私も、同じ

洗濯綿飴

私も、同じ

「ふぅ…。今回も良かったよ。はいこれ、今回のお金。」

「え、こんなに貰っていいの?」

「いいんだ。君のおかげでこちらは色々と助かってるからね。」

「そう?私みたいな無愛想なやつとするより、他の子としたほうがいいと思うけど。」

「いや、君みたいに自我が薄い子の方が助かるんだ。」

「…ふーん。まあいいや。今日はありがとう。」

「ああ。またよろしく頼むよ。」

 そう言うと男は暗闇の向こうに消え、私だけが公園に残された。万札の枚数を公衆トイレの入り口の、弱々しい黄色の電気で照らしながら数え、ポケットに入れて私も暗闇の方へと歩みを進めた。

 これは私の“仕事”の一つ。ごく簡単な自作のホームページに日時を書いて送ってもらって、ここの公園の公衆トイレで…。

 いや、詳しくは言わない方がいいかな。決して良いことではないし。

 そんなに頻度の高い“仕事”ではないけど、さっきの男が一番の常連。たぶん私の家計の二、三分の一があの男に支えられている。特に今回はかなりの額をもらってしまった。今日はカップ麺と一緒にシュークリームを買うことにした。



 錆びた蝶番を鳴らして、散らかった部屋にレジ袋を投げ込み、布団という唯一の安全地帯に体を収めた。

 私は一人暮らしの高卒のフリーターだ。さっきの“仕事”と、もう二つアルバイトをしながら生活している。

 わざわざ危ないことをしてまで稼いでいるのは、家庭に大きな問題があるからだ。私はごく普通の両親のもとで、ごく普通に暮らせていると思っていた。高三の冬までは。

 大学に行くためのお金が、父親に切り崩されていた。それどころか、父親は借金までしていた。

 その事が判明して間もなく、父親の書斎から注射器が二本転げ出てきた。父親は覚醒剤を使用していた。それを買うために、父親は我が家の財政事情をめちゃくちゃにしていたのだ。その日の私の怒りと悲しみは、今の私を感情のない屍にするのに十分すぎるくらいだった。

 当然、父親は逮捕され、ぼろぼろの母子二人と借金だけが残された。行きたかった大学にも行けなくなり、まともに働ける場所も見つけられないまま、犯罪者の娘というレッテルを貼られないためにも家を出た。それからというもの、父親の借金にはらはらと落ちていく紙幣を眺めるだけの生活をしている。

 私は父親が憎かった。だが、もっと憎かったのは、うちから財産を搾り取った上に、私の夢をも奪った売人の野郎共だった。あいつらが父親に手を出さなければ、私は大学に行って、真っ当に生きていくことが出来た。顔も知らないそいつらへの恨みだけは、私の心の内壁にカビのようにこびりついていた。

 私は味のしないシュークリームを無心で頬張りながら、毛ほども面白くないバラエティ番組を見ていた。このシュークリームも、この番組も、前は大好きだったんだけどな。すきま風が寒かったので、私はシュークリームを口に突っ込んでテレビを消し、とっとと寝ることにした。どうせ灰色の明日を、今日も迎えに行く。



 翌日の土曜日午後一時。今日は珍しくこの時間に“仕事”が入っていた。休日の真っ昼間は人が多いからやめて欲しいんだけどな。追い返すことも視野に入れながら、私は公衆トイレの壁に寄りかかってスマホをいじっていた。

「ねえ。」

 予想していなかった方向から突然声をかけられた。そこにはサッカーボールを手に持って佇む少年がいた。もしかして、早速怪しまれてる?いや、そんなはずはないか。だとしたら邪魔だな。どうやってこのガキを追い払おうか。そんなことを考えているうちに、少年から次の言葉が発せられた。

「遊んでくれる人って、お姉さんのこと?」

 私は一瞬思考が止まった。だがすぐに、この少年は“遊ぶ”をそのままの意味で捉えているということに気がついた。

「…もしかして、今日ホームページから申し込んだの、お前?」

「うん、なんかやった。」

 どうやってあの深層的なホームページがこのガキに届いたのだろうか。というか、「私と一緒に遊びましょう」っていうクソみたいな文句、まだ変えていなかったっけ。おかげで余計なガキが釣れてしまった。

「…悪いけど“遊ぶ”っていうのはそういうことじゃないよ。それに、私みたいな無愛想なやつと遊ぶより他の子と遊んだ方がいいと思うけど。友達とかいないの?」

 私はその純粋さに気分を害していた。こんなガキの守りをするためにここに来たのではない。私は、何とかしてこいつを他の人と遊ばせることは出来ないだろうかと考えた。

「友達は全滅だった。」

「お父さんは?どうせ休みでしょ。」

「お父さんは今日も仕事。」

「兄弟とかいないの?」

「いるけど断られた。」

「じゃあ、お母さんは?」

 少年は“お母さん”という言葉に反応し、大きな眼を少しそらして言った。

「…お母さんは死んだ。」

 その言葉は乾ききった私を少し動揺させた。

「…そう。」

「まあいいや。遊べないなら向こうでやってる。」

 そう言って少年は向こうにとぼとぼと歩いていった。本当なら喜ばしいことのはずなのに、“お母さんは死んだ”という一言がどうも引っかかって、複雑な気持ちだった。

「…分かったよ。」

 私は少年を半ば勢い任せに引き留めた。

「十分。十分だけだよ。」



「じゃあいくよー。」

 少年は私に向かって真っ直ぐにサッカーボールを飛ばしてきた。私はそれを踏んづけて、雑に少年のもとに返した。少年からかなりずれた軌道を描くボールを、少年はいそいそと迎えに行った。

 しばらくは無言で蹴り合った。だが、このサッカーボールはやがて発言権となった。

「そういえば、お姉さん名前何?」

 最初に話し始めたのは、やはりと言うべきか、少年のほうだった。

「名前?名前はメムだよ。ホームページに書いてあったでしょ。」

「それ本名なの?」

「本名だよ。」

 「芽生」と書いて「メム」。それが私の名前だ。

「へぇ。俺はミクル。小学五年生。」

「ふーん。」

 これを最後にまた会話のない時間が続いた。とはいっても、たまに「今のは止めれた」だの、「つま先じゃなくてインサイドで蹴れ」だの、ミクルからダメ出しをされることはあった。これだからガキは、と思いつつも、私は黙々とボールを蹴り続けた。

「ねえ。」

 暫くしてまたミクルが話し始めた。

「メムさん、さっきから全然楽しくなさそうだけど、もしかしてサッカー嫌い?」

 私はサッカーは嫌いではなかった。だが、私はこの球の蹴り合いに空虚さしか感じていなかった。

「…別に。そういう君はサッカーが好きなんだね。将来はサッカー選手とかになったりするの?」

 そう聞くとミクルはこれまでせわしなく飛ばしてきていたサッカーボールをぴたりと止めた。

「…なりたかったんだけどな。」

 “なりたかった”。その言葉がさっきと同じように引っかかった。

「…お母さんが死んでから、お父さん一人で兄弟三人を支えなくちゃいけなくなって、それで俺が入ってた少年サッカーを辞めろって言われたんだ。キンセンテキにきついからってな。それで選手を目指すのはやめにしたんだ。」

 これを聞いてようやく、私は引っかかりの正体に気がついた。

「私も、」

 ボールが返ってくるのを待たず、自然に言葉がこぼれた。

「私も、同じ。私もね、家族が突然壊れちゃって、大学に行くっていう夢を諦めたんだ。」

 ミクルは少し驚いたようにじっとこちらを見ていた。まるで見えないサッカーボールが私の足元にあるかのようだった。

「…でも君はまだ小学生でしょ。中学校でサッカー部に入ればいいじゃん。」

 同じとは言ったが、私はまだミクルを自分と同一の存在だと思っていなかった。第一、小学生と成人では訳が違いすぎる。私はミクルに、一方ではフォローするようで、他方では突き放すような言葉をかけた。ミクルは暫く顎に手を置いてうーんと唸った。

「…もう目指す気力が無くなっちゃったからな。」

 その答えは私のフォローと突き放しの両方を無碍にした。

「…そっか。それも私と同じだ。」

 私だって、父親の借金を完済した上で頑張ってお金を貯めれば、大学に行くこと自体は可能だ。でも、そうする気力はもう、全く無かった。

 この会話の後、静寂が今までと違う形になって覆い被さった。

「…あ、もう十分経ったね。そろそろ終わりにしよ。」

 本当は十分経つまではあと一分ほどあった。だが、どういう訳か私はこの静寂から早く逃げたかった。

「あ、ほんとだ。じゃあ帰るよ。今日はありがとう。」

 ミクルは公園の時計を一瞥し、出口の方に体を向けた。その直後に「あっ」と声を上げた。

「お金、持ってくるの忘れた…。」

 特に金額は指定していなかったが、料金は支払うようにと、ホームページに書いてある。ミクルはそれを見て、ちゃんとお金を払おうとしていたようだ。

「ちょっと待ってて、取りに行って──」

「いや、別にいい。」

 私はミクルが慌てて早口で話すのを遮った。

「これは私の本来の“仕事”とは違うからね。お金を取る義理はない。それに…」

「それに?」

 ミクルは首をかしげた。

「…いや、なんでもない。それじゃあね。」

 私はいつものようにそっけなく、ミクルに背を向けた。

「…ねえ。」

 慣れた足取りで家の方に向かおうとしていた私をミクルは引き留めた。

「また申し込んでいい?」

 今までの私なら、迷いなく駄目だと言っていただろう。だが、今の私は最初に抱いていた苛立ちは全く感じていなかった。

「…好きにして。」



 それからというもの、「メムさんとは気が合うから」という理由でミクルはほぼ毎週末“遊び”を申し込んできた。毎回サッカーボールを持ってきては、パスやら、PKやらをやろうと言ってきた。たまにサッカーボールを向こうに追いやって、シーソーに乗ったり、かくれんぼをしたりもした。

 私とミクルの“同じ”ところは彼と話す度に増えた。例えば、ほぼ同時期に家庭が崩壊したところ。夢が途絶えて落ち込んでいたところを励ましに来た友人と喧嘩したところ。崩壊する以前の両親はとても仲が良かったところ。不思議なくらいに“同じ”な私とミクルの出会いは、運命と言っても過言ではないのだろう。

 だが、同時に私はミクルとの“違い”も感じていた。

 まず、ミクルは誰かにお金を、夢を、奪われた訳ではない。聞いたところによると、ミクルの母親は心臓発作で突然亡くなったらしい。だからミクルの不幸は誰のせいでもない。でも、私の不幸は人のせいだ。壊れたのではない。“あいつら”に壊されたのだ。

 私とミクルの“違い”はもう一つある。

 私はまだ、ミクルとの“遊び”を楽しいと感じたことがない。

 確かに、薄情な私がミクルからの“遊び”の申し込みを無視したことは一度もなかったし、この公園は私の中で“仕事”の場所であると同時に、“遊び”の場所になっていた。でも、私はこの“遊び”を楽しめていない。これはおそらく、年のせいではなく、単に私の心が荒んでいるせいだ。でも、同じような境遇を持っていながら、ミクルは荒んでいない。この違いは一体何なのだろう。



 それが分かったのは、お互いについての共通認識が十分に根付いてきたある日のことだった。その日は珍しく、平日の昼過ぎ、学校終わりに“遊び”を申し込んできていた。その日も相変わらずサッカーボールを持ってくるミクルに、私はふと生じた疑問を投げかけた。

「ミクルは選手になるのは諦めたのに、まだサッカーで遊ぶんだね。」

 ミクルは不思議そうな顔をした。

「そりゃあ、俺はまだサッカーが好きだからな。それに、選手になる夢は諦めたけど、夢を完全に捨てた訳じゃないんだよ。」

「…どういうこと?」

「海外にワールドカップを見に行くんだ。そのためにいーっぱいお金を貯める。お父さんも連れてけるくらいな。それが俺の新しい夢だ。」

「…夢か……。」

 なるほど、だからミクルは荒んでいないんだ。私は大学に行くという一つの夢だけに拘泥して、他の夢を持つという選択肢を見失っていたのだ。私も何か新しい夢を見つけたら、少しは変われるかもしれない。

 でも、今の私が持てる夢って、何だろう。

 今の私はたくさんあったはずの選択肢を消された挙句の果てだ。今から追える夢なんてあるとは思えないし、あっても追う余裕がない。だが、このままの夢も希望もない生活の先に待ち受けているのは、孤独な今際だけだ。せめて今の荒んだ心が少しでも晴れさえすれば、そのような悲惨な結末も避けられるかもしれないのに、分岐点がどこにも見当たらない。

 私は、一体どうしたらいいのだろう。

 ……。

 だめだ。分からない。

「…分からないよ……。」

 気がつくと、私は行き場を失った雫が瞳から落ちて、砂に染みて跡形も無くなるのをただ見つめていた。それは私の行く末そのものだった。

「…大丈夫?」

 私の様子を見たミクルが心配の言葉をかけてきた。

「…ごめん。向こうで遊んでて…。」

 私は雫を手に逃がして、ふらふらとミクルの元から離れた。



 私はブランコに座りながら、遠くで一人で遊ぶミクルをぼんやりと眺めていた。私の夢は何か、ミクルを見ながら考え続けた。

 しかし、どんなに考えても答えが浮かんでこなかった。同じような人生を歩んできたのに、どうしてこんなにも私とミクルには差があるのだろう。

 ミクルはすごいな。あの境遇を以てして、私みたいにならずに、あんなに健気に…。

 ……すごい?

 そっか、ミクルは私のなりたかった私だ。同時に、私のなれない私だ。

 でも確かに、ミクルは私だ。

 私はブランコから立ち上がり、ミクルの元に歩み寄った。

「ミクル。」

 ミクルはやや固い顔をしてこちらを見た。

「…考えたけど、新しい夢を追って、それを叶えることは、私にはできないや。」

「…そう。」

 ミクルは少し寂しそうな顔をした。

「…でも、ミクルなら出来るよね?」

 急に出来るかどうか聞かれたミクルは少しびくっとした。

「…うん、頑張ってみる。」

「じゃあ、私に応援させてほしいな。」

 私は膝をついてミクルの小さな手を胸元まで持ってきて、両手で握った。

「私には出来ない。でも、ミクルなら出来る。だから、“同じ”過去を辿ったものとして、君を、君の夢を守らせて。ミクルの夢が叶うこと、それが私の夢だ。」

 瞬間、心が色を思い出し始めた。

「…何だよそれ。」

 それを聞いたミクルは私の手を振り払った。少しして、ミクルはくすくすと笑い始めた。

「結局夢できてるじゃん」

「ははっ、そうだね。」

 それを聞いた私も、思わず笑ってしまった。

「あっ!今笑った!!」

 ミクルが叫んだのを聞いて私も気付いた。笑ったのはいつぶりだろうか。

「…よし!じゃあ今からサッカーしよ!俺からボール奪えたらメムさんの勝ち!」

 ミクルはさぞ嬉しそうにサッカーボールをドリブルして向こうに駆けて行った。

「あ、ちょっと待って!」

 それを私もすぐさま追いかけた。それから、私とミクルは遊び続けた。まるであの日の前の、虹のようにきれいだった私に戻ったようだった。

 この日の“遊び”は、本当に楽しかった。



 だが、この楽しい時間ですら壊れてしまうものだった。



 私とミクルは遊びに遊んで、気付けば辺りはすっかり暗くなっていた。

「…ちょっと遊びすぎちゃったな。」

「そうだね。でも、とても楽しかった。」

「そっか、メムさんが楽しんでくれたなら何よりだよ。」

 そう言って、二人はまた笑い合った。手を見ると、砂で随分と汚れてしまっていた。

「手、汚れちゃったね。」

「俺も。」

「じゃあ、最後にそこの公衆トイレで手を洗ってから帰ろっか。」

 私とミクルは公衆トイレに向かって歩いた。



 ミクルが手を洗い終わるのを入り口で待っていた、その時だった。

「メムちゃん?」

 突然、ミクルとは違う低い声で呼びかけられた。でも、聞き馴染みのある声だ。

 見るとそこには一番の常連の男が立っていた。今日の夜は“仕事”が入っていた事をすっかり忘れていた。

「あーごめんごめん。すぐ始めるから。ちょっと待ってて。」

 そうやって常連の男と話しているところに、手を洗い終わったミクルが帰ってきた。

「あ、ミクル。ごめん、私用事できたから、先帰って──」

 私が言いきる前に、ミクルは常連の男を凝視して言った。



「…お父さん?」



 その言葉は感情を取り戻しかけた私を無惨に貫いた。それから、黄色の電気に照らされた自分の汚れた手を見て、私は膝から崩れ落ちた。



 全部理解した。

 私の夢がどれほど皮肉めいたものなのか。

 ミクルの少年サッカーのためのお金はどこに行っていたのか。

 ミクルにとっての“あいつら”が誰なのか。



 そっか。何で今まで気付かなかったんだろう。



 私も、

 同じ。

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