第011回「諸葛亮の八陣」

 事実上荊州を一兵も損なわずに手に入れた曹操はというと、このころ各地における軍民の慰撫に忙しかった。江陵を劉備に取られたことは、曹操の心に大きな傷を残した。


 だが、曹操が敢えて気にした風も見せずに、荊州の官民に布告を出して新たな出発を促すと、人心は少しずつ落ち着いていった。曹操が荊州を攻略してもっとも比類なき武勇を持つ大将である文聘を得たのは僥倖であった。


 文聘は字を仲業という。南陽郡宛県の出身で劉表に仕えて主に北方の防御に当たっていた。劉表が没すると、末子である劉琮が後継者に名乗りをあげ、文聘を呼んで仕えさせようとしたが


「私は劉荊州に多年の恩を受けていたにもかかわらず、州を保つことができませんでした。このうえは処罰を望む身の上でありお力にはなれません」と断った。これは、文聘からしてみれば、間もなく南征する曹操を前に劉琮では歯が立たぬとわかりきっていたので、端から相手にしなかったのであろう。


 曹操が南征の軍を発して漢江を渡ると文聘はようやく出頭した。曹操が

「どうして出仕が遅れたのだ」

 と、問うと


「過日、私は劉荊州を補佐して国家に仕えることができませんでした。荊州は滅びましたが、常に漢川をよりどころとして守備して領土を保全し、若年の劉琮を裏切らず、死しては地下の旧主に恥じないことを願っておりましたが、どうにもならず今日に至りました。私は、悲痛と慙愧の思いで、曹公にお目通りする顔がなかったのです」


 と言い、すすり泣き肩を落とした。

 曹操は文聘のこの態度に強く感じ入り


「仲業、御身は真に忠臣である」

 と言って、文聘に手厚い礼をもって処遇し、のちには江夏太守に取り立てて関内候の爵位を授け荊州の諸軍を率いさせた。


 曹操がこの荊州随一の名将である文聘と曹純をもって長阪で劉備を追撃させたことは記憶に新しい。


 また、曹操は蒯良、蒯越、韓嵩などの名だたる荊州の名士を幕下に加えた。なかでも、蒯越に関しては「荊州を手に入れたのはうれしくはないが、蒯異度を手に入れたのがうれしい」と言ったほどであった。


 蒯越は字を異度といい前漢の蒯通の後裔であり、人柄は公正そのもの、さらにはありあまる叡智を持ちたくましい身体と堂々たる風貌を持った男として知られている。


 後漢末期の大将軍何進に召喚されて東曹掾として仕えたが、蒯越は宦官抹殺を進言し、これを聞き入れられずに見限り、自ら汝陽の令に転出して劉表を補佐して荊州領内を平定に貢献した。


 劉表は霊帝が没した時に、荊州刺史に任じられ、董卓死後、朝廷を聾断していた李傕と郭汜に追認されて荊州の牧になった経緯があった。


 蒯越は劉表を補佐して、反乱を起こした長沙太守張羨とその子張懌を破り南方も平定した実績があったが、曹操が南征を始めた際には、すでに年老い意気が萎え、劉琮を支えてこれを討ち破る気力を失っていた。


 さて、この蒯越とさほど歳は離れておらずとも、抗う意思は微塵も衰えない、当世の英傑劉備の行動である。諸葛亮は、無事、孫権との軍事同盟を締結すると、船によって江陵に戻り、いつ訪れてもおかしくない曹操の攻撃に備えた。


 江陵城単独では、曹操の行う苛烈な攻撃に長期間耐えうるのは難しい。そのため、城を守るために八つの陣を築いた。


 この陣ひとつひとつには、無数の鹿角(逆茂木)と塹壕が張り巡らせており、諸葛亮が前世で考えつく限りの防備が施されていた。これらは、たとえ曹操が戦の天才であっても、この陣を容易に抜くことは不可能なほどに諸葛亮五十四年の歳月と執念が込められていた。


「さあ、孔明。曹操と戦う布陣はいかにすればよいか」

 いまや、呉の孫権と同盟を結んだ諸葛亮に対する劉備の信頼度はかつてないほど高まっていた。関羽や張飛を初めとした諸将も、名うての孫権の家臣たちを説き伏せた諸葛亮の勇気を知って、評価は以前とまるで違った。諸葛亮は江陵城の守備を関羽に統括させると、前衛として構築した八陣を張飛に守らせた。


 曹操は初戦で自慢の大軍を指揮して一挙に攻め寄せたが、張飛は陣頭に立ち、勇敢に指揮を行って曹操軍をまったく寄せつけない。諸葛亮は張飛の善戦を眺めながら決意を新たにしていた。


 ――勝つためには持久戦しかない。

 真夏に始まった戦いは、陸上を主として行われた。


 騎兵戦を得意とする曹操であったが、張飛は挑発に乗らず、堅実に諸将と助け合って烈火の如く攻め来る敵をまったく寄せつけない。戦いは持久戦を催し、最初の一週間が経った時、張飛の本営をひとりの武将が訪れた。


「おう、黄将軍。こんな夜に敵影でも見えたのか」

 張飛のもとに現れたのは荊州から新たな劉備軍に加わった黄忠字は漢升という武将であった。


「いや、張将軍。曹操の兵は昼間の戦いで疲れ果て、いまごろは白河夜船でござろう。ただ、この老骨、力が有り余っていてちと眠れんでの。まだまだ敵を食い足りなく思い、最初はひとりでと思ったが、それでは味気ない。そこで是非とも張将軍に夜食のお誘いをと考えた次第じゃ」


「まあ、俺も昼間のやり方じゃいささか食い足りぬとは思っておったわ。黄将軍とは気が合いそうだ」


 張飛と黄忠は、陣営の守備を劉琰と麋芳に任せると、それぞれ五百騎を率いて、密かに夜陣を出撃した。


 曹操の軍勢は、一番近い前衛でも三万を超えている。だが、いままでの戦い方から、もっとも前方に突出しているのは荊州からの降兵が多く、指揮官も蔡瑁の甥である張允であると知って、張飛と黄忠はつけ入る隙があると睨んでいた。まさか亀の子のように首をすぼめている張飛たちが奇襲に出るとは想定もしていなかったようで、張允の陣はひっそりと静まり返っていた。


 張飛と黄忠は馬に咬ませていた枚を静かに外させると、陣の中でもっとも手薄な位置を狙って騎兵を突入させた。張飛は五十ほどの騎馬を引き連れると、真っ先に張允の陣を切り裂いた。張飛は叫びながら手あたり次第出くわす敵を蛇矛で突いた。


 続く歩兵たちは手筈通り陣幕や軍需物資に火をかけ、武装を解いた敵を血祭りにあげる。黄忠は得物の大刀を打ち振るって、敵兵を片っ端から斬り殺した。夜陰を利用した奇襲は張允の陣に大混乱をもたらした。陣幕は焼け、糧秣には赤々と火が燃え広がる。


「黄将軍。今夜はこのくらいでよかろう。そろそろ陣に引き揚げようぞ」

「むう、まだ食い足りんが腹八分が長生きの秘訣じゃ」


 張飛の言葉に黄忠は目の前の敵兵に大刀の一撃を喰らわせると、鮮やかな手並みでその場から退却した。まさか張允もたった五十騎程度で目の前で対峙する猛将が自陣に殴り込みをかけるとは思ってもいなかったのだろう。


 張飛と黄忠が引き揚げてもなお、張允の陣では混乱が収まらなかった。同士討ちだけで数百を超す死傷者を出すことになり張允は陣を引き払って後退しなければならなくなった。


 諸葛亮は張飛から陣を出ての夜襲を行った報告を聞いたが、特に咎めず、ひたすら陣を守ることを命じた。


 ――緒戦で我らは勝利を得ることができたが、僥倖だろう。

 このような奇襲は一度だけであるから成功するのだ。調子に乗って、二度三度繰り返せば、必ず失敗する。兵略の天才である曹操に愚鈍さはない。そもそも、張飛隊は曹操の本隊と戦ったわけではなく、戦意の乏しい荊州兵と戦ったのだ。


 劉表は、荊州においては才のある者を十全に活かし切ったわけではない。軍事においては、それが顕著だった。黄祖程度が劉表旗下の武将でもっとも優秀とされる程度である。その点、劉備は勢力的に弱小であったが、人を見る眼という点においては傑出した力を備えていた。


 諸葛亮は、新たに陣営に加わった荊州の有能な諸将、黄忠、魏延、霍峻、李厳、輔匡、習珍などを活用して城の前衛を強化し、曹操の猛攻をとにかく凌いだ。


 諸葛亮が築いた八陣はそれぞれが有機的に作用し、騎兵を主とする曹操の実力を発揮させなかった。さらに、諸葛亮は前世で荊州におけるもっとも有能な人材のひとりである馬良の登用に成功していた。


 馬良は字を季常といい襄陽郡宜城県の出身である。五人兄弟いずれも秀才の誉れ高く、故郷の人間はこれを「馬氏の五常(五人の兄弟には字に常がついていた)、白眉(馬良)最も良し」といった。


 馬良は眉の中に白い毛があったのでこう呼ばれた。諸葛亮とは前世で義兄弟の契りをかわしたほどの仲であり、そのため彼の弟である馬謖に対する思いもひいきがあったのは否めなかった。 


 ――前回の過ちは繰り返してはならぬ。

 諸葛亮は馬謖を重用するあまり、北伐でもっとも成功の可能性があった第一次における街亭の戦いで要所を任せるという痛恨の失敗を犯していた。


 前世で劉備が白帝城で没する直前に、「馬謖は言葉が実質以上に先行するから、決して重要な仕事を任せてはいけない」と諸葛亮に苦言を呈した。


 ――私は不敬にも主のお言葉を軽んじていたのだ。

 いま、冷静に考えてもあのように重要な軍事拠点の防衛は、大きな経験のない馬謖ではなく、諸将が言うように魏延や呉懿、あるいは王平などの歴戦の勇士に任せるべきであった。頭の切れる馬謖はすべてが悪いというわけではないが、やはり適材適所があったのだろうといまでも深い悔恨が残る。


 馬謖自身も、一軍の将として抜擢される前には兵卒としての下積みの経験があったはずなのでよく考えればわかったはずだ。

 

 しかし、やはり水手のない高地に陣取るという愚を命令書に反してまで犯したのは、諸葛亮の過剰な期待に応えたいという精神的負担も作用したのだろうといまは理解できた。


 今回も、馬良のおまけのように弟の馬謖も劉備の幕下に加わっている。が、諸葛亮はあえて馬謖の智慧を誉めそやさずに育てる方法を考えねばならぬと、前世に比べて一線を引くことをおのれに課した。


 つまりは、馬謖の才は軍を率いることではなく、傑出した知能を謀略などに使用すればよいのだ。


 それよりも、予想以上に有能なのは魏延の存在であった。まだ、三十そこそこの若さであるが、張飛の下における魏延の戦術眼は並々ならぬものがあった。


 魏延の用兵能力は張飛や関羽よりも優っている部分がある。

 認めなくてはならない。魏延は性格に難があっても、戦術の奥行きや想像力は諸葛亮を上回っているだろう。


 確かに魏延は傲慢な部分があるが、劉備が生きていたころは、忠実で頼りになる将であった。


 ――主と自分では徳の大きさ、深さが違い過ぎる。

 諸葛亮は、こうして仰ぎ見て劉備が人を把握し、使いこなし、また愛されるという能力においては、自分がまったく及ばないということを、日ごとに思い知らされていた。劉備は口数は少ないが、ただそこにいるだけで人間を引き寄せる不思議な魅力がある。


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