モノクロの目
俺が小さい頃、集落の子供らとよく遊んだ森。
俺はもう一度、この森に行ってみることにした。
当時集落にいた人は皆どこかへ引っ越してしまったらしく、当時のあたたかい集落の跡形はもうなかった。
見えてきた森も、まるで魔法が消えたかのように色褪せて見える。
これではまるで、シズクに関する記憶の全てが幻覚だったかのようじゃないか。
…それでも。
シズクにもう一度会いたい、会って話がしたい。
たとえ本当にシズクがニンゲンじゃなかったとしても、どこにでもあるただの水だったとしても、それ以外の何であったとしても…、シズクは俺の大切な友達だったのだと。
ずっと伝えたかった。
…いや。
伝えるんだ。全てが沈む前に。
俺は、背の小さくなった森を記憶通りに進んでいった。
しばらく行くと、とても懐かしいものが現れる。
「これは…シズクの…」
小さい頃に秘密基地と呼んで遊んでいた、小さな小屋。
元々は人が住んでいたそうだが、俺が子供の頃には既に空き家となっていた場所だ。
入っても、おそらく問題はないだろう。
そう思い扉に手をかけた…その時だった。
とても懐かしい声がした。
「あれ…?なんでこの森に、ヒト…?」
背丈も髪色も肌の色も、何一つ変わっていない。
俺は思わず、その子供の名を口にした。
「シズク…。」
当時はあんなにかっこよく見えていたシズク…
時の流れは残酷だった。
あの彼がまさか、俺の腰ほどの背丈しかないなんて。
「え…君…、あのときの…?」
声、話し方、仕草。
どうみたって、それは幼い子供だった。それでいてどこか大人びている気もした。
「時の流れって、怖いね…」
シズクは俺を見上げた。彼の目は長い前髪に遮られ、その表情はわからない。
「シズク…、その…」
俺は髪について聞こうとしたが、言葉に詰まってしまった。
長い年月が造った壁は、シズクと俺をこうも遠い存在にしてしまったのか。
「あ…うん、僕………。」
シズクはそう言いかけてから、ふと考えるように黙り込んだ。
「君はもう子どもじゃないから…だまされないよね…」
シズクはもう一度うつむいてから小さく頷くと、そっと前髪に手を伸ばした。
「僕ね…」
彼の目は、キラキラと流れる美しい水のようだった。
少し儚げなその瞳に、俺は目を奪われてしまった。
「目…、あんまり見えなくて」
「え?」
シズクが盲目だなんて…、そんなはずがない。
シズクは、俺の顔を覚えていた。
色々な景色を見せてくれた。
「だから隠れていても変わらないんだ」
「シズク…」
「あはは、目が見えない…ってだけだよ、ちゃんと見えてるからだいじょーぶ…!」
シズクは俺の目をじっと見て続ける。
「あれ?ものを見るのって、目だけじゃない…よね?」
「見るのは、目だけじゃない…?」
「そう、心で見たり、音で見たりする…しない?」
「心で…」
“見る”ではなく“感じる”。
そう言われているような気がした。
「僕の目は、…いや、正確には僕は目の機能を持ってないんだけど、君は目を持っていて、心の目も、音の目も持ってる…」
三つの目で見ると、さらにずっと綺麗に、鮮やかに見えるんだよ。
そうすれば、モノクロの写真にも色がつくんだ。
“人生”って、こうやって楽しみを見つけていくものなんでしょ?
シズクの隠れていた表情が見えた気がした。
その目は鋭く、真剣だ。
「僕はヒトにはなれないし、僕の目が見えるようになることもないけど、君は違うんだよ!」
俺はシズクの勢いに圧倒されてしまった。
…きっとシズクは、本心からこう思っているのだろう。
そんなシズクの言葉は、“純粋さ”で形作られた凶器となって、俺を突き刺した。
子供の頃の純粋さは、いつしか凶器として降りかかるのだと知った。
小さい頃のあたりまえは、今やどれも綺麗事だ。だが小さい頃はなんの疑いもなく、それがあたりまえで正しいと思っていた。その事実がもう馬鹿馬鹿しくて仕方がない。
それでも、小さい頃のあの純粋さに戻りたいと思っている自分がいて。
その全てが嫌だった。
俺の世界は、何もかもが変わってしまったようだ。
今の俺なら、かけっこも木の葉ボートもきっと勝てる。
今の俺なら、綺麗などんぐりにも手が届く。
あの頃とは違う。今の俺は、当時あれほど憧れていた“大人”だ。
なんだってできるし、なんだって叶えられる。
…はずなのに。
どうして俺は走ることも、川を眺めることも、どんぐりを拾うこともせず、ただ呆然と倒木の隅に座っているのだろう。
俺は立ち上がり、ズボンについた土を丁寧にはらう。
…無意識下で行われたこの動作も、よく考えてみれば不自然だ。
あの頃の俺ならきっとしなかった。
俺は無心になって立ち尽くす。
「あれ?どうかした?」
そんなシズクの声が、大人になってしまった俺の脳内で嘲笑うように残響する。
「俺、大人になんてなりたくなかった…」
ただの独り言だった。
シズクにはわからないと思っていた。
「あー、それか…。」
シズクはきっと、なにかを知っている。
「…シズク?」
「あ、えーっと…」
あの頃、聞き出せなかった真相。
「言っても大丈夫だろう?どうせここには誰もいないし…」
俺がさりげなくそう言うと、シズクは黙ったまま静かに立ち上がった。
「…ついてきて」
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