#7 幸福

 運ばれている振動を感じながら、何度か目の開閉を繰り返す。

 目が暗闇に慣れてくると、隙間から外の様子を伺えるようになった。

 ジェイミーは、俺入りのトランクケースをゆっくりと引きながら、関係者以外立ち入り禁止の札を掲げられた扉にカードキーを翳し、扉の奥に滑り込んだ。

 振動から、トランクケースごと持ち上げられたのだと理解する。

 ジェイミーと、一瞬視線が合った気がした。今、どうやら俺は階段を降ろされている。

 すれ違うのも大変そうなくらい狭い階段は、まるで非常用通路のようだった。

 降りきった先にはまた扉があり、ジェイミーは扉の横にあるパネルを覗き込む。

 虹彩認証だろう。

 ジェイミーの虹彩によって解錠され、スライド式の自動扉に迎え入れられる。

 自動扉が閉じた後、ジェイミーはトランクケースを開けた。

 ケースから顔を出し、急に広くなった視界に広がっていた景色は、想定外だった。

 立ち上がって周囲を見回す。

 一本の細い通路を残し、ガラス張りの水槽が天井まで続いている。

 中身は、昨日見た、ヒトの卵と酷似していた。

 ただし、管から栄養を摂る円筒の中身は、ヒトの幼体では無い。脳だ。

 無数の脳が水槽の中で生きているのだ。

 水槽自体が青いライトに照らされて、うすぼんやりと光っている。

 海をガラスで遮って、道を作ったかのようにも見えた。

 円筒の中にある脳たちは異質なのに、そこにあることが当たり前のようでもあった。

 懐かしさすら覚えた。

「龍の歌を聴くと人が海へ向かうという迷信については、知っているよな?」

 ジェイミーは一単語ずつを丁寧に区切りながら、ゆっくりと話をはじめた。

「人魚の歌は、人を海へ誘う魅力があり、結果として溺れさせるものだった。大多数の龍に、その力は無い。でも、人魚の歌と同じ能力を使える龍は、時々生まれる。例えば、あの紫色の目をした少年のように」

 噂の元はそこか、というのが感想だった。曲解にしろ、切り取りにしろ、その噂が発生する理由やきっかけはあるのだから。

「彼らがそのまま社会にいたら、被害者が出てしまう。だから、こうして眠ってもらっているんだ。……俺たち関係者の、勝手な意見で。あの少年にとっては、この船旅が残されたわずかな時間だ、残念だけれど。脳だけが保存液の中で眠り、年を取らず、仮想空間の中で生きる。薬が完成したら、違和感なく社会へ戻れるように」

「俺も、それ?」

「いや、ニコは逆。その能力に、ヒトよりずっと影響されやすい。能力が外向きか内向きかの違いだろうけれど……。ほら、だから龍の死亡者は多いんだ。今までよく生きてたよ。海から離れて暮らした方がいいぞ、オレの家とか」

「高級住宅街に住むなんて、そんな無茶な」

 海から離れた僅かな場所は、内陸と呼ばれる。

 内陸はそのまま高級住宅街だと断定してもほとんど問題ない。

 ましてや、彼の苗字が表している場所ことミラー地区は、芸能人や企業の取締役が多く居住する、典型的な高級住宅街だ。そんな場所に、龍が居るはずもない。

 ミラー地区特有の事情として、郊外の辺鄙な場所まで、アパートメントが並んでいる、特に住居として倍率の高い地域だ。

 よほど長い地名でない限り、苗字は住んでいる地区の名前をそのまま名乗るから、好きな芸能人と同じ地区に住み、同じ苗字を使いたいというファンがそこには住んでいるらしい。正直あまりよく分からない。

「オレの家って部分は無視?」

「ジェイミーは、自宅を民泊にでもしてるの?」

 わざと無視した部分を丁寧に伝え直されて、俺は露骨な溜息をついた。

「いや、していない。それどころか、メディアのカメラも入れたことが無いな」

 そんな場所にいきずりの相手、それも龍を連れ込もうとするなよ馬鹿野郎。

「だったら、ハーレムの最後尾?」

 ハーレム。俺のような貧乏人には無縁の話だが、金持ちの大多数は、主に人脈確保の為に、大勢と関係を持ち、それを公表している。

 その末端に、龍が居ることは偶にある。龍だと捨てても騒ぎになりにくいからだとか、大方そんな理由だろうが。

「オレはハーレムを作らないよ。作る気は無いと公表もしている。プライベートは静かな方が好みだから。ハーレムっていう名称を当てるのならニコが最前列? 他に誰もいないけれど」

「俺がジェイミーのファンに刺される未来しか見えない」

 多分、検索でもすれば、ジェイミーの独身宣言はすぐに見つかるんだろう。

 彼について俺が知っていることは、恐らく大衆の平均値に満たない。

「刺されそうになったら、オレが守るよ」

 未熟者扱いされているようで、シンプルに不愉快だった。

「初対面から何時間だと思ってんだ?」

「俺にとっての初対面はずっと前なんだ。SNSでニコが最初の曲を出した時からニコのファンだったから。舞い上がっている自覚はしている」

 曲の投稿日時はすべて覚えているが、最初の曲は今から五年前だ。

 彼のアカウントはコメントをよくくれていたし、俺も頻繁に返事をしていた。

 五年もそれを続けていたら、会ったことがないにしろ、初対面とは全く別の感覚になるのかもしれない。

 俺はどうやら未だに、アカウントの彼と目の前の彼が繋がっていないようだった。

「広い家に一人だと、色んなことを考えてしまうから、実は不安なのかもしれない」

 ジェイミーはとってつけたように冗談だよと続けたが、冗談だとは思えなかった。

 彼の目は、水槽の中の脳缶を見つめている。

「薬が出来る見込みはたたないまま、眠り続ける龍の数だけが増えていく。それが何年も続いている。たくさんの管を繋がれて、自分が生きているか死んでいるかも分からず、ただ生かされている、これは彼らにとって幸せなのかって。もう、本人達には尋ねることも出来ない」

 ジェイミーの顔色が青いのは、この空間の青さだけではないような気がした。

「脳が老衰で亡くなるまで、水槽を管理し続けるしかない。それを、オレひとりが、引き継いだんだ」

 泣きだしてしまいそうな顔をしていた。始めたのは彼では無い。彼ひとりのはずがない。

 水槽に使われている管は、随分と古めかしかった。

 これが始まった頃、きっとジェイミーは生まれてもいないのだろう。

「もしかしたら、彼らは不幸なんじゃないかって。それなら、意識が無い状態のうちに、いっそ……。ニコは、どう思う?」

 ジェイミーが、俺の目を覗き込んでくる。

 どうやら彼は、本当に恵まれた人生を送ってきていたらしい。

 もしくは頭がおかしい。龍の目を自ら覗きにくるなんて。

 俺が判断出来たのはそれくらいで、気づいた時には彼の頬を殴っていた。

「龍の目を覗くな。俺は彼らじゃない。だから分からない。龍だからってひとくくりにされても、困る」

「ごめん」

 薄暗いから表情を見ようとしただけだろうとは理解していた。

 それでも衝動的に、俺の手は彼を拒否した。

 芸能人の顔を殴ってしまったと内心慌てたが、彼の頬に跡はついていないようだった。殴られ方が上手い。

「……必要悪、なんじゃないの。ヒトが溺れた方が、もっと大ごとになる。だから、続けてるんだろ」

 彼らが脳だけになっていなかったとして、社会で生きていけるのかは大いに謎だ。

 ヒトに好意を抱かせたりすることが知られている現状で水を撒かれるのだから、ヒトを海へ誘い溺れさせるという噂が一部真実であると知られたらどうなるか。

 俺には、龍というだけでまとめて殺される未来しか見えない。

 龍が別の場所で暮らすという案は、現実的なものにならないだろう。

 そこが逃げ出せない場所でなければならない。

 俺のように、龍に影響を受ける龍だっている。

 その場所を監視したりするヒトが溺れるかもしれない時点で、恐らく成立しない。

「俺はむしろ、ジェイミーがやっているそれに、助けられている側なんだと思う」

 ロクに返事をしない彼に向かって、俺はまた話を続けた。思うところがありすぎた。

 命は誰もが平等だなんて、ただの詭弁だ。

 リソースの余裕を社会的弱者へ裂くことで、治安を維持し、様々な特性を保存する。

 その余裕には限りがある。社会的弱者とする存在の割合が余りにも膨大になれば、仕組み自体が破綻するだろう。

 海へ上がってくるまでに溺れても、誰一人として手を出さないのは、その段階で溺れるような子どもを陸へ上げても生きていけないからだ。

 もしさらに浅瀬から子どもを陸へ引き上げるのなら、おそらくこの国の人々は、別の選別方法を考えるだろう。

 その時には龍も選別され、殺されているかもしれないが。


「オレは、さ。自分のことを幸運な勝ち組だと思う」

 幸運とも勝ち組とも思っていなさそうな青い顔のままで、ジェイミーはそんな話題へと切り替えた。

「まあ、どう考えてもそうだね」

「その上で。ノブレス・オブリージュという概念について知ってる? この国だと結構希薄だけれど」

「知らない」

「貴族の義務ってことだ。社会的に地位があるとか、財産が多いだとか。能力に恵まれ、その成長過程でも恵まれたのなら、それを社会に還元しなければ、恵みが偏りすぎてしまう」

「ジェイミーは、義務感で動いてるってこと?」

「端的に表すのなら、そうだな。他の龍に手を差し伸べるような龍は、ほとんど居ないだろう」

 だから代わりに、余裕を持つ者が龍を助けるべきだと、彼は話した。

 ああ、立派なお考えだ。本当に。

「同類を助けない龍のこと、薄情だと思ったことある?」

「えっ」

 彼は返答に詰まった様子で、手の動きを止めた。

 質問の意図が分からないんだろう。

 もしくは、質問への答えが肯定だからこそ、返答に困っているのだ。

 彼は確かに、首肯しかけた。

「貴族の義務、なるほどその通りだ。龍にジェイミーほどの財産や社会的地位と、生活の余裕があれば、きっと同じようなことをするんじゃない? それどころじゃない、明日の食事に悩んでいるような奴に、考える余裕なんかあるもんか」

 よりよい環境へ行くよう努力しろなんてのも詭弁だ。

 死なないことを目標に生きている状態で、資格の取得や就職活動をすることが難しいだなんて、考えなくても分かるだろう。

 門前払いされる対象ならば猶更。

 自力ではどうしようもないことが多すぎて、どうしようもなかったのに、龍ではない人々との違いに嫌気がさして、それでもやはりどうしようもないから、手元のスマホでSNSを眺め、そうして一日が終わる。

 俺もほとんどの日はそうだけれど、俺のように明確な趣味がある龍は、比較的珍しい。

 むしろ、俺も龍の中では上澄みに入るのだろう。昔から、記憶力だけは良かった。

 何かを作り発表しようとするだけの、環境と能力は持っていた。

 読み書きの怪しい奴らが多い中で、だ。

「気にしなくていいよ。多分、ジェイミーの居場所からじゃ、見えない景色だから」

 ジェイミーは、俺がさっき彼の頬を殴った時よりもよほど、頬を殴られたかのような顔をしている。

 だから俺なりのフォローをしたつもりだが、両腕がぴくりとも動かない様子を見ると、通じているのかは怪しい。そこまで落ち込まないで欲しい。

 大抵、自分の位置を低く見積もるから、むしろジェイミーは、自分が特権階級に居ると自覚しているだけマシだ。

 どれだけ低く見ても、有名モデルが普通以下にはなり得なかっただけかもしれないが。

 自らを低く見るそれには、謙遜だけではなく、無意識の逃げも含まれていると、俺は思っている。

 ジェイミーは難しい理屈を出して来たが、そんな話を出さなくても、物乞いが金をせびるのは裕福な者だけだ。

 だから、裕福な人々でも観光地を通るときは質素な服を着ているだろう。

「俺に、水槽からの景色が見えないのと一緒。見えないものは見えない、違うものは違う。でも、意外と、それぞれの立場って紙一重だったりするんだよ、多分」

「オレは、龍をもっと見せつけたい」

「龍を見せたい? 正気?」

 ジェイミーが抗おうとしているのは、生理的嫌悪感と、見知らぬ危険物に対しての回避行動だ。

 だから、龍へのそれは強く否定されない。きっと、これからも。

「まさか、人気モデル様の手から、どこぞの宗教団体サマと同じような話が出てくるとは思わなかったな。貴方達は神に選ばれたのです! って。大方、龍は孤独なのが多いから落としやすいんだろ……」

 龍の力を世界に知らしめよう。その能力で力を手に入れよう。

 我々だけが本当の、人魚の歌を知っている。そんなことを話し、彼らは俺たちを誘う。

「その団体は知らないけど、違うよ、信じてくれ」

 海辺の街で生活していればまだ兎も角、龍相手の詐欺団体を富裕層が知っている可能性は低いだろう。

「ヒトには、全然話しかけないんだな」

 考えてみれば当たり前だけれど、それに今気づかなかった。だって、俺たちが話しかけられている時、その場に彼らと龍しかいないというわけでもない。

 ヒトは見ているはずなのだ。目に入っていないだけで。

「これも、見えている世界の違いなんだろうな」

 ジェイミーはそう話して、ぞっとするほど悲しそうな顔で笑った。

「さて、オレの自己満足に付き合ってくれて、ありがとう。管理担当者が来る前に部屋へ戻りたいから、またトランクケースに入って貰っても構わないか?」

「はいはい」

 促されるまま、トランクケースの中で身体を縮める。

 行きとは逆を向いて入った俺の眼前に、工具で空けたらしい空気穴があった。

 トランクケースごと運ばれ、揺られながら、行き先が部屋では無く、俺もこのまま脳だけの存在になるのではないかという猜疑心に苛まれていた。

 むしろ、そう疑っていたからこそ、トランクケースへ入ることへの躊躇いは無かった。

 そうなる前に、理由を知ることが出来たのだからそれでいい。

 抵抗はしない。そんな、どこか諦念にも近い心境があった。


 俺の無駄な心配をよそに、トランクケースが再び開かれた先の景色は、ジェイミーと宿泊している部屋だった。

 出掛けた時との違いは、テーブルの上。小魚のフリット、帆立のバター焼き、牡蠣のガーリックソテー、それから、強い酒をボトルで数本。

 注文したものすべてが、まるでタイミングを見計らって用意されていたかのようだ。料理はすべて、まだ温かい。酒に水滴もついていない。

「酸欠? 平気?」

「うん」

 わざと、どちらとも受け取られるよう曖昧な表現を選んだ。

 人の良さそうな彼に、疑っているそぶりを気取られるのは、なんとなく嫌だった。

「乾杯」

 飲んだことのある酒と、同じ名前をした酒を煽った。味は違う。

 俺みたいなのがいつも飲んでいる酒なんて、当然混ぜ物ばかりだから。

 喉に引っかかるものがない。当たりだとか外れとかだなんて、考える必要性も無い。

 昼に飲み食いした、未知の食べ物と未知の酒が旨いのとは別の感覚だった。

 こんなところにまで、別世界は存在している。

 無性に、笑いたくなった。

 ジェイミーは牡蠣を一口で数個、丸呑みして、やはり笑っていた。

 どちらも話さず、しかし気まずいわけでもなく。

 今は何も考えたくない。この食事を終えるまでは。

 唐突に増えた情報と選択肢に、きっと俺は疲れていた。

 聞こえるはずもないのに、海上で賛美歌が歌われているような気がした。

 昼に溺れたところなのに、今はもう、海で生きられる気がしてしまうのは何故だろう。

 サングラスを外し、目を閉じると青が見えた。青だけの世界で俺は泳いでいた。

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