第003回「かすかな勝利」

 劉備は戦上手なのか、それとも戦下手なのか。

 漢の建安八年(二〇三)に劉表に命ぜられて新野から北上した劉備軍を曹操は小蠅のように追い払おうとしたことがある。


 遣わしたのは、夏侯惇、それに于禁と李典。この三人とも曹操に古くから従っているつわものであり、戦闘経験充分の信頼できる将だ。都督の夏侯惇は小勢の劉備を端から舐め切っており、万余の兵で数千を追い散らすことなど造作もないと考えていた。


 事実、許都の曹操も他の将も、徐州陥落以降戦えば逃げるだけの劉備など危険視していなかった。


 だが、博望の戦いは違った。劉備は、敢えて屯営を焼き払って逃げたと思わせ、追撃して来た夏侯惇と于禁を伏兵で散々に打ち破った。劉備に策ありと疑い、兵を進めなかった李典のみが被害を受けなかったが、主軍である夏侯惇と于禁が再編成できぬほどに叩かれた継戦は不可能となった。劉備は李典が救援に来た時点で軍を退かせて、鮮やかな勝利を得たのだった。


 ――だが、現実はどうだ。

 若き夏侯尚は曹操軍に備わっている強さと勇気を己のものであると履き違えて、劉備のことなどは歯牙にもかけずに攻撃をかけた結果、佐将である臧覇を散々に打ち破られ、脳は怒りで煮えたぎっていた。


 ――おのれ劉備が。明日は我が直々に貴様を葬ってやろうぞ。

 魏の宗族のひとりで名将夏侯淵の甥である夏侯尚は曹操の前で


「劉備などなにするものぞ。定まった領地もなく、逃げ惑う術しか知らぬ筵売りなど話になりませぬ。荊州の老いぼれにすがってなんとか生き延びている流浪の輩なぞは、この夏侯尚が軽く屠ってみせましょうぞ」


 と、大言を吐いた手前、このままなんら戦果を挙げずに許都に戻ることなど絶対にできなかった。


 夏侯尚は李通を従え、敗軍を吸収した一万七千の軍を率いると黎明に進発した。後方には守備のための臧覇を置き、本軍は意気は天も衝かんばかりである。夏侯尚の闘志が萎えないうちに、すぐ近くの山野や離れた丘で「劉」の旗がちらほらと見えだした。そのたびに、夏侯尚の軍は斥候を出さずにはいられず、行軍は遅々として進まなかった。


 さらにいえば、二十、三十と昨日劉備軍に追い散らされた敗兵が夏侯尚の軍旗を見て野から寄り集まって来るので、その度に隊伍を止めるので、予定していた距離には届かない動きになった。


 ――愚かな劉備よ。このような小細工で我が軍の動きを止められるとでも思ったのか。


 夏侯尚は気が長い方ではない。次第に、視界でチラつくがなんら意味のない劉備軍の旗にイラつき出した。早朝に出発した夏侯尚は予定よりもはるかに遅い速さの移動を強制されたことで、精神的に焦れ出した。


 仕舞には伏兵の存在を危ぶむ諸将の声に対して夏侯尚は

「劉備なにするものぞ。多少の罠など噛み千切ってくれるわ」

 と、敢えて笑い飛ばすと軍旗をはためかせて、それまでの遅さを取り返すような素早さで進み出した。


 夏侯尚は臧覇が破れた地を踏破すると、ひらけた野に出た。折しも、晩秋が過ぎ、冬に差しかかっていた。すでに闇の帳が迫る。夕刻である。冬の日は落ちるのが早い。夏侯尚は用意していた灯を兵に持たせると奇襲に警戒して、軍を休ませる営塁を築きやすい地形を探すように指示した。だが、斥候の報告によりすぐ近くの丘に劉備軍が陣を構えている知るや否や、騎乗の人となった。


 行軍する兵たちの沓がザクザクと地を踏み鳴らす。夏侯尚がさらに軍馬を進めると、地面には昨晩降ったであろう雪が一面を覆っていた。闇が濃いが、万余の兵が手にした灯火により、あたりは相当に明るい。吹きすさぶ風も、夏侯尚の戦意を薙ぐことはできない。目の前の丘の劉備に対してより一層闘志を燃え上がらせるだけであった。


「ずいぶんに冷えますな」と、諸将が言うと夏侯尚が鼻で笑った。

「なあに、いくら冷えたとはいえ、ここは南の果て。北国の寒風で鍛えた我らからすればどうということもないわ」


 さらに進むと、小高く相当に広い丘の上に「劉」の旗印が見えた。夏侯尚の目に、それは叩き落されるのを待つ、憐れな小鳥の巣のように映った。


 ――たかだか、一千程度でどのように我らを阻むというのか。


「けなげな陣地よのう」

 すでに、劉備軍を呑んでかかった夏侯尚は、劉備が布陣しているであろう丘に向かって剣を突きつけ、一気に叩き潰せと号令を下した。


 夏侯尚は勝利を確信していた。平地の勝負は兵の数で決まる。確かに地上から攻めるのはやや不利であるが、目の前の丘はそれほど斜度がなく、目立った遮蔽物もない。


 歩兵が歓声を上げて丘陵を駆けのぼった。

 だが、夏侯尚が望んでいたように戦いは短時間で決着がつくどころか、駆けのぼった自軍の歩兵たちに少なからぬ損傷を生ませていた。さらに時間が経つと、劉備軍の優勢さは顕著になった。戦いは一方的に丘陵上の劉備軍が強く、蹴落とされるように討たれる夏侯尚の軍はみるみるうちに被害を増し、もはや目も当てられない状況に陥っていた。


 ――どういうことなんだ、これは。

 夏侯尚の兵が押される原因は足場にあった。丘は、昨晩降り積もった雪で一面が覆われており、やたらにすべるのだ。差は双方の装備にあった。劉備軍は一兵卒から馬に至るまで藁沓を履いており、足の踏ん張り具合が決定的な差を生み出していたのだ。


 たかだか一千余りの兵を囲んでいるというのに、一万五千の夏侯尚軍は一方的に被害を積み上げている。自尊心の強い夏侯尚は引くどころか、兵力の多さで戦況を覆せるとむしろ下がろうとする兵を督戦し、死地に向かわせていた。


「ええい、これしきで怯むな。敵は少数ぞ。劉備の首を疾くあげい!」

 夏侯尚がむきになって兵を進めるほど、雪の足場ですべり、猛烈な勢いで突き出される槍の餌食になった。


 これを見ていた李通は

「夏侯将軍。焦らずとも敵は我らよりはるかに小勢です。こちらは相手の十倍以上。丘を包囲してゆっくり攻めれば、じきに数の有利さでこちらが敵勢を上回りましょう」

 と、忠告を行った。夏侯尚が李通の献言に耳を傾け、部隊で丘を包囲しようとしたとき隊の中で異常が起こった。


「反乱だ!」

「敵襲だ!」


 夏侯尚軍の中で奇妙な声があちこちで上がると、それらは次第に現実となった。目を覆うほどの苛烈な同士討ちが始まったのだ。自軍の中で、猛烈な殺し合いが起こり、あたりは阿鼻叫喚のうずに陥った。


「どうしたことだ! なぜ、反乱が起こった。首謀者は誰だ?」

「冀州兵だ!」

「袁紹の残党が裏切ったぞ!」


 慌てて李通が事態の収拾を図ろうとするが、混乱は収まるどころか油に火をくべたように燃え広がるだけだ。確かに、今回劉備軍討伐のために編成された軍の中に河北で降伏した者が多かったが、この状況で寝返りが起こるとは甚だ都合がよすぎた。


 ――ありえない。

 李通はこの反乱が劉備軍のものだと素早く見破るが、ときはすでに遅かった。劉備軍が鹵獲した曹操軍の軍装を自兵に纏わせ、夏侯尚の部隊に潜り込ませたのち、機を見計らって一斉に蜂起させたのだ。


「落ちつけ、これは敵の策略だ! 声の主を探すんだ。鎮まれば、寡兵の劉備軍など簡単に蹴散らせるぞ」


 李通が馬を駆ってあちこちの混乱を収めようと動くが、一旦、燃え広がった疑念の炎は容易に収束しない。そもそもが、河北の降伏兵を曹操軍の兵が信頼していなかったという事実が大きかった。


 ――これでは戦うどころではないわ。

 夏侯尚が歯噛みしながらも、軍の沈静化を図っていると後方から強烈な火の手と黒煙が上がった。急ぎ、部将を派遣して調べさせた。火と煙の正体は、最後方にあった輜重隊を劉備軍の麋芳と劉琰が焼き払ったことによるものであった。


「臧覇のやつはどうした。あやつは兵糧の守りもロクにできぬのか!」

 憤懣やるかたない夏侯尚の怒りが爆発した、だがその怒りも、すでに劉備軍の虎将である趙雲子龍の手によって捕らえられていた臧覇に届くことはなかった。


 ――なんたることだ。

 完全な負け戦に、一旦、退こうとしていた夏侯尚の前に現れたのは「漢寿亭侯」と黒々と記された旗を前面に押し出した関羽の一軍であった。


「それ、一気に圧し潰せ」

 雄叫びも高らかに――。


 関羽は重さ八十二斤(約二十キロ)の青龍偃月刀を振りかざすと、かつては飛将と呼ばれた呂布奉先が愛馬としていた赤兎に跨り夏侯尚軍に乗り入れた。異様な冷たさを刃に宿した偃月刀が唸ると、夏侯尚の騎馬隊があっさりと弾けた。


 関羽が駆け抜けると、夏侯尚の騎兵が次々に落馬する。関羽はころやよしと見ると、夏侯尚の乱れに向かって騎兵を突入させた。異常なまでの突破力を誇る関羽の騎馬兵は、夏侯尚が放つ弩の矢をものともせずに、あっという間に距離を詰めて一方的に屠り出した。


 特に、関羽自身の超人的武力は凄まじかった。赤兎がいななきながら駆ける。関羽の青龍偃月刀が異様な風切り音を残して舞うと、駆け抜けたあとには十数人の首が落ちていた。


 夏侯尚が応戦のために放った矢も、死を恐れず向かい来る関羽の騎馬隊を傷つけたが、それは軽微にとどまった。


 関羽は豪勇を振るってすでに浮き足立っていた夏侯尚の兵を一気に突き崩した。錐のように鋭く強い関羽の率いる騎馬兵は、ひとつになってまとまると多勢である北国の軍団をたやすく貫いた。砕けた夏侯尚の陣は元には戻らない。関羽は敵の陣を突き破ると、再び馬首を翻して反転した。


「押せ、押せい」

 関羽がこのときとばかりに金鼓をこれでもかとばかりに力強く打ち鳴らした。夏侯尚の兵は一気に退却を始めた。


 こうなると、十倍を誇る兵力差もあまり意味はなかった。戦では向かい合って斬りう時よりも、逃走に移った軍を追撃する時のほうがはるかに戦果を得やすい。情け容赦なく、関羽は夏侯尚の軍に追いすがり、切り刻んだ。


 丘の上に布陣していた劉備もこの戦機を逃さない。

「いまだ。徹底的に追い打ちせよ」

 冴え冴えと輝く白銀の剣を高々と掲げると、劉備は逃げ出した夏侯尚に向かって歩兵を一気に叩きつけた。歓喜と勝利に満ちた声が劉備軍から立ち昇った。


 丘より奔流のように駆け下った劉備の軍は逃げ惑う夏侯尚の兵を面白いように、叩いて、叩いて、叩きまくった。対照的に、夏侯尚の軍は伸び縮みを繰り返し、たちまちのうちに瘦せ衰えてゆく。


「さらに追撃せよ」

 戦場全体を眺めていた諸葛亮は仕上げとばかりに、各隊に伝令を送った。関羽の兵が凄まじい勢いで襲いかかる。臧覇を捕えた趙雲と、蛇矛をしごきながら出撃を待っていた張飛がここを先途と左右から襲う。二将は万力のように伸び切った夏侯尚の軍を締め上げた。


 劉備軍は統制が取れずに棒立ちになっている夏侯尚の兵を揉み殺した。袋に入れられ、両手で押しつぶされる格好で曹操軍は原形を留めぬほどに叩き潰された。


「もはやこれまでよ」

 夏侯尚はわずかな護衛を伴うと戦場をなんとか落ち延び、李通は火攻で大火傷を負うが半死半生の体であったがなんとか逃げ切ることに成功した。


 戦いは劉備軍の大勝利に終わった。

 敵の損害は六、七千に達し、降伏する兵は二千を超えた。諸葛亮は凱歌を上げる劉備軍の歓声に包まれながら、羽扇を抱くと静かに目を閉じ、この地に散った英霊たちに祈りをささげた。関羽、張飛が意気揚々と戦果を確認するために野を回っている間に、ようやく新野城を守備していた張允が駆けつけた。


「かような如くでございます」

 諸葛亮が羽扇を弄びながら言うと、張允は驚愕した表情で降伏したために地に座る曹操軍の兵を見やっていた。劉備は笑みを絶やさずに張允に向き直ると言った。


「曹操の兵にはこの地を寸度も盗ませませぬ。襄陽に戻ったら劉荊州にお伝えください。新野のことはこの玄徳にすべてお任せくださいと」


 張允は、必ず劉備が破れると決めてかかっていたので合戦が行われている最中は城の中で微動だにしなかった。だが、現実は劉備の快勝があるだけだ。攻め寄せて来た夏侯尚も曹操が選んで都督としただけに凡将ではなく、佐将である臧覇も李通も名うての戦上手だ。


 張允は、夏侯惇を退け、いまもう一度二万を超える敵軍を苦もなく屠った劉備に安堵よりも恐怖を感じていた。それが証拠に、張允は勝利の祝宴の席には着かずに、這う這うの体で襄陽に向かって軍を戻しにかかった。この、張允の慌てた引き揚げ方を、丁度見回りから戻った関羽と張飛がジッと見守っていた。


「見ろよ雲長。あの張允の逃げっぷりを。いつもは偉そうにしていやがるが、実戦になりゃこんなもんよ。ざまあみろ! 胸がすくとはこのことだ」

 張飛は蛇矛を抱きすくめながら、喜悦の表情を隠そうともしない。


「とはいえ、今回の作戦は一から十まで孔明の指揮によるものだ。兵卒に対しては我らの日ごろの調練の成果がもとにあるとはいえ、かの者の功を認めざるは得ないな」


 関羽がどこか決まり悪げに自慢の髭を触ると、張飛も目を白黒させ、合戦では鬼神もかくやの働きを見せた武人とは思われぬほどの子供じみた百面相をしてみせた。


「ン、まあ。軍師どのの作戦はさすがにこの張飛さまでも思いつかぬ。だがな! 肝心なのは我ら将の働きがあってこそよ! そうだろう、雲長」


「ああ、そうだな益徳」

 二将はどこか負け惜しみの言葉を口にしながらも、諸葛亮の智謀に対して、確かに一目を置いていた。


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