#8 黎明
アルコールに意識が負けたらしい。
気づけば室内は真っ暗で、部屋の壁にかかっている時計は午前二時を指していた。
起き上がって周囲を見回すと、ベッドの上で作業をしていたらしいジェイミーのつむじと目が合う。
暗くて詳細は分からないが、多分仕事だろう。
紙束を前にして、ペンを持ち、眼鏡をかけて、髪の毛を無造作に括っている。
服は寝間着を履いているものの、上半身に着ているのは下着だけだ。
大きな体を小さく丸めてそうしている姿は、テスト前の学生にも見えた。
「おはよう。お風呂入ってから寝直す?」
「そうするよ」
返事をしながら部屋の灯りを点した。
俺が起きそうだから、つけなかったんだろう。彼は多分、そういうところに気を使う。
「……楽譜?」
彼の手元にあった紙束がはっきりと見えるようになる。それは手書きの楽譜だった。
白い紙に青いインクで描かれた楽譜は、美術品にも見えるほど美しい。
美しいが、ありとあらゆる機械で曲をデータとして作成できるこのご時世に、白い紙へ線を引くところから手書きされているという驚きはあった。
金持ちなのだから、機械が高いわけでもないだろうし。
ペンもよく見てみれば、インクをインク壺から直接補充して使うタイプの万年筆だ。
濃い青に光るインクは特徴的で、たった今彼がこのペンを使って楽譜を書いていたことは分かった。
「趣味古いって思っただろ」
「うーん」
正直なところ、思った。それを笑いながら話している彼には自覚もあるようだったが、趣味自体は悪くないとも思うのだ。
「紙とペンだけで曲が作れるならいいんじゃない? それ綺麗だし」
「いい色だよな。インク、高かった……」
光の当たり具合によって色が少しずつ変化しているように見える。
綺麗な色だとは思う。有名モデル様が高いと遠い目をするインクの値段は調べる気もならないが。
「あれ、風呂場に絵なんて飾ってあるんだ」
話をしながら、風呂場の扉を開ける。
扉側の壁、入浴しながら見ることが出来る位置に、暗い色で波が描かれているキャンバスがあった。
よく見ると、違う。
その波は動いていた。額縁だと思っていた装飾部には、スイッチがついている。
「近くの海岸をリアルタイムで見られるモニターだよ。いい眺めだろう?」
海岸なんて見て、何が楽しいんだ、とは返さなかった。
富裕層は内陸部にいるから、きっと船が娯楽になるのと似たような感覚なんだろう。
海岸以外を見てみたくて、モニターを適当に弄った。
映し出されたのは、どこかの浅瀬だ。紫色の目を光らせた少年が、海水から突き出た岩に腰かけている。周囲には人影があった。
十数名ほどの人が、浅瀬に沈んでいる。
少年は、その中心で岩に腰かけたまま、歌っている。
物語の挿絵にでもありそうな光景だった。
「ジェイミー、こっち来なよ。最悪の景色が見れるから」
「何? 虫でも出た?」
「見れば分かるよ」
彼にとって虫はそんなに嫌なことなのかと、溜息をつきそうになる。
高層ビルの中で完結した生活を送っているのなら、虫と遭遇する機会は少ないのだろう。
俺にとっては、風呂場に虫がいたくらいだったら日常茶飯事だ。
窓は欠けており、壁にも罅が入っているような部屋を借りているから、どれだけ綺麗に掃除をしていようが虫は外から入ってくる。
ジェイミーが風呂場を覗き込み、首を傾げたまま室内を見回す様子を、俺はただじっと眺めていた。
モニターを見た途端、彼の顔から表情が綺麗に抜け落ちた。
そこには何の感情も見られない。まるで人形のようで、どこか不気味だった。
龍の容姿に怯える人々は、こんな感情を抱いているのだろうか?
今の彼に話しかけるのは、勇気が必要だろう。
龍が常にそうであるのなら、確かにこれは。
彼がくしゃみをし、その頭が大きく揺れるまで、俺は彼から目を離せずにいた。
「確かに、最悪だな。詳しく見よう」
俺に話しかけた時の彼にはもう表情が付随しており、眉を顰めてはいたが、先程のような怖さは無かった。
ジェイミーは画面を撮り、その画像を明るくしている。
紫色の目をした少年の容姿や服装が、鮮明に映し出された。
着ている服は船内で貸し出されていたものだ。さらに、近くには小船があった。
大きな船が難破した時の為に備え付けられている、脱出用のもの。
この部屋にあるロゴと同じ、この船の印が小船にも描かれていた。
間違いない、俺を海に落とした子だ。
「ニコが影響されやすいだけで、あの子の力はまだそんなに強くない。数名なら兎も角、十数名を海にだなんて有り得ない。だいたい、どうして船から降りた? どうして脱出船を使うことが出来た? おかしい……何かがおかしい」
ジェイミーの話し方は、手をテーブルに叩きつけそうなほど荒々しいものだった。
彼の疑問は最もだ。小船の操縦自体は、海辺に暮らす龍であれば子どもでも可能だろうが、この船から抜けだすことはそんなに簡単なのだろうか。
「あ、あの子、今撮られた」
水上タクシーの運転手だろうか、こんな時間に近くを通りがかる人がいたのだ。
フラッシュを浴びて、少年は口を閉じる。
歌が届かない距離だとでも判断したのか、それ以外の理由かは分からないが、少年は岩場から飛び降りると、その場から走り去った。
少年が遠ざかっていくのに比例して、目覚める人の数が増えていく。
映像はここで途切れた。
ジェイミーは、スマホを開いている。
港に住む十数名の話が、SNSであっという間に広まっていく様を見ていた。
彼らは、浅瀬で目覚めた。パジャマは肩まで濡れていた。
海の水温が人肌よりも暖かければ、それは湯船になっただろう。
彼らは海水浴をしていたわけではなく、文字通り、浅瀬に入ってから目覚めたのだ。
寝ている間に溺れかけたという恐怖は、その海岸から走って逃げる一人の少年によって爆発的な増幅を見せた。
目を紫色に光らせた少年は、水浸しになったシャツを脱ぎ、絞って手に持っている。
だから、少年の背中ははっきりと見えたのだ。
龍の証である、鱗の生えた背中が。
SNSでの反応は、大きく分けて二つ。
少年を恐れる人と、これが作り話であると見做す人だ。
不正確な情報で恐れ、恐れられるから隠し、隠すから正確なデータは集まらず、そして不正確な情報で恐れられる。
それがよろしくない方のループだとは理解しているけれど、俺も隠している側だ。
だって、公開していいことなんてひとつも想像できない。
『殺される前に殺してしまえ』
そんなコメントが見えた時、咄嗟にスマホをベッドへ投げた。
恐怖と悲しさと動揺の中、今までの人生を思い返しながら、心のどこかで納得している自分も居た。
今更、何に驚いているのか。元々そうだったじゃないか。
自分が一応支障なく日常生活を送ることが出来ているのは、今の住処では龍であることを隠せているからに過ぎない。
もしも鱗が別の目立つ場所にも生えていたら、きっと俺は周囲の視線に怯えて、自宅のドアを開けられずにいるに違いない。
「連れ帰らないと。アルバが殺される前に」
アルバ。夜明け。少年はそんな名前だったのかと、ぼんやり反芻した。
連れ帰らないと。夜明けが殺される前に。
それは比喩であり、予感でもあった。
きっと、彼の死は取り返しのつかない対立を生み出す。
被害者が幼く、未来がありそうで、本人の落ち度が少なければ少ない程、その溝は深くなるだろう。
死はセンセーショナルで、ヒトと龍は感情で動く生物なのだから。
だから、ジェイミーが焦る理由を理解はする。
彼がやらなければならないのではない、今動かなければならないのだ。
「それじゃあ、夜も遅いし、ニコロはお風呂入ったら寝なよ」
「寝られるわけないだろ、馬鹿か」
着替えもせず部屋から出ていこうとしたジェイミーの肩を、思わず掴んだ。
眠気はどこかに吹っ飛んでいるし、悠長に風呂に入る気にはならない。
それに、こいつを放って置いたら危ないことをしかねない。
俺を追って海に飛び込んだ前科もあるし。
「見つける当ては?」
「無い」
当たり前のような顔で自信満々に無いと伝えられて、溜息をつかなかった俺を誰か褒めて欲しい。
「俺はある」
「あったらびっくりするわ。……ある!?」
「ある。何、今の反応。俺は他の人より影響受けやすいんだろ。だったら違和感を覚えた時近くにいる、そうじゃなかったらいないってこと」
龍がよく集まるたまり場のような場所だって、いくつも知っている。
俺自身がそこに近づくことは無いけれど、そもそも知らなければ避けることも出来ない。
それを今ジェイミーにわざわざ告げる気はないけれど、きっと俺だから分かることはあるのだろう。
ジェイミーがいくら歩み寄ろうとしていても、少年や俺とは住む世界が違うのだから。
「そりゃあ、確かに範囲としては目視より遥かに広い範囲を調べられるけど……調査中また溺れたら大変だろう」
「溺れに行くかもしれない前提でお前が動いてれば平気だろ」
「それもそうか、今度こそ気をつける。……あ、イグアナ用の首輪でも買って腕につける?」
「ふざけんな」
そんなやりとりをしながら服を着始めた俺を見て、ジェイミーはようやく自分の服装に気づいたようだった。
荷物を開き、一番上にあった布地を掴んだというだけの動きで服を着ている。
「トランクケース、適当な服、ガムテープ……必要なものはこれくらいか」
俺はさっき自分が入った空のトランクケースを開き、使えそうなものを適当に放り込んだ。
少年の身長は忘れたけれど、俺が中に入れるサイズの時点で少年を入れることは出来るだろう。
「まるで、誘拐犯みたいな荷物だな。スタンガンでもあれば完璧」
「やることは誘拐だからね。脅すためにナイフでも持っていく?」
「いや、慣れない武器を持っても、振り回されるだけだ。それに、話し合いを優先したい」
「あ、そう」
あの少年の様子を見て、昼にあった件を踏まえても尚、話し合いという発想が出てくるジェイミーの思考回路が俺にはよく分からない。
これから捕まえて脳缶にする予定の少年に、一体何を話すというのだろう。
「小船置き場は、こっちだ」
ジェイミーに案内されて、船の端まで着いていく。
ただし、非常口の看板が示す方へ歩いていけば、それだけでよかった。
本来は難破時の脱出用だろう小船は既にひとつ減っていて、本当にあの子がここから抜け出したのだと可視化されたような心地になる。
船に乗り込む直前、運転席の免許証差し込み口を見てから、ジェイミーは俺を見てきた。
「……あ、オレ、免許証を持ってないわ。ニコって運転出来る?」
非常時には免許証を差し込まなくても運転できるようにロックが解除される仕組みだが、あいにく今はこの船にとっての非常時では無かった。
「運転免許を持ってないのによく一人で行こうとしたな。そこどいて」
出来るに決まっている。船は日常の足なのだから。
運転免許を持たずに生きていけるのは、内陸に住んでいる人達くらいだ。
それも、遠出の際はお抱え運転手を雇うようなクラスの。
「本当に金持ちなんだな」
「え?」
「いや、なんでもない」
免許証を差し込み、パスワードを入力する。
昔は免許証を差し込まなくても運転出来たらしい。
安全面から考えて、信じられない話だ。
するりと動き出した船は、避難用なだけあって癖が無く、取り回しやすい。
「運転中に何か見ると酔うんだ、地図は任せた」
「了解」
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