第006回「さまよえる群衆」

 ――やはり、こうなってしまうのか。

 諸葛亮は劉備軍の遅滞の原因となっている人々の群れに、焦りと懐かしさを思い出していた。関羽は余裕を持って出発させたので、すでに江陵にいる徐庶と合体しているだろう。劉備と劉琦を奉戴しようとする一派の力で城を取り、指令通りに防御線の構築に取りかかっていれば、江陵に集積された糧秣と武器で曹操に対抗することは充分可能だった。ほどなくして、密偵から劉表が確実に没したという情報を得た。


 ――確か、弔問に魯粛が来ていたはずだが。

 諸葛亮は、孫乾に命じて手持ちの金穀を使用し、数十艘の船に民衆を分譲させて逃がしたが、焼け石に水だ。それでも人の群れはあとからあとから湧いて、劉備にまとわりつくこと、まるで赤子が母親を慕うかの如きであった。


「主よ。このままでは、やがて南下する曹操の軍勢に追いつかれてしまいます。心苦しいですが、彼らを放ってでも軍を江陵に入れなければ後悔しても遅いですぞ」


 麋芳の言葉に劉備は騎乗のままわずかに首を振ると

「麋子方よ、それは違うぞ。そもそもが大事を成すには、人をもって基としなければならない。いま、荊州の民はこの私を頼りにすがってついてくるのだ。それを見捨てるなぞ、あまりにも忍びない。この劉備は、いままで曹操と戦って数えきれないほど、負けて、負けて、この南までたどり着いた。だが、得たものはあるのだ。たとえ城がなくとも、この劉備を慕う民がいるならば恐れることなどはなにもない。みなと共に歩く道が私の国で、すべてのはじまりだ。私はまだなにひとつ失っていないのだ」と言った。


 劉備の力強い言葉に諸葛亮は情けなくも涙腺がゆるみそうになっていた。ふと、羽扇で顔を隠しながら視線を転じると、馬上の麋芳は感銘するどころか、どこか呆れてわずかな侮蔑すら隠そうとしない目をしていた。


 ――もともとがそういう男だ。

 麋芳は劉備や諸葛亮などよりもはるかに現実主義者だった。できることはできるし、できないとハッキリ口に出す性格である。さらにいえば、麋芳の妹の麋夫人は劉備の妻のひとりであり、蜀においても明確な外戚であった。


 麋芳には明確な好悪がある。主人である劉備やその股肱である関羽や張飛との繋がりを醒めた目で見つめている。それと対照的に趙雲を武人として慕っている部分が垣間見えた。麋芳は、いままで劉備を見限って来た曹操陣営の陳羣や田豫などに近い反応を、関羽と張飛のふたりに向けているのだ。


 諸葛亮もかつてそうであったが、劉備との結びつきが強すぎる関羽と張飛--このふたりの豪傑がほかの良才を排除してきたであろうことは否めない。関羽と張飛は単純に劉備が好き過ぎるのだ。このどこかあり得ないほどの強いきずなで結ばれる紐帯感は他者を群れから追い出す雰囲気があり、それが士大夫層を劉備から遠ざけていた一因であった。


 あまりに多すぎる流亡の群れは著しく劉備軍の移動を著しく阻害していた。深夜になり劉備一行はやむを得ず露営を行った。いまや十万を超えるであろう群衆たちも、そこかしこで横になり大地を褥に休息に入る。


 諸葛亮の計算によれば関羽はすでに江陵に達しているだろう。直近の徐庶からの報告から推察すれば、劉備たちを忌避する抵抗勢力はすでに一層されているはずだ。


 ――ならば、徐庶は計画通り陣地構築を始めているはずだ。

 今回の大移動は、前世に比べれば少なくとも五日は早まっているはず。この時点で、曹操軍はいまだ襄陽には入城していないはずだ。とすれば、昼には編県を過ぎているので今回は追いつかれずに余裕をもって江陵に入城が可能となれば、さらに作戦を進めることができると諸葛亮はほくそ笑んだ。


 現在、劉備に従っているのは主な臣が、諸葛亮と簡雍、麋兄弟と劉琰、それと警護の兵が二十騎程度である。張飛と趙雲はそれぞれ群衆に紛れて分散した兵を集めに、個々で行動しており、この場にはいなかった。


「こうしていると若き日を思い出すな」

 焚火の炎を見つめる劉備の目には過去を懐かしむ淡い光が宿っていた。諸葛亮を除けば、誰もが劉備が旗揚げして以来の宿将であり、その歴史は敗北と逃走に彩られておりどう考えても輝かしいものではなかった。


「将軍が言われるように、昔はこんなことがしょっちゅうでしたなあ」

 関羽と張飛の次に古参の簡雍が、この窮地をどうということもないかのように言うので、それを聞いていた劉琰が真っ先にプッと噴き出した。


「徐州ではまっさきに逃げたおまえが言うかね」

「やあ、それを言われると、ちとつらい」


 簡雍がおどけた様子で後ろ頭を掻くと、それまで張りつめていた空気がゆるみ、劉備を初めとした一同が屈託のない笑いを上げた。


「そうそう、徐州では――」

 木の枝で薪の火を突きながら麋竺が過去における劉備軍の思い出話を始めると、麋芳までがくしゃりと顔を歪めて簡雍の肩を叩いている。


 ――そう、この方たちには戦の敗北などどうということもないのだ。

 諸葛亮は思う。

 劉備はあくまで笑みを浮かべながら皆の話を聞いているが、座の中央で話題を転がしているのは、近ごろとみに身体が丸くなりつつある簡雍その人だった。


 簡雍は字を憲和といい劉備と同郷である涿郡の人間である。麋竺や孫乾と共に従事中郎となったこの男に武芸の才はなかった。


 だが、常に劉備の話し相手になっていた簡雍は人と会えば、不思議と嫌悪感を抱かせず、するりと相手の懐に入り込んでしまう魅力の持ち主であった。


 関羽や張飛と違って軍ではまったくの役には立たず、かといって格別優れた智謀を見せることもなく、負け続けの劉備軍に影のようにつき従うこの男の存在の意味を諸葛亮は前世ではほとんど理解することができずに終わった。簡雍は、はかりごと帷幄いあくに運らし、勝ちを千里の外に決すという種類の人間ではない。かといって不器用ではなかった。軍事以外ならば、政治も外交もそれなりにそつなくこなすのだ。使い勝手はいい。


 諸葛亮はあえて簡雍を言い表すのあらば、いにしえの時代にその腕を振るった陸賈、蒯通、酈食其、随何などに近いだろう。


 ――窮地にこそ、人の本領が現れると言うが。

 前世では、同時期の諸葛亮は若かった。まだ劉備に仕えたばかりでなんら功績がなく、古くからの家臣団からは常に猜疑の目で見られていた。あのときの余裕のない自分では簡雍の貴重さを理解することなどできなかった。


 いまになって、やや道化染みた身振りや口ぶりで仲間の心を和らげる簡雍のなんという器の大きさだろうか。


「主よ。思い出話もよいですが、少しはお休みになってください。明日もまた、長く行軍が続きますので」

「――これは。孔明の言うとおりだ。互いにいたわり合って、随時休もうではないか。身体を休めるのも戦のうちだぞ」


 劉備はそう言うと、草むらに腰かけたままうつらうつらと浅い眠りに落ちた。戦場暮らしが長かった彼にとっては、このように細切れに寝ることは日常茶飯事なのだろう。さらにいえば、真っ先に眠りに落ちたのは、ほかの家臣を気遣ってことなのだ。主人である自分が眠らなければ、気を使って家来たちが休めるはずもない。


 劉備に随行して来た人々も夜になって疲れ果て、深い眠りに落ちているのが、周囲の灯火の少なさでわかった。諸葛亮もやわらかな叢に腰を下ろすと、少しだけ休もうと目をつむった。異変が起きたのは、数刻ほど経った、夜明け近くになってからだった。


 初めは避難民たちの慌てふためく声であった。

「なんぞ」


 すでに起きていた劉備が一番最初に気づいた。こういう状況下においてはもっともこの男が鼻が利くのだ。伊達に、半生を強敵から逃げ続け、みごとに逃げおおせたわけではない。劉備の生存本能は、命の危機に聡い。


「敵襲です」

 慌てふためいた小者が息せき切って告げた。見れば、劉備や諸葛亮たちが休んでいた小高い丘のふもとの森から、武装した歩兵が歓声を上げて駆けのぼって来るのが見える。


 数はおおよそ四百。

 十万を超える避難民の群れからすれば、本当にわずかであるが正体不明の軍の狙いはあきらかに、この場所を目指して真っすぐに駆けていた。狙いは劉備だ。


「曹操の軍勢か」

 劉備が小者に問うた。


「いや、軍装からすればあれは荊州兵です」

「なんだと?」


 劉備の戸惑いはもっともである。追撃の手の者が曹操の軍ならば「さもありなん」と思えるのだが、なんら抵抗力を持たない庶民を追い散らし、傷つける行為を劉琮が嬉々として行うとは諸葛亮も思っていなかった。


 ――戦うか逃げるかだ。

 夜半の間に劉備の兵は三々五々集まって八十名ほどになっていたが、迫り来る敵兵の数は三百を超えている。麋芳や劉琰がそれぞれ兵を指揮して迎撃に向かうが、激戦は諸葛亮のすぐ目の前で始まった。


「主よ。我が背に」

 諸葛亮は武芸など覚えはないが、それでもこの時代の男にしては身長は八尺(約一九〇センチ)を越えて偉丈夫である。劉備が剣を抜きながら身構えていると、麋竺が弓を携えてずいと前に出た。


「ご心配めされるな」

「子仲よ。無理をするでない」

「はは、なぁに。おまかせを」


 麋竺は劉備の言葉に軽く笑って応じた。子仲とは麋竺の字である。この、劉備を神のように崇拝する徐州生まれの男は、軍の指揮を執ったことはないが、一族皆そろって弓馬の達人であった。


 麋竺は弓に矢を番えると、諸葛亮が見るに、ほとんど狙いをつけたようにも思えなかったが、放つたびに次々と敵兵を射殺した。矢継ぎ早に麋竺が射ると、敵兵は喉笛や装備から露出した手足を撃ち抜かれ、面白いように転がって倒れてゆく。


 ――みごとなり。

 感嘆せざるを得ない。諸葛亮が呼吸を整えるまでに麋竺は敵兵十人あまりをたやすく射殺した。徐州の牧である陶謙の別駕従事であった麋竺は東海郡朐県の出身で、徐州では一万人の小作を持つ大地主かつ大商人であった。


 だが、この男、なんら未練なく故郷を棄て、寄る辺なく各地を転々する劉備を健気にも支えた。


 ほとんど狂信者のような麋竺はいついかなるときも無条件で劉備に命を捧げることにおいては、関羽と張飛を越えている。


 ――とにかく、主を安全なところにお移しせねば。

 諸葛亮が麋竺の奮戦の間に移動を始めようとしたところ、目の前の戦場に向かって彼方から疾風のように現れた騎兵が横合いから突っ込んだ。騎兵は敵軍を突っ切ると、ある程度の距離で反転し、再突入を行った。強烈な一撃に、歩兵が主体の敵兵はみるみるうちに陣立てを崩して、遠目でも足並みが乱れるのがわかった。


「あの旗は。叔至だ。叔至がようやく間に合いおったわ」

 劉備の背後でジッとしていた簡雍が明るい声を上げた。諸葛亮の目にもハッキリと映る「陳」の旗印は、間違いなく劉備の護衛隊長である陳到であった。


 陳到は字を叔至といい汝南の出身で豫洲時代から劉備に仕えた生粋の武人である。蜀の名臣を讃えるために書かれた楊戯の『季漢輔臣賛』においては、名声・官位ともに、常に趙雲の次にあったとされる劉備の数少ない名将のひとりだ。


 陳到は、戟を片手に騎兵を指揮しながら敵の軍勢にぶつかった。騎馬が敵の歩兵を噛み砕くと、たちまちに陣形が崩れる。


 機を見るに敏な陳到は騎兵に随伴していた歩兵を敵の乱れた場所に突貫させた。歩兵がみるみるうちに敵を追い立てる。陳到が現れて、ほとんど時間が経たぬうちに敵兵は潰走状態に陥った。


 陳到の率いる歩卒は白毦兵はくじへいと呼ばれ、劉備を守る親衛隊である。

 白毦兵は白い毛飾りで装飾した鎧を身に纏った劉備軍の中でも選び抜かれた精鋭部隊で、ひとりが五人の兵に相当する強さを誇っていた。劉備と諸葛亮が見守る中、まもなく陳到は敵の大将であろうひとりの男を拘束したまま連れて来た。


「主よ。この男は蔡瑁に仕えていた野盗上がりの男です」

 面に古傷が刻まれたふてぶてしい男は程勝といった。


「おまえは仮にも劉琮の臣下であろう。どうして、我らや罪なき庶民を襲うのだ」

 穏やかに語りかけた劉備の問いに程勝は縛られたまま地に唾を吐いた。


「愚かな劉備よ。我ら荊州はとうに曹丞相の軍門に下ったのだ。いまだ、わずかな兵を率いてこの地を混乱に陥れるおまえや時流の見えぬ愚民どもを討ってなにが悪い」


「なんという愚かな。故主の身体からまだ魂魄が抜けきらぬというのに、曹操に降を乞い、荊州を売り渡し、罪なき民を傷つけ恬として恥じぬおまえたちこそ逆賊ぞ」


 劉備の話が終わらぬうちに程勝が反論しようと首をもたげた。

 瞬間、抜く手も見せず陳到が剣を引き抜き程勝の首を斬り落とした。ドッと血潮を振り撒きながら程勝の首が地面に落下し転がった。


「劉将軍。お早くこの場からお逃げを。曹操から放たれた追手が御身を捜し出し害しようと血眼になっております」


「叔至。汝はどうするつもりだ」

「私ができる限り追手を食い止めます。将軍はすみやかに江陵城へお入りなさいますように願います」






 ――いまごろ劉備はどこにいるであろうか。

 劉琮を降伏させて、一兵も失うことなく事実上荊州を征服した曹操は、それでも喉の奥に刺さった小骨の如く、劉備の存在を気にしていた。


 ――あの男は放っておくとなにをしでかすかわからぬ、ぶきみさがある。


 別段、戦が上手いというわけではなく、天地を覆す神算鬼謀があるわけでもない。ただ、関羽を始めとした少数ではあるが大陸で指折りの豪傑が幾人も劉備に帰服していることを思えば、妙な人間的吸引力があると感じざるを得ない。


 襄陽の劉琮も江夏の劉琦も気にすらならないが、劉備を放置しておくのは、もはや王手のかかった曹操の天下取りに影を指すかもしれない怖さがある。宛から陸続となる輜重隊の車輛を置き去りにして曹操は軽兵を率いて襄陽に入城した。媚びた目で報告する荊州の蔡瑁という男を前にようやく劉備の動向を確認し、思わず歯噛みした。劉備は数日前に襄陽を通過して多数の避難民と共に江陵に向かっているとのことだ。江陵には、兵士と糧食と武器が大量に集めてあり、それらを劉備が手に入れると厄介なことになるのは目に見えていた。


「劉備を江陵に入れてはならぬぞ」

 たちどころに騎兵五千を編成すると、一族の曹純に率いさせてただちに劉備捕獲のため襄陽を出発させた。


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