第10話


 名前を呼ばれた気がした。

 この声は──誰だっけ。ええと……、ああ、声変わりする前のウユラの声だ。懐かしい。

「これはオレたちだけの秘密だからな? 絶対に誰にも言うなよ?」

 ぼんやりとしたした視界が次第にはっきりしてきて、目の前にウユラの顔があった。ウユラ──というか、顔貌はウユラだけど、瞳の色は違うし、唇の端から牙みたいな長い犬歯がはみ出ていた。

 見た目は確かにちょっと恐ろしかった。でも見た目が変わっただけでほそっこい身体つきはウユラのまんまだし。好奇心が勝った。

「あなたは誰?」

 するとその子はにこっと笑った。それはウユラのまんまだった。これは、ウユラだ。

「秘密。ウユラの中にいるやつが、たまーに、表に出るんだって思ってもらえれば」

「ふーん」

 その時のあたしは、ウユラはドラゴンを奉る家系の正統後継者だから、こういうこともあるのかもしれない、なんて考えていた──ように思う。それからもウユラはたまに、中の誰かと入れ替わることがあった。そうなるとウユラは、チビのくせに生意気に、あたしにあれこれ言いつけたり悪戯の仲間に引き入れたりした。それはできないよって断ろうとすると必ず、ぽろぽろ涙を零しながら「だめ?」とか甘えるんだ。あたしがウユラの涙に弱いことを知っていてやるんだから、元のウユラが無自覚にやるよりもっと破壊力は上だった。

 あれは、あたしが十三になる前の日、夕暮れのことだった。もう半刻もすれば七つの鐘が鳴る──という直前に、頭巾をすっぽり被ったウユラがあたしを訪ねてきた。七つの鐘に間に合うように戻りなさいよ、と母さんに釘を刺されて家を出て──近くの丘に登ったウユラが頭巾を外して、しばらくあたしを見つめたあとでにっこり笑った。そして。

「オレのこと好き?」

 あたしはウユラの顔を見て、ふしぎに思いながらも答えた。

「好きだよ」

 とても安心したようにウユラは笑った。いつものウユラよりもうんと、可愛く見えた。

「オレも好きだよ。忘れないでね、覚えててね」

 ウユラの声で言われて、すごくうれしかった。ウユラは長い爪であたしの手を傷つけないようにそうっと慎重に握って、それからもう一度言った。

「好きだよ。誰よりもずっと」

 そう言えば、好きかと聞かれたのも好きだと言われたのも、あれが初めてだった。



 名前を呼ばれてはっとした。

「ああ、よかった。死んじゃってるのかと思った」

 暗くてよく見えないけどウユラの声だった。いつの間にかぐっすり眠っていたらしい。身体を起こしてウユラの方に顔を向けた。

「今どれくらい?」

「解んない」

「何か食べた?」

「パンとドライフルーツ食べたよ」

「クルは? イーシンは?」

「見かけない。解んない」

「あたしがここに居るってよく解ったね?」

「入れる部屋、全部入って探したから」

 そこでウユラの声が震えているのに気がついた。

「ウユラ?」

「いないんだ、誰も」

「え?」

「置いて行かれたんだと思って」

 そんな。寝台から降りた。暗いなりにも目が慣れれば、靴を探し出すことはできた。

「えっと──どっちだっけ?」

「扉はこっち」

 ウユラが示す方に進んで扉に手をかけた。廊下はぴかぴかの明かりに満たされていて眩しかった。立ち止まって目が慣れるのを待つ。隣に立つウユラを見たら、やっぱり泣いていた。そりゃ泣くか。ウユラだし。仕方ないな。

「あたしがいるから大丈夫──とは言えないけど、ひとりよりはいいでしょ?」

 ウユラが不安そうながらもこっくりする。ごしごしと掌で涙を拭いた。ウユラが涙を拭き終えるのを待って、あたしはその手を取った。温かくてほっとする。それからあたしたちは手を取り合ってあちこち歩き回った。本当に誰もいない。何がどうなっているのか。遠くの方で微かに、地鳴りのような音がした。

「……どうするウユラ。ここでじっとしてる?」

 泣き虫で怖がりなウユラのことだから、じっとしてると答えると思った。けれどウユラは、まだ涙の跡が残る顔で、それでもしっかりと、首を左右にした。

「行く。行かなきゃいけない」

 ──あまりにも意外すぎてすぐには何も答えられなかった。どうして。少なくともここにいれば、安全だろうに。

「正統後継者だから」

 はっとした。あたしが眠っている間ウユラは、おじいちゃんたちと何かを話したのかもしれない。あたしだけ蚊帳の外。悔しい。

「……何か聞いたの?」

 ウユラが黙って頷いた。

「おじいちゃんたちは、ロシュアとイーシンをやっつけるつもりだ。ディズの力を利用して」

「……どうして?」

「この世界の安寧を破壊するものたちだから、と、おじいちゃんは言ってた」

 世界の安寧?

「それに、クル。ドラゴンが人語を操るなんて、終末が訪れる前触れだ──とも。おじいちゃんたちにとって正しいのはディズで、クルがおかしいんだって」

 そんなことあるか。変なのはディズだ。クルがおかしいだなんてありえない。

「そう思うでしょ。だから、イーシンもロシュアも間違ってないし、鎮めるべきはディズだって言ったんだけど──聞き入れてもらえなくて。変な匂いがする布で鼻と口を塞がれて、そしたらすうっと気が遠くなって。気がついたら寝台に寝てて、人の気配が無くなってた」

 そして、今か。じゃあなに、さっき、ウユラが言った「死んじゃってるんじゃないか」って、本気でそう思ったってこと? 聞くとウユラはこくんと頷いた。

「生きててくれてよかった。ほんとに」

 ウユラがきゅっとあたしの手を握る。

「もしかしたらここも危険かも。行こう」

 ウユラの手を握り返した。

「それにしても、どうしちゃったのウユラ。急に大人になったみたい」

 不安を払い除けたくて冗談めかして言ったら、ウユラがあたしを見て不満そうな顔をした。

「いつまでも子ども扱いしないでよ。こっちは二つも歳上で、もうとっくに大人なんだって、いつになったら認めてくれるのさ?」

「だって泣き虫だし。何かって言うと頼ってくるのはウユラじゃん」

「そうだけど。そうなんだけど!!」

 そう叫んでから、ぷっとウユラが吹き出した。

「……やめやめ。ここで言い争っててもしょうがないよね。行こう」

「うん」

 ウユラが先に歩き出した。あっちもこっちも似たような壁で特徴がなくて、どっちに進んだらいいのかも解らないあたしを余所に、ウユラは迷わずずんずん歩く。廊下の突き当り、二つの扉が並んでいた。ウユラが右の扉の取っ手を掴んで中を見ている間、左の扉の取っ手に手をかけた。びくともしない。なんで。

『ロックがかかっています』

 突如知らない声がしてびくっと身体が跳ねた。

「ろっく???」

「さっきまで、そんな声しなかったよ?」

 ウユラがあたしに代わって取っ手に手をかけた。ぴいと小さな音が鳴って扉が開いた。

「なんで?」

 あたしの問いにウユラが答えた。

「ある程度、扉を開けられる人間が決まってるんだと思う」

 なるほどね。そういうことか。ウユラはあたしと違うから開けられるんだ。悔しいけど仕方ない。だってウユラは特別だもの。あたしたちは先に進んで、どうやら出口に辿り着いた。長い梯子に見覚えがあった。

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