第9話
日は既に傾き始め、静かな春夕が訪れる頃、二人は宿場町イズラに到着した。
黄昏時の町は活気に溢れ、市民街の朝市が有名なエレマとはまた違った空気が漂う。町の中央にある大通りには、宿屋だけでなく、居酒屋や服屋なんかも店を連ねている。
店同士をつなぐのは照柿色のランプ達。そよ風に揺られながらも、穏やかな光を灯す様子はえも言えぬ美しさだ。
「イブ様、風呂屋は確か大通りの突き当たりです」
「……ぁ、はい」
街が貴族街と市民街に別れるエレマとは対照的な、イズラの風景に目を奪われたのか、イヴァンは上の空だ。
「イブ様、髪をどうなさるのかお決めになりましたか?」
目深に被った墨色のフードから溢れる白髪は、どこからか吹いてきた風に遊ばれている。
「私の髪はそんなに目立つのでしょうか」
「服装が黒系統なのに対して、白髪では余計に目立つかと。それに、この国で白髪は珍しいですから。どちらにせよ追手に見つかってしまいます」
残念ながら、出来ればこのままが良いんだけどなぁ、と言うイヴァンのらしくない呟きはリアムには届かなかった。
「……仕方ないです。それでは、風呂屋で髪を染めましょう」
観念したのかイヴァンは諦め気味に口を開いた。
「ありがとうございます、イブ様。このまま道なりに行けば風呂屋に辿りつけると思うのですが……」
手にした地図をひっくり返しながら、自信なさげにリアムが応える。
すると、横からイヴァンがひょいと地図を取り上げた。
「はぁ、追手が迫っているのでしょう。ほら、こっちだ。ついて来て」
リアムより頭二個半、身長の高いイヴァンを見上げれば、どこか不貞腐れたような横顔をしていた。口調も少し荒い。
「……イブ様は、髪が大切なのですか?」
リアムはそう問いながら以前、中年の先輩騎士達が頭髪について嘆きあっていたのを思い出していた。
「?大切という訳ではないんだけど、何時でも姉の身代わりになれるようにするためにずっと伸ばしていたから……」
「失礼ながら、身代わりというのは?」
「ほら、姉さんは聖女だろう。もしもこの前のような戦争で負けたら、姉さんの存在は貴重だ。身分、力、容姿の全てが揃っているからね。教会からしたら、姉さんを手放すことはできない。そんなもしもが起きた時のために、僕が姉さんの身代わりになれるよう髪を伸ばしていたんだ」
「……そう、ですか。踏み込んだことを聞きました。すみません」
「いや、気にしないでください。今のうちに話すことができて良かったです」
「……」
いつの間にか口調が正しいものに戻ったイヴァンの瞳には、何だか清々しいものが映っていた。反対にリアムは、人の触れてはいけないものに触れたような気がして、口を閉ざしてしまう。
しかしそれも一瞬だけで、大通りの突き当たりに、風呂屋の特徴的な煙突を見つけると空気が和らいだ。
「あ、見えてきましたよ。多分あれが風呂屋ですね」
イヴァンの声につられて上を見れば煙突から湯気が流れてくる。その湯気は暖かく湿っていて、ほんのりと薬草の香りがした。
そして二人は風呂屋に入ると直ぐに個室の湯室を借りた。けれど個室という割には広めの空間で、人が五人は余裕で入れるであろう浴槽に、これまた広めな脱衣所が併設されている。
そんな中、リアムはさっさと背負っていた荷を下ろし、中から灰色の液体が入った小瓶を取り出す。
「イブ様、そこに腰掛けてください」
側にあった椅子にイヴァンを座らせ、上等そうな衣服が汚れないように、風呂屋から借りた適当な布を肩にかける。そして、口周りを覆うように手巾を巻いた。
「今からイブ様の御髪を、灰色に変えさせていただきますね。匂いや感触が不快だとは思いますが、少しだけ我慢してください」
イヴァンが何も言わずに頷いたので、染めて良いということだろう。リアムは掌にどろっとした液体を広げる。すると辺りに酸っぱい刺激臭が漂い、鼻腔をついた。
「……っぐ」
イヴァンが苦しそうに息を漏らし、顔を歪める。
「大丈夫ですか?悪心があるようなら止めますが」
「大、丈夫だ。続けてくれ」
「わかりました。慣れてくるとは思いますが、直ぐに終わらせますね」
液体を広げ終えると、イヴァンの艶やかな白髪に触れる。腰まで流れる長い髪は、生糸のように細くしなやかだ。けれどその髪を、灰色に染め上げる。
リアムの手が何度も髪の上を滑り、段々と色が移る。髪のツヤは染料によって抑えられ、見目麗しい神官とは全く違う人物のようになった。
「——できました。あと少しで、染料が乾くと思います。乾いたら、御髪を整えて此処を出ましょう」
染料の独特な香りが滞る空気を逃すため、小窓を開けながら、イヴァンに声をかける。見ればぐったりとした様子で、長い手足を伸ばしていた。
「イブ様?」
「……あ、いや。気にしないでください。中々きついものだったので、疲れただけです」
「お身体に障るようでしたら、これ以上は……」
「いいえ、進みましょう。早く外の空気が吸いたいので」
力なく笑うイヴァンの姿に一抹の不安を覚えながらも、リアムは風呂屋を出る準備をし始めたのだった。
===
(注意)
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます