衛する諸将は率先して兵を指揮し、雲霞の如く湧き起こる敵を丁寧に排除してゆく。


 曹操は通常攻撃が通じないと知ると、臨による攻撃に移った。臨とは、城の近くに城壁よりもはるかに高い土丘を築き、その上から城壁に攀じ登ろうとする兵士の援護射撃を行うものである。城壁の近くで工作を行えば、城方には嫌でも目に入って来る。


「なんとも鬱陶しいことよ」

 諸葛亮は劉備に計って臨を破壊する攻撃に移ることを決めたが、問題は誰が行うかにあった。


 曹操が臨に対する防備を怠っているはずはない。夜襲を行うにしても、敵は待ち構えている。それでも行わなければならないのは士気の問題だった。あのような土の山を目の前に作られて指を咥えて見ていれば、城内の兵士たちは劉備の勇気のなさを推し量り軍が動揺するだろう。臨を完全に破壊できなくてとも問題はないのだ。


 ただ、城から出撃すれば高確率で死が待ち構えている。劉備が諸将に推し量ろうとしないのは、このことを言えば関羽や張飛が黙っているはずがないからである。


「我が主よ、それに孔明どの。城中に人なきかと思われるような真似はおやめくだされ。不肖、この老骨、命じられればいついかなる時でも、この身を投げ出して作戦を成功させてみせますぞ」


 割れんばかりの大声で室内に踏み入ったのは、誰であろう黄忠その人である。

「はは、儂は老人とはいえ早寝を嫌う性質でしてな。明日の戦場の割り振りを聞こうと図々しくも押し入って、今夜は運がよかったと言えましょうな」

「だがな、漢升。この作戦は相当に危険なのだぞ」


 諸葛亮は劉備の言葉に黄忠が目を怒らせ顔を赤くしたのを目にして、羽扇を下げるとあきらめたように前に出た。劉備は黄忠を幕下に加えて日が浅いので、この老人の気の短さをまだわかっていないのだ。ここでやり合えば、城中の短気な男たちが残らず集まり大騒ぎが起こるのは必定だった。


「わかりました。主よ、今回の作戦は黄将軍にお任せしましょう」

「おう、それでこそ軍師よ。さあ、曹操の小僧っ子に吠え面をかかせてやりますわい」


 劉備がなにか言おうとするのを遮って、黄忠は呵々大笑した。

 すでに六十を過ぎている黄忠に老いは微塵も窺えない。関羽と変わらぬ巨躯が目をまず引いた。その恵まれた身体は筋骨が隆々としており、精気に満ちあふれている。


「黄将軍。いまさら私が言うことでありませんが、敵陣をそこそこに引っ掻き回したらすぐに戻って来てください」


「なあに、我が主に孔明どの。敵将の首の、ふたつやみっつこの黄忠にかかればどうということもありませぬ。土産をお待ちくだされ」


 大長刀を手にした黄忠が若者のような足取りで部屋を出ていくのを見届け、劉備が困ったように目を向けて来た。


「孔明、本当に大丈夫であろうな」

「もしもの場合を考え、陳到に準備をさせておきましょう。もっとも、あの老人に限っては問題はないでしょうが」


 黄忠は手兵千騎を集めると夜陰に乗じて城から打って出て、目の前に聳える臨を工作する曹操軍に打ちかかった。


「馬鹿が。飛んで火にいる夏の虫とはこのことよ」

 騎兵を従えて突撃する黄忠を迎え撃ったのは、曹仁旗下の淳于導という猛将だ。淳于導は、城内から打って出た黄忠を押し包むように兵を寄せてきた。


 驟雨の如く殺到する敵兵に向かって黄忠は大長刀を振りかざすと、当たるを幸いに片っ端から斬って捨てた。


「我こそは、劉豫洲に仕える黄忠である。我が主の命で、目障りな蟻塚を崩しに参った。命が惜しい木っ端どもは、とっとと消え失せよ」


 黄忠は馬の腹を腿で締め上げると手綱を引っつかんで、敵勢に駆け入った。味方の百騎が続く。敵兵はワッと真っ二つに割れた。


 だが、待ち構えていた曹操軍も準備は万端だ。たちまちに、雨あられと無数の矢が降った。黄忠は小雨でも跳ねのけるように大長刀を旋回させて矢を叩き落とすと、小高い盛り土の上で指揮を執る淳于導に目がけて馬を走らせる。気合一閃、黄忠が大長刀を閃かすと、淳于導は手にした槍を構える暇もなく鮮血を霧のように撒き散らしながら首を斬られた。


 こうなると黄忠の独壇場だ。

 騎兵を巧みに指揮しながら、群がる曹操の歩兵を追い散らす。しかし、場外に満ちる曹操の軍勢は時間と共に黄忠以下の将兵を圧し潰さんと、ジワジワと包囲の輪を縮めるばかりである。周囲から放射される激しい殺意の波動に黄忠も死を覚悟した。


「さすがに曹操軍。相手にとって不足なしだ」

 黄忠が死を意識した時、城門が開くと同時に、陳到が猛然と駆け込んで来た。みるみるうちに、包囲の輪が乱れ始める。陳到は騎兵を巧みに指揮して、敵の厚みを貫くと黄忠を助け出した。


「黄将軍、いまのうちです」

「おう、陳将軍。助かりましたぞ、この皴首、不思議なことにまだ繋がっておりますわ」


 黄忠は勇気百倍、大長刀を車輪のように頭上で旋回させると、馬を駆けさせながら右に左に振り下ろした。純白な刃が月の光をその身に移し冷たく綺羅と輝く。同時に、五人の敵の首が宙を舞った。


 さすがの黄忠も息を乱していた。全身がぐっしょりと汗で濡れていた。軽い疲労感があるが、それが心地よかった。黄忠がこの夜の夜襲を成功させ、宣言通り敵将の首を持ち帰った時に言った言葉が


「さすがに敵もさるもの。この黄忠、敵将の首はひとつしか持ち帰れなんだ」

 だったので、さすがの劉備も呆れ顔を隠そうとしなかった。






 この夜、黄忠が率いた奇襲隊の被害は二百と多大な犠牲を払った。しかし、江陵城の士気はこの老黄忠の奮戦を聞くと、火に油をくべたように、ワッと業火の如く燃え上がった。とはいえ、敵の作成した臨はそれなりに脅威ではあった。高い土丘に陣地を据えて、曹操の兵は壁上の劉備軍に群がる味方に援護射撃を放って来る。


 これに対して諸葛亮は用意してあった床弩というもので臨に対抗した。これは城に備え付ける大型の弩である、矢の長さは二メートルを超えて尋常ではない破壊力を秘めている。この槍に近い矢の後尾には縄を付けて使うたびに回収できる工夫が施されていた。


 諸葛亮はこの床弩を集中的に使用したので、曹操軍が築いた臨の頂上は結果的に崩れてしまい、局地的な勝利を得ることに繋がった。


 ――しかし、これほどまで頑強に抵抗するとは。

 曹操は、江陵に立て籠もった劉備が意外な奮戦を見せていたので戸惑っていた。火の出るような、五日間の攻撃もたやすく跳ね返され、攻めあぐねていたのだ。曹操の煩悶を見た参軍の荀攸は穴攻を提案した。


 穴攻とは――。

 文字通り城壁下にトンネルを掘って城内に潜入する攻撃方法である。江陵の付近はぬかるんだ湿地帯が多く、岩盤はそれほど固くはない。


「うむ、それでゆこう」

 決断の早い曹操は荀攸の策を取り入れると、熟練の工兵を集めて作業に取りかかった。


 通常、こういった穴は敵方の城から見えない地平線の向こう側から掘り始める。狭い日本とは違い、広大な大地の中国大陸ならではの作戦である。


 ――敵の動きが魯い。

「のう、孔明。敵兵の動きがあまりないように思えるのだが」


 城内の議場で劉備に問われた諸葛亮は静かに目を伏せると

「主よ。これは穴攻でございます。曹操は旗下の者に命じて城中に通じる穴をいまごろ掘らせているのでしょう」

「なんでえ、敵は土竜や蚯蚓の真似ごとかよ」

 張飛が拍子抜けしたように言った。


「ご心配めされるな。すでに配下の者をやって対策を施してありますゆえ。諸将も気にせず、場外の敵にだけ集中してください」


 無論、あらかじめ気づいていた諸葛亮の撃退方法も抜かりはなかった。土中に甕を埋め込んで、敵が掘り進む進行方向をつかみ取り、こちらも工兵を動員してトンネルを掘らせた。


「へえ、さすが軍師どのだ。いろいろと物を知ってなさる。ちょうどいい、俺に任せてもらえれば、敵サンなんぞは返り討ちにしてみせるぜ」


 張飛は、勢いよく土を運び出す工兵の動きを見分しながら、いまにも丈八の蛇矛を携え穴に飛び込んでゆきそうな勢いだ。


「張将軍。それには及びませぬ。穴攻には穴攻の防ぎ方がありますゆえ。それに、この隧道の狭さでは自慢の矛も上手く振り回せなんだ」

「そいつあ往生だな」


 張飛が照れ隠しに頭を掻いていると、通りがかった関羽が部将を従えたまま歩み寄りヌッと長い腕を伸ばして襟首をつかんだ。


「んだっ。なにするんだよ、雲長」

「益徳。おまえはまたこんなところで油を売って、軍師どのの邪魔をするんじゃない。すみませぬ、軍師どの、教育がゆきとどきませんで。まったく、おまえというやつは。童子の頃からほとんど変わっておらぬわ」

「いてえっての、雲長! また馬鹿力で引っ張るなって。俺あもう今年で四十二だぞ。ガキ扱いはやめてくれって!」


 それを見ていた作業中の兵士たちから失笑が漏れる。関羽は元々の赤ら顔をさらに赤くして「来い益徳!」と怒鳴りながら張飛を引きずり屯所の方角に消えて行った。諸葛亮はそのやりとりを見ながら

 ――やはり、劉備軍はこの屈託のなさがよい。

 と、なんともいえない居心地のよさを感じていた。


 義兄弟のじゃれ合いはともかく、穴攻の対策である。諸葛亮は、曹操軍が掘り返したトンネルに向かってこちら側も掘り進めて、ある程度の距離に達すると、人体に有毒な毒草を搔き集めて燃やし、煙を流し込んだ。これには突撃を見込んで穴に潜んでいた敵兵もたまらない。煙攻によって混乱した敵兵は狭い中で右往左往し、たちまちに身動きが取れなくなり次々に圧死する。さらに諸葛亮は機を見計らって水をトンネルに流し込み、塵芥を清めるように一掃した。


 曹操は愚かではない。だが、この時点では諸葛亮の兵略が優っているとしか言えなかった。なにしろ、基本的な戦略は頑強な江陵城に立て籠もり、攻め寄せる敵兵を散らして、ほとんど打って出てこないのである。亀のように首を竦めて強固な甲羅に納まっている状態では奇策を打ちようもないのだ。


 さらに、諸葛亮は従事の馬良に印綬を持たせて武陵に盤踞する五渓蛮に授けた。この時、馬良は諸葛亮に言い含められて劉備が漢王朝の一族であることを強烈にアピールして、蛮王である沙摩柯に助を乞うた。


 ミャオ族の王である沙摩柯は江陵の潤沢な穀物と財宝を与えられて奮起し、狙い通り襄陽一帯を含む、曹操の支配地域に不正規戦を仕掛けたのだ。沙摩柯は漢族の学はなくとも、生まれついての智は持っており、正面切って中原の兵と戦う不利は充分に知っていた。そのため、湿地帯の地図もほとんどない地域で、かつて漢の高祖が楚の項羽と争った時に味方した元盗賊である彭越と同じように、曹操の補給路を狙ってゲリラ戦に転じたのだ。


 なにせ、曹操軍から奪った財物はすべて自分のものにしてよいという劉備のお墨付きを貰っているのだ。曹操も補給の重要性は十分に知っていたが、追い払っても小刻みに襲って来る小部隊の蛮族には、次第に神経をやられていった。



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