第007回「陳到の奮戦」

 曹操の名将曹仁の弟である曹純は字を子和という。十四歳の時に父を亡くした曹純は同母兄の曹仁とは別に暮らしていた。父の家邸と富裕財産を受け継いだ曹純は、数百の召使や食客が居たが、筋道を外さずに監督し、故郷の人々から賞賛を受けた。


 さらに曹純は学問を好み学者を深く敬愛したので、各地から曹純を慕って賢人が集まった。曹純が司空軍事を預かり、曹操と共に南皮の包囲戦に参加したとき、敵である袁譚の攻撃で多数の死者が出て曹操が及び腰になった際に


「いま、我らは千里のかなたから敵地に踏み込み、進撃して勝つことができねば必ず公と軍の威光を失います。元来、敵地に深く侵入した遠征軍は長期間にわたって対峙しにくいものです。敵である袁譚は勝利によってつけあがり、我が軍は敗北で慎重になっているので、これを逆手に取れば必ず勝利できるでしょう」と進言した。


 曹操は曹純の進言を聞き入れ、軍を発して激しく攻めたて、袁譚を敗北に導いた。このとき曹純は直属の騎兵隊を率いて袁譚の首を斬ったのである。


 また、曹純は北方の三郡を征伐した際に、騎兵によって単于の蹋頓とうとんを捕縛した。この時に、曹純が用いた騎兵隊が「虎豹騎こひょうき」である。


 虎豹騎は曹操軍の精鋭中の精鋭で、その隊員は百人の兵を率いる将校から選抜して任命する強さの純度が高いものであった。曹純亡き後は、虎豹騎の隊長を選ぶ際に、適任者がいないと嘆き曹操自身が率いることとなる。


 その虎豹騎五千を率いる曹純が追撃軍に選ばれたのだ。当然、追う側も追われる側も状況は苛烈に進行する。騎兵を疾駆し、昼夜兼行して矢のように突き進む曹純は、やがて十万余を超える避難民と共に逃げる劉備軍を当陽県の北に位置する長阪で追いついた。 


 最後尾にいた荊州の庶民たちは、虎豹騎を初めとする曹操軍に追いつかれると、悲鳴を上げて逃げ惑い、その混乱はやがて水面に落とした墨汁のように、じくじくと広がっていった。


 荊州の民たちには、かつて曹操軍が徐州の民を誰彼構わず虐殺した経緯が流布されており、伝播した恐怖と嫌悪感は強かった。戦場である。武器を持たぬ庶民を傷つけるなと言明されていた曹操軍であったが、悲鳴と粉塵が濛々と立ち込める現場では、そのようなものは砂上の楼閣であっさりと崩れ落ちる。


 槍や弓矢が使われると、家財を満載した車輛があちこで倒れ、槍で突かれた老若男女は血を流して逃げ惑う。兵士も若い女を見れば、手当たり次第に掻っ攫い、軍規が乱れるのを抑えることは、どのような名将であっても不可能だった。


 劉備はほとんど本能的に殺気が迫るのを感じ取ると、逃げた。逃げ足においては超一流の男である。この大陸で劉備にかなうものはいないと思われるほど、逃げることについては天才的だった。


 ――さすがだな、主は。

 それほど上手くない諸葛亮の馬術では妻子を放り出して、逃走のいわゆるプロフェッショナルの劉備についていくだけで精一杯だ。


 悲しいことに激しい調練で鍛えていた劉備の兵も、雲霞の如く湧いて出る曹操軍の本体に背を食われると、その力を発揮することなく、ロクな迎撃もできずに討たれていった。数十、数百の劉備軍は避難民に隊伍を破壊されて、左右から、背後から、あるいは前方からやって来る曹操の兵に抗することができずに、矢を浴び、槍で突かれ、虚しくも戦場の露と消えた。庶民と兵馬が巻き起こす土煙は、濛々と天に上り軽騎を指揮する曹操の視界を遮った。


「なんともすさまじい。これでは玄徳のやつもどこにいるのやらわからぬわ」

 不意に、怒号と雄叫びが入り混じった声が響いた。発音から、曹操は自軍の北国訛りであると聞き取り、身体を緊張させた。あきらかに、兵同士が争う声である。


 ――劉備の兵か?

 曹操の傍らで守護する許褚が特注の巨大な戟を携えたまま巨体を乗せた肥馬をずいと前に乗り出させ、不意の攻撃に備えた。許褚は傍らの兵に耳打ちすると、すぐさま状況を調べさせに出発させた。それから曹操は警戒度を上げたまま、この場の状況がよくわかるやや高い丘に駒を移動させた。


「ここなら戦況がよく観える」

 曹操が矮躯を馬上から持ち上げて戦況を観察すると、追撃兵の中央に乗り入れながら駆けている騎兵がいた。あきらかに、劉備軍の逃げ遅れた武将である。それが証拠に、曹の旗印を掲げた無数の騎兵が遮二無二無名の部将を追っていた。


 武将はいまや数万に達したであろう曹操軍の中を縦横無尽に走り抜けている。それは、あらゆる戦いで勝利を我が物にして来た曹操軍の兵卒にとって悪夢を具現化させたようなものだった。


「かの将が誰か調べさせよ」

 配下に命じる。この時、曹操軍の中を単騎で駆け抜けていた将こそ、劉備軍の趙雲であった。趙雲は、劉備からはぐれた劉禅と甘夫人がいないことに気づき、危険を承知で取って返し、曹操の大軍の中に駆け入ったのだった。


 趙雲の長槍が閃くと、精鋭騎兵がまるで子供のように突き殺されて転がった。曹操は伝令から白馬の将が趙雲だと知ると、小さく唸った。趙雲の強さは神懸かり的なものだ。雲霞の如く群がる歴戦の騎兵も趙雲の前ではかつての神威を失ったかのように次々と散ってゆく。やがて、曹操は伝令から騎士の名が劉備軍の趙雲子龍だと知ると感嘆したかのように言った。


「見よ。趙雲は幼児を抱きかかえておる。おそらくは玄徳の子であろう。あの者は主人の子を危険をかえりみずに救いに戻ったのだ。矢を射かけるのはこの曹操の名において許さぬぞ」


 曹操の言葉から強烈な賞賛の色を感じ取り、複雑な怒りにとらわれた男がいた。

 史渙である。


「なんと不甲斐ない兵たちよ。丞相、我がこの手で趙雲を捕えてまいります」

「やめよ、ゆくな」


 曹操が止めるのも聞かずに、史渙が矛を携えて馬腹を蹴りつけ猛烈な勢いで丘を駆け下っていった。


 史渙は字を公劉といい沛国の出身で曹操の旗揚げ以来の宿将だ。若いころは任侠の徒であり、中領軍に任じられてからは忠義と武勇で知られる男だった。史渙はほどなくして趙雲に馬ごとぶつかっていった。


 だが、史渙は趙雲とただの一合も打ち合うことなく、情け容赦ない槍のひと突きで馬上から叩き落された。落下した史渙。たちまちのうちに、軍馬によって塗り潰されて曹操の視界から消え去った。これを見ていた諸将も趙雲の神秘的といっていい強さに目を瞬かせた。


「だからゆくなと行ったのだ」

 曹操は歯噛みすると、馬の背に両拳を叩きつけた。それを見た周囲の兵たちがいきり立って激闘に加わろうとしたが、時すでに遅く、趙雲の姿は無数の兵に紛れて見えなくなったいた。それは、趙雲が無事その場から遠ざかったことを全員に理解させていた。


 曹操は、若きころから従っていた史渙の死を悲しんでいたが、それ以上に無類の力を発揮して大軍の中を駆け抜けて行った趙雲の姿に深い感銘を覚えていた。


「関羽、張飛だけではなく玄徳にはあのような猛者がついておったのか」

 どうして寸土の領地も持たぬ劉備にあのような名将がつき従っているのだろうか。

 曹操は呆然としながら、一陣の爽やかな風のような余韻を残していった趙雲の姿を脳裏の中で幾度も反芻していた。






 陳到は劉備が豫洲刺史に任じられた際に仕えた将である。武芸は若きころから得手であり数々の戦いで敵から劉備を守ってきた。腕にも経験にも自信はあったが、その陳到でさえもはやここまでと思った時が幾度かあった。


 ――いよいよここで劉豫洲ともおさらばか。

 殿軍を買って出た。すなわち、ここにいる白毦兵二百で曹操の放った追撃軍と真っ向から戦うのだ。斥候の情報によれば曹操が放った将は曹純であり、率いるは河北の戦いでその名を馳せた虎豹騎五千余騎を越えているらしい。


 同数であっても、抗しうるか難しいが、追い散らされたいまの劉備軍ではこれだけのことをやってのけるのは自分しかいない。また陳到には護衛長としての自負もあった。群衆の群れは劉備につき従い一本の線になっている。曹操軍はそれらを突き崩す形で、ここに至るであろう。曹操が徐州で行ったことはあまりにひど過ぎた。


 ――曹操は天下を獲れぬかもしれないな。

 実際に陳到は曹操が徐州で行った大殺戮を若いころにこの目で見分し、人は恨みや復讎のためにここまで薄汚れたことができるのかと絶句した。


 いまや、漢の丞相を名乗るほど曹操の名は知れ渡っており、積極的に民を虐殺はしないだろうが、それでも末端はわからない。そもそも戦場ではなにが起こるか誰にも予測しえないのだ。


「陳将軍。来ました」

 什長の王が叫んだ。三十そこそこの若い兵だ。格別に視力がよいので、陳到は重用してきたが、共に戦うのは今日で最後かと思うと胸がわずかに痛んだ。


「よいか。我らの使命は足止めだ。無理に組みついて戦う必要はない。敵の鼻面狙って引き回してやれ」


 陳到は戟を掴む腕に力を籠めると、自ら先頭に立って虎豹騎に喰らいついた。自慢の白毦兵。それぞれが戟を揃えて敵勢の先頭に突っ込んだ。勝つための戦いではない。どれだけ時間稼ぎができるかというのが主眼だ。


 陳到は戟を振り回して、たちまちに五、六騎を叩き落とした。それを、三度四度と行うと、精強に見えた虎豹騎のかたまりがこころなしかゆるんだ。ゆるみを狙って駒を駆けさせた。陳到と白毦兵がひとかたまりになって駆け抜けてゆく。ここで引きつけられるのは、千か二千か。とにかく逃げ惑う避難民をかわしながら戦った。


 邪魔だと思った避難民が、実のところ陳到たちをおおいに助けた。虎豹騎は曹操から命を受けているのか、民たちを見ると、積極的に矢を射ることはできず、多勢が足かせになっているようだった。


 陳到の指揮する白毦兵は、二十人の什長が、それぞれ十人の歩兵を統率して上手く戦っていた。横倒しになった車輛を盾にして、弓兵が敵の馬を狙う。矢に当たった馬が狂奔する。兵は姿勢を保てない。面白いようにバタバタと敵が馬から落下した。しかし、虎豹騎はさすがに精鋭だ。陳到の兵もみるみるうちに数が少なくなってゆく。


 そういえば、豫洲時代に陳到と劉備に仕えていた陳羣という能吏がいたなと、陳到は不意に思い出した。頭の固い陳到と違って陳羣はやがて劉備から離れていった。気持ちはわかる。だが、陳到は不思議と好待遇というわけではない劉備から離れることができなかった。


 劉備の人間力には謎の磁力がある。関羽や張飛、趙雲といった優れた名将も劉備の生まれ持った妙な磁力に引きつけられ、やがて離れられなくなった。戟を頭上で旋回させながら叫んだ。


「我こそは劉豫洲の大将陳到である。曹操軍の勇者よ。死にたい者からかかってくるがよい」


 気づけば、陳到のまわりには三十騎ほどになっていた。

 やや離れた場所で戦況を見ていたおおかた三十代前半くらいの武将が駒を駆けさせながら、手にした槍を高々と掲げた。


 若い曹操軍の部将は無言で槍を陳到に突きつけると号令を発した。それを機に、百騎ほどの騎兵が陳到に向かってまっしぐらに駆けて来る。凄まじい殺気だ。


 陳到は思う。なるほど、一騎討ちなどやる気はないのか。烈風のような鬼気を浴びながら、目の前にいる男こそ、虎豹騎の隊長である曹純であると確信した。


 ――吠え面をかかせてやる。

 陳到は右頬から流れ出る血を指先でぐいと拭うと、白毦兵の先を駆けた。戟を振り回す。相当な疲労が溜まっているはずであるが、身体は羽毛のように軽かった。右に左に戟を振り下ろし、少なくとも十名以上は叩き殺した。ここまで残った部下たちの力も極限にまで高められている。こちらは一騎も倒れていないというのに、虎豹騎の半ばは地に伏していた。陳到はニヤリと笑った。凄絶な笑みだ。曹純の顔が奇妙に歪んだ。


 陳到は馬の腹を腿で締め上げると咆哮しながら前進した。立ち塞がる虎豹騎。瞬く間に三人の頭部を破壊した。曹純が慌てて槍を構えている。すでに冷静さを取り戻していたのか、陳到を睨む目には鋼鉄の意志が宿っていた。槍の穂先。思いのほか鋭い突きだ。陳到は身体を反らしてさけると、戟を叩きつけた。重たげな感触。防がれた。曹純は一騎討ちに乗ったのか、どこか楽しげでさえあった。


「陳到よ。俺の名は曹純だ。冥途に行っても覚えておけよ。おぬしの首を取って、劉備と並べてくれよう」

「ほざけ」


 そのまま駒を止めて打ち合った。陳到の戟と曹純の槍が打ち合う硬質な音だけが戦場に響き渡る。気づけば、白毦兵も虎豹騎もこの一騎討ちに見入っている。だが、時間が経つに連れて陳到の有利さが際立っていった。


 ――この者弱くはない。だが。


「この陳到には及ばぬ!」


 戟が気合と共に繰り出された。曹純は慌てて防御に回るが陳到の技のほうが精度でまさった。刃の切っ先が鎧ごと曹純の右の肩口を割った。パッと血煙が立った。

 

 だが、トドメを刺すことはできなかった。将の不利を悟った虎豹騎が身を盾にして援護に入ったのだ。さらに遠くには「文」の旗印が見えた。故劉表の武将で文聘だろう。数百の新手がたちまちに陳到を包囲しようと輪を縮めつつあった。


「曹操の犬が!」

 気づけば白毦兵たちも、敵兵と戦闘に入っている。数的不利が如実に出始めた。特に文聘の指揮する兵は剽悍で白毦兵たちが次々と討たれてゆく。陳到は、文聘の兵を蹴散らしながら、手負いの狼のように吠えた。


「どけえっ!」

 陳到は、担がれて逃げるように去る曹純の背を見ながら馬首を返した。古代の戦闘で軍を率いる主将の勇猛さは格別士気に影響した。


「この次だ曹純。この次に出会った時、この陳到がおぬしの首をいただくぞ」


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