第005回「曹操の南征」

 曹操の人生における最大の敵は誰であったのか――。

 それは間違いなく、河北四州を領有していた袁紹に間違いなかった。曹操の人生後半で中華統一を妨げたのは、のちに益州にて蜀を建国する劉備と江東に呉を建国する孫権であったが、曹操は彼らを邪魔に思ったとしても、自らを滅ぼす脅威とは捉えていなかったのは間違いない。


 それくらいに、建安十三年(二〇八)における曹操と劉備の力は隔絶していた。この時、孫権は揚州を得ていたが、とてもではないが河北と中原を制した曹操と五分にやり合える戦力は擁していなかった。ただ、一点だけ孫権が優っている部分があるとすれば、それは水戦だけであろう。


 だが、数年前から荊州攻略を考えている曹操は正月には冀州鄴県の玄武宛に玄武池を作り、水戦に備えて訓練を実施している。だが、孫権の下には、おそらく後漢末期の武将の中で、もっとも船戦に長けた一代の傑物である周瑜公瑾がいた。このため、畳水練のような俄仕立て程度では到底かなわない水軍を孫権は有しており、防御に専念すれば、やがて曹操も北に帰るだろうという一縷の望みがあった。


 それに比べて、劉備はどうだろうか。曹操の陣営の中でも、荊州がまとまった時の手強さは論じられていたが、客将でしかない劉備の存在はほとんど無視されていた。曹操本人を除いては――。


 ともあれ、南征である。曹操は荊州を平らげる前に、歴史上、もっとも重要である人物を招聘した。


 司馬諱、字は仲達という男である。河内郡温県孝敬里出身のこの男は、二十二歳で河内郡で上計掾に推挙された際、曹操に出仕を求められたがリューマチを理由に断っていた。その後、漢の丞相となった曹操は「捕えてでも連れて来い」と命じたため、後難を恐れた司馬懿はおとなしく従った。三国時代を終わらせた晋王朝を作り、歴史上「宣帝」と呼ばれる司馬懿も、この時期においてはその実力の片鱗を隠している。司馬懿は中央政府において着々と出世していくが、彼が歴史の表舞台に躍り出ることになったきっかけは、やはり魏帝国の初代皇帝となった曹丕に仕えて陳羣、呉質、朱鑠と共に「太子四友」と称され序列二位にまで昇る才能の豊かさにあったといえよう。この時の司馬懿は当然ながら諸葛亮の存在を知らない。


 ――どうにも劉備のやつが気になる。

 大局から見れば、瑕疵にもならない小さない局地戦であるが、曹操軍の名将である夏侯惇と若き勇将である夏侯尚のふたりが劉備に破れた。曹操は、若年のころから天に瞬く星の如く無数にいた群雄の中で、ただひとりといっていい最後の生き残りである劉備に異様なものを感じていた。


 確かに、いまはなにもない。だが、空の器はそれだけに底が知れず不気味なものを感じずにはいられないのだ。特に、夏侯尚の敗戦の経緯をつぶさに調べたが、とても曹操が知るかつての劉備の行うような戦い方ではない部分が気になっていた。


 策を用い過ぎている。葉県の戦い方は分解してしまえば、天候と統率の油断を突いたそれだけのものだ。


 ――だが、それだけのことを、こうもみごとにやってのけるとは。

 曹操はひとり感嘆する。言うは易く行うは難し。軍を統率するのは自分の手足を動かすのとはわけが違う。よほどに訓練を積んで命令系統をはっきりさせた兵卒でも、指揮官の予測通り動かすのは、この曹操であっても難しいのだ。


 しかし、みごとに気候の変化を予測し、闇夜と兵籍簿の不備を突いて偽りの投降兵を紛れ込ませ、夏侯尚の混乱を招いたやり方は、劉備にしてはでき過ぎだ。そして、案の定、密偵による情報収集により、劉備に諸葛亮という荊州出身の男が参謀についたと知り、曹操はどこか安堵していた。


 ――その諸葛亮という男、気になるな。

 曹操は左右の謀臣に近ごろ劉備に仕えた南陽の諸葛亮という男について尋ねたが、やはりその名は中央政府には届いていないようであった。曹操の深い憂慮を見た荀彧が整った顔貌のまま進み出た。


「丞相。なにをそのように憂いているのですか」

「文若。おぬしは、気にならぬのか。その諸葛亮という男のことを」


「あまりに気になさいますな。西涼の手当ても盤石。あとは我らの軍が速やかに荊州を落とし、孫権の呉を降伏させれば残るはせいぜい益州くらいなものです。三年の内に丞相の覇業は完遂するでしょう」

「おぬしが、そう言うのであれば、な」







「荊州を我が手に」

 曹操が南征の軍旅を発した。やや、遅きに失したが、熟した果実が自然と手の内に納まる時期がついに来たと、胸の内に落ちたのだ。


 参軍に、劉曄、張儼、賈詡、荀攸の四名を命じ、従える将は錚々たる面々だ。主な者でも、曹仁、曹洪、夏侯惇、于禁、李典、楽進、張遼、張郃、朱霊、路招、曹純、李通、杜畿、牛金、徐晃、許褚、毛玠、等々綺羅星の如く。


 西方の馬騰や韓遂の備えも充分に残しつつ、総兵力は十五万。勇将、名参謀を供えて万全の抜かりなく、曹操は南へと軍を進める。


 そのころの劉備と諸葛亮は――。

 劉表の指示により、荊州の防備を固めるために南陽の新野から襄陽の北にある樊城に軍の移動を行っていた。はんは襄陽の北に位置する。樊城と襄陽の間には沔水べんすいが流れており、劉備の移転は常識から考えればこの二城を連動させて曹操の南征軍を防ごうという策としか考えられないが、諸葛亮はこの顛末を知っていた。


 ――表向きは劉表の使者であるが、実際は劉琮が偽って出したのだ。


 諸葛亮が察するにすでに曹操軍の本体はかなり近くにいるであろう。

 劉琮は新野から劉備を退かせて曹操に降伏することをとうに決めていたのだ。劉琮は賢く常識的であるが、父である劉表とよく似ている。窮地を切り抜ける胆も智もなく、所詮は乱世を泳ぎ切る才覚のない男であった。


 ――ここからは時間との戦いになる。

 劉備を江陵に入れてしまえば、作戦の第一段階は成ったも同じである。江陵には、南下した曹操と充分に渡り合える武器と糧秣と金銀を、必要以上に蓄えさせることに成功していた。これも、あらかじめ徐庶を現地に送り活動させていた手によるものであり、この時期に曹操軍が南下すると知らなければできない事前の策であった。


 荊州は長らく戦乱から離れていたため、人材も物資も豊富で本来ならば充分曹操と五分に戦える素地を持っていたが、劉表はそれを使って外征を行う覇気も胆力もなかった。いうなれば、今日の荊州の事象は劉表が動かなかったことにもある。そして、密かに許昌に送っていた密偵から連絡が届いた。曹操が南下を始めたのだ。


 すべてを理解していた諸葛亮の動きは速かった。すでに、江陵に埋伏させている徐庶には蜂起の準備を始めさせており、いまだ曹操の南下を風聞程度に思っている、主である劉備と諸将を広間に集め、開口一番宣言した。


「諸将よ。すでに曹操軍は宛に入城した」

「それは――本当か?」


 劉備は、この男にしては珍しく驚きを露にして特徴的な長い腕をにゅっと突き出し諸葛亮の袖をがっしりと掴んだ。あまりの強い力に諸葛亮は痛みでわずかに眉を顰めた。


「主よ、まもなく襄陽から使者が着くでしょう。けれど、それを待っている時間はありません。我らは、いますぐ兵を整え江陵に向けて出発するべきです」

「使者とはどういうことだ」


「劉景升どのはもはや逝去なされたでしょう。それゆえ、この樊に留まるは無意味。また、襄陽も劉琮どのを支持する蔡一族に牛耳られているのは明白。我はすでに、虎口にいるのです」

「まさか、劉琮どのは曹操に降伏を?」


 諸葛亮は深くうなずくと羽扇を振るって幔幕の裏にいた兵士にひとりの男を連れてこさせた。劉備もよく知る、劉表に仕えていた臣のひとり宋忠である。諸葛亮は宋忠から竹簡を取り上げると劉備に差し出した。


 劉備は、ギラギラと光る瞳で竹簡の内容を読み取ると顔を真っ赤に燃え上がらせ怒りを露にした。そこには、劉琮が荊州の代表として曹操に降伏するという、人生を曹操との戦いの中に生きてきた劉備の存在そのものを玩弄する屈辱的な語に満ちていた。


「考えるまでもないでしょう。そして、荊州が曹操に献上されたのち、もっとも邪魔になるのは――我々です」

豎子じゅしが!」


 劉備は激怒した。その場にいた関羽や張飛が驚いて一歩退くほど、その顔貌には若きころと同様に無頼として生きてきた塊が隠しようもなく爆発していた。そして、驚くべき速度で腰の剣を引き抜いていた。今年で四十八になる劉備は歳と共に消え去っていたかあるいは故意に覆い隠していた気の短さが露呈していた。


 劉備が降伏書簡をバラバラに引き裂くと、竹が床に散らばった。劉備が剣を宋忠に突きつける。この時代の剣は片刃で反りのない直刀で切っ先が宗忠の鼻先ギリギリで止まった。宋忠は、青白い顔でその場にへたり込むと号泣寸前の幼児のように口をすぼめていた。だが、年齢と共に感情を支配できるようになっていた劉備は、瞳に烈火を湛えたまま剣を下げる。


「いま、そちの首を斬っても大局の趨勢にはなんら変わりはない。どこへなりとも消え失せろ」


 宋忠はもはや腰も立たぬのか、転がるように部屋を出て行った。劉備が長い腕をだらりと垂らし目を閉じたまま諸葛亮に声をかけた。


「孔明。我らはこの先どのように動くが最善か」

 聴く耳を持つ。劉備の長所のひとつであった。諸葛亮は劉備に作戦の要諦を簡潔に告げた。こうなると劉備の動きは誰よりも俊敏である。関羽に一軍を率いさせて江陵に向かわせると、先ほど移住してきた樊城から転がるように出て南に向かった。


 襄陽にいる劉琮が曹操に降伏してしまえば、もはや江夏の劉琦以外に仲間はいない劉備は袋のネズミ同然である。宛県からやってくる曹操の大軍と襄陽の劉琮軍に挟撃されれば、ひとたまりもなく劉備は破壊される。


 先行する関羽の一千を追うようにして、劉備は本隊四千を動かした。劉備は逃げることに関しては天才的である。諸葛亮は、劉備と共に駒を駆けさせながら、あらゆるものを擲ちようやくここまでたどり着いた男の横顔をジッと眺めていた。


 ――大丈夫だ。この男からは天命は去っていない。

 やがて、襄陽を過ぎ去るころに劉備のあとを追う官吏や庶民の姿がぽつぽつと増えていった。それらは時間と共に、とめどなく数を増した。やがては極大の雨による洪水かのように、一本の濁流となり、瞬く間に劉備軍を押し包んでしまった。


 それくらいに荊州の人々は、かつて曹操が徐州の罪なき民衆を虐殺した事実を恐れているのだ。つまりは、その悪鬼のように思われている曹操を二度も撃破した劉備は荊州の守護神のように思われているのである。民衆からすれば、老齢な劉表も末子でありながら兄を差し置いて後継者面をしている劉琮もまったく頼りにはしていないのだ。劉備軍の兵士のあと続く民は、すでに十万をはるかに超え、道は人の姿であふれかえり行軍は遅々として進まなかった。


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