第97話 断ち切る想い

 水影みなかげとの口論の末、安孫あそんは一人、自室へと戻っていく。その足取りは重く、ずっと前を歩くルクナンの後ろ姿に、頭を抱える。普段温厚な安孫が、水影との口論で、不覚にも感情を爆発させてしまった。しかしそのお陰で、自分の気持ちとも向き合えた気がする。そんな風に思う安孫が、ふうっと吐息を漏らした。水影の言葉が脳裏をよぎる。

『——ルクナン王女が、自ら望まれて王妃になられるとお思いか? あれだけ貴殿を好いておられたルクナン王女が、貴殿への想いを、簡単に断ち切れるとお思いか?』

「……それがしとて、我が想いを簡単に断ち切られるほど、軽い気持ちでおったわけではない」

 そう独り呟いた安孫が、衛兵に囲まれ、自室へと入っていくルクナンに、ぐっと想いを募らせた。その姿が消えてしまう前に、「るくなん王女殿下っ……」と大声で名を呼び、「ソンソン……?」と首をかしげた王女を、衛兵らの目の前で、疾風のごとく搔っ攫っていった。

「ソンソンっ……?」

「なっ……! 地球人がルクナン王女殿下を誘拐した……?」

「とりあえず、追うぞ!」

 残された衛兵らが安孫を追いかけようとした、その時——。

「追わなくて良い。春日さんならば、心配ない」

 そう中央管理棟へと向かっていたセライから助言され、「は、はあ……」と、衛兵らは頷いた。


 いつもの庭園にルクナンを降ろした安孫が、さっとその場に平伏した。すでに時刻は、夜の照明へと切り替わっていた。

「ソンソン?」

 未だ状況が掴めていないルクナンが、何も言わずにこうべを垂れる安孫の前で、胸に手を寄せる。それでも、互いの覚悟の為、ルクナンは気丈に振る舞った。

「顔をお上げなさい、春日安孫」

「……御意」

 顔を上げた安孫が、今にも泣きだしそうな表情で、ルクナンを見上げる。その表情に、ルクナンもまた、込み上がる想いが堰を切りそうだった。

「……王女であるルーナの許可もなく、その身を奪い去った罪は、たとえ月の英雄であっても、重いですわよ?」

 ハクレイの裁判後であることから、罪という言葉が、重く安孫に圧し掛かる。

「罰を受ける覚悟は出来ております。それでも、如何どうしても貴方様とお話したく、斯様かような無礼を働いたことは、心よりお詫び申し上げまする」

「そう……。それで、ルーナに話とは、何ですの?」

 いつかと同じように、ルクナンがブランコに座り、安孫の言葉に耳を傾ける。

「……るくなん王女殿下におかれましては、新国王即位がため、他の王族の方との縁談をお受けする御覚悟であることは、の春日安孫、存じておりまする」

 自分が王妃になると宣言してから、ルクナンは一度も安孫とは話していない。そのことを人伝ひとづてに聞いた安孫も、ルクナンの覚悟を察し、自らは話しかけなかった。

「されど、今一度、王女殿下が御考えを改めて頂きたく、斯様な場を設けさせて頂いた所存にございまする」

 ごくりと息を呑んで、安孫は自分の想いを伝える。

「此の月が世に於いて、第四王女であらせられる、るくなん王女よりの厚い信頼、此の春日安孫、身に余る光栄にございますれば、の並々ならぬ愛情も、いつしか我が身を焦がす、熱い想いへと変わってゆきました……」

「ソンソン……」

「王女殿下との平穏な日々が長く続けばとっ……左様な願いを抱いておりました矢先、るくなん王女が御覚悟を知り、某はっ……」

 うるうると安孫の涙が溢れていく。難しい言葉が紡がれるも、ルクナンには安孫の気持ちが痛いほど伝わってくる。安孫は立ち上がると、「御免っ……」と口早に、ルクナンの体を抱き締めた。

「そ、そんそんっ……?」

 それにはルクナンも驚いたが、痛いくらい抱き締めてくる安孫の熱い体に、ルクナンも意地を張っていた心が絆されていく感覚がした。そのまま、素直に安孫の背に手をまわした。

「……他の殿方の妻となられますなっ……。王妃になるなどと仰られますなっ……。某以外の殿方のことなど、想われますなっ……」

「ソンソン……。ええ、ソンソン以外の男など、ルーナが好きになるはずありませんわ。安心なさい」

「るくなん王女っ……」

「ねえ、ソンソン。ルーナにもっと、貴方のことを教えてくださらない?」

 ルクナンの穏やかな言葉に、安孫は身体からだを離し、小さな王女と向き合った。

「ソンソンはヘイアンの武将で、とても勇ましく、トッキーを一番に守る義の男ですわよね」

「はは。改めて言われると、照れますな」

 いつもの安孫へと戻り、その頬を掻く。

「ソンソンは春日家の嫡男で、ヘイアンに帰ったら、いつか然るべきお姫様と、結婚なさるのでしょう?」

「るくなん王女……殿下?」

「ルーナとソンソンは、生きていく場所が異なりますもの。月と地球で、お互いの想いを胸に、生きていかねばならないのですわ」

 笑みを浮かべるルクナンに、安孫が呆然と首を振る。

「それでもソンソンなら、きっとお姫様を大切にするはずですわ? 愛情深く、誰にでも好かれる貴方ですもの。きっと、きっと、ソンソンのお姫様は、幸せな生涯を送るはずですわ?」

 お姫様という言葉を使うことで、そのお姫様に自分を投影する。そうすることで、自分の気持ちを保つことができた。

「ソンソンに大切にされるお姫様が、……羨ましいですわ」

 そこで、ルクナンの涙が堰を切って溢れた。

「るくなんっ……」

 再び安孫がルクナンの体を抱き締めた。安孫もまた、鼻を啜り、泣いた。

「それがしこそ、あなたさまの夫となられる御方が、羨ましゅうっ……」

「ねえ、ソンソン。どうしてルーナは、ソンソンと離ればなれにならなければならないの? こんなにもお互い愛しているのに、結ばれない運命なんて、いやよ」

「共にっ……! 共にちきうへと参りましょうぞ! そこで夫婦めおととなり、末永く幸せに暮らす……」

 こつんと額を合わせて、紅潮する安孫が言った。

「某が一等愛する御姫様は、るくなん王女、ただ一人にございまする」

「ふふふ。ソンソン、それはプロポーズというものですわ?」

「ぷろ……? はは。左様、ぷろぽーず……求婚にございまする。如何どうかお受けくだされ、るくなん王女殿下」

 照れつつも真正面から気持ちを伝える安孫の頬に、ルクナンは、そっと触れた。

「貴方の気持ちが聞けて良かったですわ。これだけの熱い想いをいただけただけでも、ルーナは幸せですもの。ありがとう、ソンソン」

 立ち上がったルクナンが、穏やかに安孫を見つめる。

「こうして貴方と話せて、ルーナも気持ちがすっきりしましたわ。これでもう、思い残すことはありませんわね。ソンソン、ルーナは……ワタクシは、王妃となります。これから先、何があっても、ワタクシの心をかき乱すような振舞いはしないように」

「は? るくなんおうじょ……?」

「幼く、ワガママなルクナン王女はもういない。王族との見合いを受け、ルクナン王妃となったワタクシを、貴方は二度と想ってはいけないわ。ワタクシも、地球に帰った貴方を想うことはしない。今ここに、ワタクシ達の愛は終わりを迎えたのです。よろしいですね、安孫殿」

 はっきりと口にされた言葉に、安孫は取り乱した。

「いやにございますっ……! るくなん王女を想えぬなど、左様な人生、死んでおるも同然っ……」

「貴方も義の男であるならば、ワタクシの覚悟もお分かりになるはずです。これ以上、自分の気持ちに執着するならば、それはワタクシを冒涜していることと同じ」

 はっとした。それでもあふれ出す気持ちに、ぐっと口を噤む。

「ワタクシの覚悟を、これ以上、踏みにじらないで。貴方ならきっと、王妃となったワタクシを、祝福してくださるでしょう?」

 決して揺るがない覚悟を見せるルクナンに、安孫は、ぎゅっと膝を握った。すべての想いを嚥下えんげして、やがて一つの言葉を口にした。

「……の春日安孫、ルクナン王女殿下のご成婚を、心より祝福する覚悟に、ございまする……」

 その場に平伏し、二度と月の王妃となる小さな王女を想わないことを、固く誓った。

 

 その後、見合いが整い、セライの立ち合いの下、成婚の意を示したルクナンによって、フェルンド王家のイーガー王太子が、次期国王に内定した。

「——御目出おめでとうございまする、るくなん王妃殿下」

 そう一番に祝福したのは、他の誰でもない、春日安孫その人であった。


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