第009回「劉孫の同盟」

 諸葛亮の中では大原則として、南下した曹操は劉備軍単独で討たなければならない、という強い思いがある。なぜならば、前世で曹操と戦い、これを討ったのは紛れもなく孫権の遣わした周瑜であり、劉備軍は掃討戦に参加したものの、胸を張って曹操を追い返したとは言い難い部分があった。


 赤壁で曹操を破った周瑜とそれを命じた孫権は、当然のことながら荊州の領有権は自らにあると思い、あたまりまえの果実を劉備が掠め取った考えるのが当然で、それを面と向かって抗弁するのは状況からみて甚だ苦しかった。


 ――あのとき、我らは孤軍であったが、いまはどうだ?

 それはすべて江陵を劉備の手にできるかどうか、という一点にかかっていた。前世では劉備の情に流されて、わずか数千の兵で曹操と周瑜のまわりをウロウロしていたに過ぎなかった劉備軍であるが、作戦が完遂していれば、話はまた違うのだ。いまや、二、三千に目減りした劉備軍が江陵の三万は下らぬ荊州兵を手に入れれば、十分に曹操軍と五分に渡り合える。


「あなたが子瑜どのの弟御でござるか。私は子瑜どのの友人です。あなたのことは子瑜どのからいつも聞かされておりますよ」


 この孫権から絶大な信を得ている魯粛はわずかに笑みを浮かべたまま、諸葛亮の人物をつぶさに観察していた。


「あなたが魯子敬どのですね。いつも兄が世話になっております。かような場で万事ゆきとどきませんが」


 前世で履修済みである魯粛の方針及び思考は諸葛亮に筒抜けだった。魯粛は、この地に赴く前、孫権に


「荊楚の地は我が江東と隣接し、河川の流れは北方と繋がり合い、その外側は長江と漢水とがとりまき、内側には険阻な丘陵や山々が連なり、まさしく金城鉄壁の堅固さが備わっております。沃野は万里に渡って広がり、もしこの地を領有されるのならば、孫将軍にとっては帝業を成し遂げる資本となりましょう。いま、劉表が没し、そのふたりの子らは相争い、軍中の将も両派に分かれております。その上、劉表が使いこなせなかった劉備という英傑がおりますれば、彼が荊州の人士を統率できるのならば、これを用いて曹操を防ぐ盾とし、そうでなければ別の策を考えるのがよいでしょう。孫将軍、どうか私に荊州へ弔問にまいるようご命令を。必ずや劉備を説き伏せ、共同して曹操に対抗するよう説いて見せます。いま、急がねば曹操に先んじられてしまうでしょう」


 というような提案をしており、孫権も単独で曹操に立ち向かうのは到底困難であると知っていたので、これを許したのだった。


「劉豫洲。これからどのようにいたすおつもりで」

 魯粛は前置きをせずに核心を聞いてきた。劉備は諸葛亮に静かに目配せをすると言った。


「そのことに関しては孔明から説明させよう」

 基本的な戦略は十分に説いている。だが、劉備は熱心な魯粛になにも説明しなわけにもいかないだろうと、すべてを諸葛亮に任せたのだ。


「魯子敬どの。我らはこれから江陵にまいり、そこで万事態勢を整えてから曹操と対決します」


「しかし、江陵はすでに曹操に降った劉琮の臣に抑えられているのでは」

「ご心配には及びません。まもなく、わかるでしょう」


 剛力である張飛の奮闘で曹操軍の追撃はわずかに止んだが、それもつかの間のことだ。一同の目から精気が失われかけたとき、はるか彼方から大地を轟かせるような馬群の音が聞こえてきた。


「あれは、雲長どのの旗だ」

 目敏い簡雍が遠方にかすかに滲む影を見るとそう叫んだ。諸葛亮の命を受けて江陵の鎮定に向かった関羽がことを成し遂げ、援軍を引き連れ当陽に駆けつけたのだ。その数は一万五千余である。


 ――よくやってくれた、関羽よ。

 整然と隊列を組んだ大軍が揃うと劉備もひとごこち着いたか、わずかによろめいて倒れそうになった。騎馬を棄てて、駆けたために鎧も顔も塵埃で汚れていた。夕日のように輝く赤兎に乗った関羽が凄まじい勢いで突っ込んで来る。関羽は劉備の前で下馬すると、頬を紅潮させながら拱手する。


「主よ。江陵は軍師のご指示通り我らの手の中に。ここからはこの雲長がお守りいたします」

「頼むぞ」


 劉備は疲れ切った表情で薄く笑った。諸葛亮の指示通り、劉表が亡くなるはるか前に、徐庶を江陵に潜伏させて、荊州の名士や古老を説き、ひとたび変事があった時には一斉に劉備を支持する組織を蜂起させて、曹操に降伏する劉琮派を城から叩き出したのだった。これにより、劉備は江陵に入城すると、新野から連れ立った古参の兵も含めて三万を超える兵を手にしたのだった。さらには、劉備が江陵を占拠したと知った劉琦が一万余騎を引き連れてこれに合流し、瞬く間に劉備軍は四万を超える勢力に膨張した。


 ――曹操もこれだけの兵が籠る江陵をそう簡単に手出しできないだろう。

 諸葛亮は、落とした襄陽を鎮撫している曹操のわずかな隙を狙って、江陵の周囲に八つの堅固な砦を築いた。さらに、曹操に無抵抗なまま降伏したことに賛同できない荊州の人士が、続々と江陵にいる劉備の盛名を慕って集結しつつあった。


 諸葛亮がよく知る主な人材だけでも、劉磐、潘濬、伊籍、向朗、霍峻、李厳、呉巨、魏延、黄忠などが幕下に加わったのだ。これに、元いた将を列挙すると、関羽、張飛、趙雲、諸葛亮、徐庶、陳到、麋竺、麋芳、簡雍、孫乾、夏侯蘭、劉琰などだ。


 ――これだけの将がいれば曹操と戦える。

 襄陽につぐ軍事の重要拠点である江陵を劉備が抑えたことは、曹操に相当な衝撃を与えただろう。荊州の首都ともいえる襄陽を一兵も損なわずに手に入れた曹操としては、まず、周辺地域の慰撫を行うと共に、動揺が鎮まるのを待ってから江陵に対する攻撃指針を決めるはずである。その時間がかかれかかるほど、劉備軍としては有利になるのだ。


 さらにいえば、城ひとつ持たずに逃げていたころと、江陵を拠点に周辺地域を制圧して、地方豪族を押さえつつある劉備では協力を依頼に来た孫権からして、その重みはまったく違っていた。


「劉豫洲、どうでしょう。一度、我が主君である孫将軍とお会いになってはいかがでしょうか?」


 いまや四万の兵を持つこととなった劉備は魯粛やその主である孫権からしてみれば、曹操の害を防ぐ盾として利用価値は十分なものとして成長していた。諸葛亮は劉備が深く考え込んだのを見て、さもありなんと思った。


 前世の記憶からして劉備は孫権のことを好んでいない。むしろ嫌っていた。実際に、孫権の父の孫堅や孫策は呂布に似た種類の人間で、やたらに血を好み、生き方や思考の隔たりが大きかったが、決定的に劉備と孫権は馬が合わないのだ。


 事実、諸葛亮は生涯の大敵であった曹操に関して、劉備が人格的な部分を悪く言ったのを聞いたことがなかった。若き日に、曹操から恩を受けて、許都で過ごした日々からして、劉備と曹操は人間的に通じ合う部分があったのだろう。


 実際、前世で孫権は荊州欲しさに兵を無理やり入れて、領土を蚕食し、しまいには劉備の義弟である関羽を呂蒙に殺させる暴挙にまで出ていた。諸葛亮は、前世で孫権に会っていたが、やはり心底信用はできない種類の人間であると感じていた。それだけに、目の前にいる魯粛の篤実さが際立つのだ。


「魯子敬どの、少し孔明と相談させていただきたい」

 劉備はそう言って人払いをすると、陣幕の陰に諸葛亮を誘い出し、わずかに憂いの浮かんだ顔を見せた。


 ――さあ、どうするべきだ。

 劉備は諸葛亮に意見を求める。諸葛亮は、手にしたお馴染みの羽扇をわずかに動かしながら、劉備の注意を引くとゆっくりとおのれの存念を吐き出した。


「我が主よ。以前も言いましたように、孫権と手を組むのは問題はないでしょうが、あくまで曹操を斃すのは我らが主でなければなりません。なぜならば、孫権の率いる江東勢力は本能的に荊州を併呑しようとするために、わずかでも我らの戦いに瑕疵があってはならないのです。我らがあくまで単独で曹操を追い返せば、孫権は荊州を領有する大義と意味を失います」


「だが、我らだけで可能なのか?」

「できますとも。主よ、我らはなにも正面切って曹操と戦う必要はないのです。城に籠って、敵が焦れるまで江陵を堅守し続ければ、先に音を上げるのは向こうのほうです。また、孫権と手を組む条件として、彼らには徐州を攻めてもらうことにしましょう」


「徐州を?」

「我らが曹操の大軍を引きつけている間に孫権の目を徐州に向けさせるのです。彼らも、本来ならば中原に近い土地を領有したいはず。そのあたりを私自身が孫権のもとにまいって、かき口説いてまいりましょう」


「頼むぞ、孔明」

 諸葛亮は劉備から信任されると、魯粛に連れられて船に乗り、柴桑に向かった。

 柴桑の港には孫権の旗印が風に舞う軍船がひしめくように埋まっていた。


 ――やはり、相変わらず抜け目のない。虎狼のような男だ。

 古代では情報の伝播が現代に比べてはるかに遅い。だが、劉表が死去したことや、劉備が曹操に追われていたことなど仔細漏れなく把握していることから、孫権はかなりの密偵を事前に荊州各地へと放っていたことがわかる。


 諸葛亮は、県の宿舎に通されると、しばし船旅の疲れを癒すために休息を取った。随行しているのは孫乾ひとりである。互いに向かい合って茶を啜る。


「それにしても、凄まじい数の軍船でしたな」

 津からここまでに至る道のりや宿舎の周辺には呉の兵が殺気を横溢させて満ちていた。孫乾はそれを言っているのだろう。


「孫権は、我らがどの程度使いものになるか当初はわからなかったのでしょう。よって、軍兵を過剰に連れ立ってきたのでしょうね。曹操軍は、厚顔にも八十万と号していますから」

「八十万。まさか……!」


 諸葛亮は前世の経験から、曹操軍の実数は十五万弱程度であろうと見当をつけていた。さらに、今回は江陵を劉備が奪取したことで、曹操軍に加わる降兵が減じたとしても、せいぜい合わせて十八万かそこそこで二十万には欠けていると見ていた。


「曹操軍の実数は二十万弱。それが実数でしょう」

「だとしても、我らの五倍近いですな」


 現在の劉備軍は四万強。新野に駐屯していたころと比べれば、夢のような大軍であるが、実際は寄せ集めに等しく、練度では心もとない。孫乾は器を置くと、苦しげな表情で額に汗を浮かべていた。能吏であるこの男は劉備軍で主に外交や内政を得意としていたが、今回のような大舞台に立つことは、たとえ補佐であっても初めての経験なのだ。諸葛亮は孫乾の中に極度の緊張を見て、ゆるんでいた心を引き締めた。


「我が主を説きに来た魯粛からしてかなり強硬な開戦派で、たとえ単独であっても水戦ならば勝機があるとこぞって江東の船を残らず引っ張ってきたのでしょうね」

 諸葛亮は羽扇を使いながらゆったりとした様子で答えた。


「しかし、孔明どの。孫権が我らと手を組まずとも、曹操と戦うつもりであるならば、こちらの要求は安易に吞まないのではないでしょうか」


「公祐どの。孫権は歳若いが狡猾です。我が主が江陵を得たことをむしろ苦々しく考えているでしょう。彼らが荊州を領有したいと思っているのは、江夏の黄祖を討ってからの宿願。我ら劉備軍が単独で曹操と立ち向かうといえば、表向きは止めるでしょうが、真実、弱ったところをまとめて叩いてしまいたいというのが本音に違いありません。それほど心配することはないでしょう。この交渉は、問題なくまとまります」


 当初、曹操は荊州を平定するのに数年かかると考えていたはずだ。だが、実際は劉琮が降伏したことで一兵も損ずることなく、一部を除く荊州のほとんどは曹操の手に入った。無傷の曹操軍はこれから江陵を主とする劉備と激戦を繰り広げるだろう。


 孫権はその漁夫の利を得るために、少なくとも数万の軍を率いて、もっとも近い柴桑に軍営を移したのだ。


 翌日、諸葛亮は孫権が居を構える軍営を訪れた。

 広場には、孫権の股肱ともいえる臣がずらりと集合していた。張昭、張紘、顧雍、虞翻、程普、徐盛、黄蓋、韓当、周泰、蒋欽、呂蒙、朱桓、太史慈、孫瑜、凌統、呂範、闞沢などである。その中には、兄の諸葛瑾の姿もあった。


 ――兄上、お久しぶりでございます。

 諸葛亮はわずかに瞳を動かした。兄もそれに応じるかのように、わずかに瞳を動かしたが、すぐに前を向いた。公私のけじめに厳しく、諸葛亮はそれが懐かしく、また嬉しかった。孫権はほどなくして広間の議場に現れた。


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