ぢごくのそこより

幽彁

だいすきにゃきみへ

西日が差した。彼女はふっと笑ってマグカップを置いて、橙色の方に寝ころぶ。ぼくはそこに寄り添って一緒に昼寝した。

日が沈んだ。彼女はふっと笑みを消して、マグカップを手に取った。


マグカップには葉っぱが沈んでいる。マグカップには葉っぱが沈んでいる。外に一歩踏み出せば毒塗れで、皆自分を守るために毒をまとい、滲ませ、誰かをむしばんでいる。葉っぱは純粋な毒だった。彼女にまわりきった毒とは違う毒だった。

彼女は知っていた、薬は時に毒となるように、毒は時に薬となることを。体の悪い人は薬を飲んで悪いところを消して、自分が悪い人は毒を飲んで自分を消してしまえるってことも。

彼女は選び取った。適度な運動、規則正しい生活、栄養バランスのとれた食事なんかじゃ戦えない、薬が必要だって気づくみたいに、自然と気がついた。

慣れと、支えてくれる人と、自己管理じゃこれ以上戦えない、毒が必要だって。心が死にかけたまま生きるのは、辛かった。明日はいい日だって祈って眠って、朝日に希望を感じて、昨日と同じように苦しんで、でも昨日と同じだって考えるのは不毛だって切り替えて張り切って、こころもからだも死んだように眠る。

彼女は自分の心が外の毒に傷つけられたからって、外のものを傷つけ返すような気は起きなかった。だって、誰も悪くないから。

ストレスを汚い言葉に変えて吐き出すのも、太陽がまぶしいのも、香水のにおいがむせかえるようなのも、自分とかかわりのない人に手を差し伸べないのも。

全部全部誰も悪くない、呼吸と同じように吐き出す毒が誰かを蝕むなんて考えつかない、考えついたとてマイノリティーに差し出される手はない。こんな些細でいて厄介なことに付き合わせる道理はない、私の道に先はない、このままずっとずっと同じ。

もう救いを求めて呼ぶ声も枯れた、逃げる足も萎えた、打開策を打ち出し続けていた勤勉な脳は激務に悲鳴を上げて動かなくなった。

彼女は自分だけが不幸、なんて思っちゃいない。

マグカップのお湯に映る私の顔は確かに少し隈が浮かんでいるけど、取り立て不幸せそうではなかった。ストレスで髪が抜けたり白くなったりする人も、気が違ってどうしようもなく社会からはみ出してしまう人だっているのだ、それに比べて私は健康だって。


何度光が差しても、結局こうして地獄の底に還ってくる。

光なんて実はなかったのかもしれないし、地獄なんてなくてここが普通の地面なのかもしれない。普通の地が自分にとって息がしづらいだけ、魚みたいなものだ。魚は地上では息ができない。根本的に違うのだ、きっと。分かり合えないのだ、きっと。


彼女なんて言ったが、全部結局私のこと。他人じゃない、逃げられない、物語の登場人物じゃない、他人事じゃない、ゲームのアバターじゃない、思い通りに操作ができない。

還ろう今すぐ、自分を失って誰かの養分になろう。孵ろう今すぐ、何かまったく別の素晴らしいものになろう。

新しい命はどこまでも純粋で、まぶしく美しい。

旧い命は狡猾で逞しく、曇って濁ったり磨かれて誰かを照らしたりする。


あなたには見えないものが、あなたには聞こえないことが、あなたには感じ取れないことを私は受信する。良いものも悪いものも人よりたくさん。それは素晴らしい能力で、歴史を塗り替えたり誰かを強烈にひきつけたりする人もそういうアンテナがあるんだと思う。けれどそれは諸刃の剣で。誰かに発信できる人は一見輝いているように見えて理解されない陰った部分を腐らせて時折凶行に走り、発信する体力すら刈り取られた人は静かに静かに人知れず消えていく。膨大な情報量に押しつぶされる。


毒は蝕んだ、静かに私を蝕んだ。

きっと今も人知れず誰かを蝕んでる、それは社会の自然な営みであって、どれだけ目を光らせ目をかけたって苦しむ人が居なくなることはないし、結局のところ個人の問題な訳なので他人の介入で根本的なところを解決できることも無い。

分かってる、分かってるけど痛いものは痛いし、痛いと悲鳴が出そうになる。でも悲鳴を上げても優しい人の負担になるだけでその負担と私の心が少し軽くなることではとても釣り合いが取れない。

天秤は私じゃない誰かに傾くべきだ。


勢いに任せて一気にマグカップの中身をあおった。

どこか嗅ぎ覚えのある独特の香り、青臭さはあまりない。


マグカップの中身は、毒物じゃなくて青じそだった。

皿が割れたような音がして誰もいなかったはずのキッチンに目をやると、猫がシンクにマグカップを突き落としたみたいだった。今私が持っているのと同じマグカップ。拾った頃はぼろぼろだったさび色の毛皮に月明かりがさして毛艶を強調している。

シンクからは湯気が上り、マグカップの破片から緑色の葉が覗いていて、あれ、あっちが飲むつもりだったやつだっけ、二つもマグカップ用意したっけと首をかしげても、猫は笑ったような光る眼でこちらを見つめるだけ。

ちなみに青じそ味のお湯はものすごくまずかった。

とりあえずもう服毒は諦めようと思う。

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ぢごくのそこより 幽彁 @37371010

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