第30話

「──────削ぐ?」

「今から?」

「今からしかないじゃん? 今削がなかったら、またしばらく削げないでしょ」

 そうだね。そうだけどさ。

「剃刀がないじゃん」

「ナイフで代用すればいいよ」

 どうしてだろう、決心がつかない。これってあたしはまだおとなになりたくないからなんだろうか。答えられないあたしに、珍しくウユラが答えを急かす。

「その気があるなら削いであげるよ?」

 っていうかウユラ、あたしに髪を削がせたいみたい?

「うん。早くおとなになってもらいたい。そしたら同じ部屋でふたりきりで過ごしたって、誰も何も言わないもんね?」

 いやいやいやいやいやいや。待って。あのときはあんなことを言ったのに、どういう心境の変化なの。ウユラの気持ちが見えなくて焦る。

「だってもう、二度と会えないかもしれないから」

 それに──ウユラはそこで不自然に言葉を止める。

「……それに?」

 待ちきれなくて促すと、ぽつりと言った。

「──────イリューアに取られちゃう」

 はい?

「イリューアに、取られちゃう」

 ウユラはもう一度同じ言葉を繰り返した。

「そんなこと──────ない、よ」

 言ってから身体が熱くなった。言ったじゃん、あたしはウユラが好きだって。それにイリューアだって。イリューアの言葉を伝えようと思って、だけどそれをウユラがどんなふうに受け止めるか怖くて思い止まった。ウユラ。思ったよりも静かな声でその名を呼んでいた。ウユラが身体を起こした。じっとその瞳を見つめる。ウユラの薄い茶色の瞳は、いつ見ても透き通っている。

「削いで。髪。ウユラが」

 いいの? 聞かれて黙って頷いた。それからウユラは立ち上がるとダばたばたと何処かに向かい、程なく手にナイフと櫛を持って戻ってきた。

「護身用に、ってイーシンにもらったんだ」

 そうだったんだ。あたしはちょっと背筋を伸ばして椅子に座り直すと、編んで纏めていた髪をほどいた。腰より長い髪をウユラが丁寧に梳いてくれる。そんなに丁寧にしなくてもいいのに。思ったけど言わない。たぶんウユラは本物の髪削ぎを意識しているのだ。ウユラがことりと櫛をテーブルに置く。代わりにナイフに手を伸ばすのが見える。すう、とウユラが息を吸う音が聞こえて。

「……じゃあ、削ぐね?」

「うん」

 瞳を閉じた。ウユラがあたしの髪を手に取る。じょり──じょり──髪を削ぐ音とともに、少しだけ髪を引っ張られる感覚。しばらくの間、その音だけがダイニングに響いていた。ウユラは慌てたり急いだりする様子もなく、ゆったりとした時間が流れる。

「怪我させちゃったら困るから、長めに残すね」

「うん」

 じょり──じょり。かたん。これはナイフをテーブルに置いた音だろうか。瞼を開けた。ダイニングには鏡がないから、どんなふうになっているのかはすぐには解らない。黙ったままのウユラが気になって振り返った。

「どうしたの?」

 ウユラはふにゃりと表情を崩して、ううん、と首を左右にした。

「前髪──どうしようか。このナイフで前髪を削ぐ自信、ちょっとない」

 本来は前髪も削ぐしきたりだけど、自信がないということを無理に頼む必要もない。このままで──

「おいおい、いつまで起きて──」

 そこにイーシンの声が割り込んだ。ダイニングに灯りが点いているのを不審に思って顔を出したみたい。

「髪──切ってたのか」

「十五を過ぎたからね」

 あたしの答えにイーシンが首を傾げ「十五になったらおとなになった証として髪削ぎをするのが、集落の習わしだから」と付け加えたのはウユラだ。

「そっか──、キミ、十五か」

「ウユラはもうすぐ十七だよ」

 聞かれてもいないのになんとなく、そう応じていた。

「十五でおとなか。オレから見れば十五も十七もまだまだガキだがなあ」

 そこでイーシンは床に散らばった、削がれて落ちたあたしの髪に視線を落とした。

「すごい量だな……。で、これは?」

「ふたりでちゃんと片付けるから。片付けたら休む」

 ウユラが言ってあたしも頷いた。イーシンはそれ以上うるさいことは言わず、まかせたからな、と言い置いてダイニングから出て行った。あたしはウユラと顔を見合わせるとちょっと笑って、椅子から立つ。クリーナーを取りに行こうとしたところで、ウユラに呼び止められた。

「なに?」

「この髪。少し貰ってもいい?」

「もちろん。なんで?」

「お守りにする」

「………………なんか、縁起でもなくない?」

「考え過ぎじゃない?」

 そう答えつつウユラは「髪を包む布を探してくるから、そのままにしておいて」と、またばたばたとダイニングを出て行った。今度はなかなか戻って来ない。心配になりかけたところでやっと戻ってきた。手には「宝箱」を持っていた。ウユラはそれをテーブルに置いて蓋を開けて、中から小さな布切れを取り出した。布切れには小さな石ころが包まれていた。これ。

「カラル石」

 ウユラがこくんと頷く。

「みんなで旧鉱山に行ったでしょ。そのとき記念に、って、みんなで欠片を拾ったよね」

 ウユラは手の中のカラル石の欠片を穏やかな表情で見下ろしている。あたしが拾ったカラル石はもうない。当たり前のそのことが、急に悲しく思えてきた。

「これあげる」

 言うとウユラはあたしの右手にその欠片を握らせてきた。目をあげると、微笑むウユラと目が合った。

「だからさ。縁起でもないってば」

 ウユラはあたしの言葉に耳も貸さず、足許のあたしの髪をほんの一房、拾い上げて布で包んでいる。あたしはそっと息をついて、カラル石の欠片をポケットに押し込んだ。

「ねぇ、ウユラってば」

「もう。細かいこと気にしすぎ。大丈夫だよ、ロシュアとイーシンが護ってくれるから」

 呑気なことを。

「さ、片付けよう。休む時間がなくなっちゃう」

 ウユラの明るい声に促されてあたしは、あらためてクリーナーを取りに行った。目についた髪を全部片付け終えてダイニングの灯りを消した。ウユラの部屋の前までやってきて、おやすみ、と言うより先にウユラが、無言であたしの右手を掴む。びっくりして声を上げるまもなく、あたしはウユラの部屋に引っ張り込まれていた。心臓がばくばくしている。これってどういう? そういう? ほんとに?? ウユラはそのまま、あたしを見ないまま言った。

「今夜はこのまま、一緒にいて?」

 そのとき初めて、あたしの手を掴むウユラの手が震えていることに気がついた。なんだかほんとうにウユラと過ごせるのがこれっきりになっちゃうようで怖くなる。

「──いいでしょ?」

 振り返ったウユラの目には、意外にも涙は浮かんでいなかった。もしそこに涙が浮かんでいたらあたしは、あたしの意思とは関係なく、ウユラが泣いていることを理由にしただろう。だから、泣いていなくてよかったのだと思う。黙って半歩、ウユラに歩み寄った。

「ウユラこそいいの? あのときはあんなこと、言ったくせに」

 ウユラは少し笑ってそして、あたしを導くみたいにそうっと右手を引いた。吸い寄せられるようにそのまま、あたしはウユラの腕の中に収まっていた。ウユラの鼓動を全身に感じる。その震えも直に伝わってきて、だけどとってもあったかくて。おずおずと、自由になっていた右手をウユラの背に回して、右手に左手をそうっと重ねた。左手の奥から、ぽわっと熱が広がる。ウユラもその熱に気がついたようだ。

「……怒ってるのかな?」

 その名を聞くのは嫌かな。迷う。だけど──。

「──────イリューアは、そんなことじゃ怒らないよ」

 思い切って口にした。心からそう思っていた。ウユラは何も言わないけれど、それはあたしの言葉の続きを待ってくれているからだって思った。

「──信じてくれなくてもいい。だけどイリューアは言ってた。ウユラもイリューアの一部だって。あたしが──ウユラを選んでくれて、うれしいように思う、って。だから」

 ウユラがあたしを抱き締める腕に、いっそうの力がこもって、それ以上は喋れなかった。

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