第56話 仲直り

 月では宵の刻限となり、ドーム内の照明が暗く落とされた。

 王宮内では、エトリア王妃の誕生日祝賀会が開かれ、セライがその式典の司会を務めている。その席には昨年スザリノと見合いをし、その本性が露見されたため、あっけなくフラれたザルガス王太子とその父、ドミノ王も列席していた。あれから心を入れ替えたザルガス王太子は、三月前にメイドであった娘と結婚し、今ではすっかり良き夫——本物のスパダリとして成長した姿を朱鷺ときらに見せている。同席している王太子妃の腹には新しい命が芽生えていて、祖父となるドミノ王も、終始生まれてくる孫の話で盛り上がっていた。

「——いやぁ、実に目出度めでたいのう。誰も彼もが幸福に満ち溢れておるわ」

 ワインを口にし、上機嫌の朱鷺が、ちらりとルーアンを見た。その正面で、ぷいっと顔を反らしたルーアンに、「まあだ怒っておるのか、そなたは」と忌々しく呟く。

「アンタが悪いんでしょ? あんたがいつまで経っても、私に……」

 そこまで言って、ルーアンが急に口ごもった。ばつが悪そうに朱鷺も顔を反らす。その隣から、水影みなかげが眉を顰め、言った。

「おや? よもや朱鷺様、ルーアン王女と、未だねんごろな仲と、なられておられないのですかな?」

 ギクッと肩が跳ねた朱鷺に、水影の隣に座る安孫あそんが首を傾げた。

主上しゅじょうがお手を出さぬとは……さては不能ですかな?」

「ぶふっ……」

 ルーアンが飲んでいた飲み物を噴き出した。すかさず、パンっと朱鷺が安孫の頬を扇で叩く。

「俺を主上と呼ぶなと再三申したであろう、安孫」

 立ち上がった朱鷺の顔に、真っ黒な影が差す。

「ち、ちごうのですっ……今のはそれがしの思うたことではなくっ……」

「ほう? ならばなんと申す? 俺が不能ゆえ、天女中てんじょちゅうに手を出さぬ、そう申したかったのであろう?」

「左様なこと、思うてはおりませぬっ! ううっ、水影殿に変な呪術を掛けられてからというもの、肝心な時に、心内とは反対の言葉が出てくるのでございますればっ……」

 ぐっと安孫が水影を睨みつけた。

「すべて、貴殿の所業にございましょう? しかと我が呪術、受け止められよ。その呪いは、貴殿が末代まで呪いまするぞ」

「何たる悪行をっ……! 呪術など、貴殿は陰陽師ではござらぬでありましょう?」

「私は名門三条家の文官。陰陽道など、とうに習得済みにございますれば」

「ああ何方どなたか呪詛返しをっ……此処ここに、此処に陰陽師はおりませぬか!」

 大声でそう呼びかける巨漢に、ルクナンやスザリノ他、月の王族らがクスクスと笑う。

「くそうっ、斯様かような時分にの者がおったらばっ……」

 突っ伏して嘆く安孫に、「ふっ、奴は置いてきて正解にございましたなぁ」と、水影が朱鷺に言った。

「まあ、我らに恨みを抱いておらぬと良いがのう」

 朱鷺が赤ワインの水面に映る自分の顔を見て、ふっと笑った。


 式典も無事に終わり、ルーアンがエルヴァら護衛に囲まれ、自室へと戻った。

「今日もありがとう。おやすみなさい」

「ええ。王女様も良い夢を」

 エルヴァが心穏やかに笑った。扉を閉め、くるりとベッドに振り返った直後、そこに腰かける男の姿が、ルーアンの目に映った。

「なっ、アンタ、こんな所で何しているのよ!」

「王女様? どうされましたか?」

 扉の向こうで上がったエルヴァの心配する声に、「しい」と男が真意を伝える仕草をする。

「な、なにもないわ! そのっ、でっかい兎が入り込んでいたものだからっ……」

「では俺が庭に返してきますよ」

「い、いえ! その……白兎だから、グレイスヒル王家の王女である私が、丁重にお逃がしするわ」

「そう、ですか。では何かありましたら、お声をかけてください」

「ええ。ありがとう、エルヴァ」

 扉を挟んで終えた会話に、そっとルーアンは落ち着きを取り戻した。くるりと振り返り、じっと男を見上げる。

「天女中にしては賢明な返しであったぞ。されど俺を御器噛ごきかぶりが如く表現した罰は、受けてもらうがのう」

 男——朱鷺がくすぐりの仕草を見せたところで、不意に温かいものを胸に感じた。ルーアンの唐突な行動に、思わず目が見開く。

「て、てんじょちゅう……? そなた、如何いかがした? まさか、真、ごきかぶりでもおったかのう?」

 珍しく動揺を見せる朱鷺の手が宙に浮く。ルーアンを抱き締めようとして、不意に昔の忌まわしい記憶が蘇った。ぐっと拳を握り締め、ルーアンから、そっと身を引いた。

「どうして抱き締めてくれないの?」

「い、いなっ! 左様なこと、気にして如何する?」

「私がスザリノやカーヤ姉さまだったら、抱き締めてくれるの?」

 目に涙を浮かべるルーアンに、ゴクリと唾を飲み込む。

「彼の王女らと、そなたは違う。俺の真意など、とうに分かっておろう?」

 必死に取り繕う朱鷺に、「そんなの、分かるわけないでしょ!」と、ルーアンが気持ちをぶつけた。

「天女中……」

 そっと朱鷺は目を閉じた。過去、時の帝によって冷遇され続けてきた朱鷺にとって、ようやく手に入れた自由——。まぶたを空け、ルーアンの綺麗な黒髪をなぞった。

「腹黒……?」

「朱鷺と、呼んではくれぬかのう?」

「とっ……とき……」

 恥ずかしがるルーアンに、男心から鼻息が漏れる。その耳元で囁いた。

「言うておくが、俺は不能ではない。これでも、帝ゆえの世継ぎ本能は強いでな」

「う、うん……」

「俺は帝の地位に就くまで、叔父であり、幼子であったさきの帝に、冷遇され続けて参った。まあ、すべては俺が完璧過ぎるがゆえの嫉妬であったが、そのせいで、いわれもない者らが、多く命を落としたでな……」

「え……?」

「ただ愛されとうて女人と通じらば、世継ぎが生まれることを恐れた帝によって、その者はことごとく葬られたでな……。ゆえに、あの時分のやりきれない想いが、そなたを深く愛することを恐れてしもうておる。されど、あの幼子はもう、遠い地に流罪となったでな。俺の脅威とするところではないか……」

 朱鷺は自分に言い聞かせるように、言った。

「そうよ。いつまでも過去のトラウマに囚われているなんて、アンタらしくないわ。それに、こう見えて私は打たれ強いのよ? 簡単に死なないのは、アンタだって知っているでしょう?」

 そう言ってルーアンが、再度朱鷺に抱き着いた。思いがけない言葉であったが、そうであったと朱鷺が笑い、ぎゅっとルーアンを抱き締めた。

「ああ、そうだのう。そなたは強い。強いゆえ、俺はそなたを一等愛しておるのだな」

「へへ。仕方がないから仲直りしてあげるわ。そのつもりで、ここに忍び込んだんでしょう?」

「ああ。そなたにそっぽを向かれるのは、真、しんどいでなぁ」

 ぎゅうっと抱き締める。朱鷺はルーアンの目をしっかりと見つめ、言った。

「口を吸うても宜しいか?」

 一瞬でルーアンが紅潮した。だが、「……ええ」と小さく答えたルーアンに、「真、可愛らしゅう天女よ」と、朱鷺の唇がルーアンのそれに向かう。その時——。

 王宮内で爆発音が上がり、宵の照明だというのに、辺りを眩い光が照らした。

「なにっ……」

 庭園が爆撃され、その爆風が王宮内の硝子を次々と割っていく。

此方こちらぞ、天女中」

 朱鷺に手を引かれ、ルーアンがクローゼットの中に身を潜めた。

「そなたは此処ここで大人しくしておれ。事が落ち着くまで、決して此処から出てはならぬぞ!」

「なっ……アンタは?」

「俺は事の次第を見て参る!」

 矢継ぎ早に、朱鷺が外へと向かっていく。

「王女様っ! ご無事ですか!」

 入れ違うように登場したエルヴァに、「良いところに。王女を頼みましたぞ」と朱鷺が託す。

「なっ、でっかい白兎って、アンタのことか」

「左様。俺はちきうよりまかり越した兎——月が世の安穏を壊さんとする輩など、この手にて葬ってしんぜよう!」

 そう言い残し、朱鷺が急ぎ、爆発現場へと走っていく。

「まったく、他所よそから来た兎が月の救世主なんざ、王女を守る衛兵からしたら、たまったもんじゃねえなぁ。だが、貴方様のことは俺が命に代えてもお守り致します、ルーアン王女」

 エルヴァに強く宣言されるも、ルーアンの胸騒ぎが止むことはなかった。

「ちゃんと私の所に帰ってきてよね……朱鷺」

 そう胸に手を寄せ、エルヴァに守られるように、クローゼットの中に身を潜めた。

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