#6 馬鹿
白く高い天井と、豪奢な照明。
広すぎて落ち着かないという感想を抱いていたベッドに身体を沈みこませ、大きく息を吐いた。
着せられている寝間着の肌触りは温めたミルクのようで、このまま二度寝を決め込みたくなる。
ここは船の中、俺と彼が宿泊している部屋で、俺が寝ていたのは俺のベッドだ。
ひとつひとつ現状を確認する。身体に痛みはない。
落ちた時の衝撃で、右目のカラコンが無くなっている。勿体ない。
枕元には、まるで宝石入れのような眼鏡ケースが置いてある。
鎮座しているのは、俺が自分で持ってきていたサングラスだ。万が一コンタクトが割れた時の為にと鞄の中へ放り込んだ過去の自分を、少しだけ褒めたくなる。
サングラスをかけてから、ゆっくりと室内を見回す。
窓から差し込む夕日を、隣のベッドに座るジェイミーの身体がおおよそ遮っていた。
彼は最初に会った時と同じ派手な姿で、顔に液体を塗りたくっている。
乳液、化粧水、日焼け止め、ファンデーション、リップクリーム、チーク、アイシャドウ。
辛うじて名前が分かる程度に馴染みのない化粧品が、彼のベッド上に広げられていた。
ドライヤーを使った形跡もある。
海へ飛び込んだ時に落ちたメイクを直しているのだろう。
ゆっくりと記憶の糸を手繰り寄せれば、俺の後を追って彼は海へ飛び込んでいた。
俺は彼に手を引かれて、息苦しい世界から抜け出したのだろう。
夢の中でそうだったように。
よく、咄嗟に飛び込んだものだと思う。内地に住む富裕層は泳げない人も多いはずだ。海が近くに無いから。
逆の立場だったら、どうだっただろう。
泳げないかもしれない彼が、俺の目の前でうっかり海へ落ちたとしたら。
脳内の自分は、あまりにもあっさりと彼を追って海へ飛び込んでいた。
身体を起こすと、ジェイミーはメイク道具をてきぱきと片づけ、俺に向かって話しかけた。
「おはよう、ニコ。頭痛や吐き気は無い? オレの名前は分かる?」
「おはよ……。多分元気。お前はジェイミー」
着替えているということは、スーツが駄目になってしまったのだろうか。
「シャワーを浴びたら滲みるかもしれないぞ。ニコの着ていたスーツ、背中がざっくりと破れていたから。海に落ちた時、岩に引っかけたのかもしれないな。身体が無事なら何よりだ」
「うわ、スーツの弁償代いくらだろう……。怪我は無いよ」
身体のどこにも、痛みは無い。背中から落ちたらしいのは、恐らく運が良かった。
背中の鱗は、龍という呼称の由来になる程度の硬さだ。
変化した皮膚ではあるが、爪よりも遥かに固く、そう簡単には傷つかない。
「部屋代に含まれているから、気にしなくていい。破れたスーツを買い取った扱いになる」
「縫ったら、また着れるかな」
「あの破れ方だと、縫い目が独創的なデザインになるだろうから、そういうファッションとして着るのも面白いと思う」
遠回しに、スーツの原形を留めていないと伝えられる。
「勿体ないだろ。生地いいし。あんないい服、お前みたいに頻繁に着れないんだよ」
「まあまあ。服は替えがあるけれど、身体は違うから。怪我が無くてよかった。医務室に運ぼうか迷ったけれど、背中を見られない方がいいかと思って」
邪気の無い笑みを向けられて、なんだかむずがゆかった。
同時に、お礼をまだ伝えていないことに気づく。そもそも助けられた身でお前呼びをしている場合では無い。
「助けてくれて、ありがとう」
「どういたしまして! オレ、ライフセーバーの資格を取ったところでさ」
こんなに早く実践する日が来るとは思わなかった、真面目に講習を受けておいてよかった。ジェイミーはそんな話をしながら、にぱにぱと笑った。
泳ぎを練習するためだけに水を張った施設があって、そこで泳ぎ方を学ぶなんて、金持ちの考えることは変わっている。
「水の深さがある施設でも、オレの胸付近までだからな。上手く泳げなくても、溺れないように」
「ジェイミーの胸元だと、ほとんどの人は立っても水面に顔を出せないくらいだよね?」
「正解。立って休憩していたら、深さを勘違いした人が入ってすぐに溺れかけていたことがある。深さ表記を見るように怒られていたな」
「勘違いした理由がそこにいるから、ちょっと可哀想」
「オレは、立ったまま寛がないでくださいって怒られた」
「それは理不尽」
「オレもそう思う」
ルームサービス用のタッチパネルが光り、そちらに目をやった。
煮干しのラーメンが二人前、既に注文されている。
間もなく部屋へ届くという合図のようだ。
「夕食の為に外へ出るには疲れすぎたから、ここで食べようと思って。もしよかったらどうぞ」
「貰うよ。ありがとう」
身体は温かい料理を求めていたし、寝間着からスーツに着替えてレストランへ向かうには疲れすぎていた。
目を覚まし、少し話をして、食事を摂るにはちょうどいい頃合いだ。
ジェイミーがそこまで計算して二人分頼んでいたとしたら、彼には占い師の素質があるかもしれない。
ラーメンは麺が伸びてしまうから、起きる時間と合わせるなんて無茶だろう。
ということは、二人前食べようとしていたのか。相手がジェイミーでなければ鼻で嗤うような結論だが、ジェイミーである時点で特に違和感はない。
「食べられるだけ食べればいいよ。余ったらオレが食べるから」
彼は冷蔵庫から取り出したカップアイスの蓋を開けた。
「え、もうすぐラーメン来るよ」
「食前のデザート。ニコもどう?」
そして、スプーンを口に咥えたまま、当然のように俺にもアイスを勧めてくる。
「遠慮しとくよ。俺はジェイミーみたいに大食いじゃないからね」
ラーメンの匂いに気づいて、ベッドから降りた。
部屋の灯りが数回点滅し、スタッフの来訪を告げる。
室内に入ってきたスタッフは制服をきっちりと着こなし、丁寧な仕草でジェイミーにその顔を向けた。
「お待たせいたしました、ラーメンでございます。食後のお皿は、トレイの上に乗せたまま、部屋の外へ出していただければ、後ほど回収に伺います」
テーブルに置かれたラーメンは、トレイの上で僅かに揺れていた。
ただし、スープは一滴も零れていない。流石だ。
ジェイミーは私服、俺なんか寝間着で、テーブルの上では食べかけのカップアイスが溶け始めている。まるで、深夜にこっそり食べるごちそうみたいだ。
船内にいる他のスタッフと同じ制服を着たスタッフが、私服と寝間着で俺たちが出迎えた部屋の中では逆に浮いているのが、なんだかおかしかった。
ひとしきり笑って、ラーメンが伸びないうちに啜る。
ジェイミーはアイスを数口で食べきって、俺よりも早くラーメンの汁を減らしている。
よくもまあここまで、上品かつ早く食べられるものだと思う。
「ニコ、何か追加で頼む? 予想よりも少なかった」
そう話す為に一度置かれた深皿には、底が見える量のスープしか残っていない。
本当に予想よりも少なかったのか、二人前食べようとしていたところを起きた俺が取る形になったからなのかは分からないけれど。後者の気はして来た。
「つまみくらいなら」
小魚のフリット、帆立のバター焼き、牡蠣のガーリックソテー、それから、強い酒をボトルで数本。
俺がタッチパネルを操作している横から、ジェイミーが注文数を増やした。酒以外は。
「これは度数高いけれど、平気?」
酒に関してはむしろ、注文しようとする俺の手を邪魔してくる。
「飲んだことあるやつばっかり選んでるから、今度は心配しなくていい」
今度は。さっきだって、決して酒で悪酔いしたわけではないけれど。
「そういえば」
十分な休息と栄養を与えられた脳味噌が、ようやく動き出したみたいだ。
ひとつの疑問が零れ落ちる。
「どうして、落ちたんだろう」
水への渇望、溺れることへの恐怖心の欠如、鈍くなった思考。
まるで、人魚の歌にでも誘われたかのようだった。
喉の渇きが酷くなった時のどちらも、俺の近くにはジェイミーと、紫色のコンタクトをつけた少年がいた。
ジェイミーはこの一件について不思議がっているように見えず、ヒトにありがちな恐怖心を見せることもない。いっそ、不自然なほどに。
彼が、初対面であるはずのあの少年を少年だとほぼ断定したのは何故か。
内陸部に住んでいるのだろうジェイミーが、いつどこで、鱗の色について把握出来るほど龍の背を見ているのか。
「ねえ、ジェイミーはどうしてだと思ってんの?」
龍の話をすべて抜きにしたって、歌っている真っ最中にいきなり海へ飛び込んだ時点でおかしすぎるのだから。
自殺志願者だと思われたのだとしたら、もう少し腫物に触るような態度になるだろう。いくら、龍にそういう奴が多いとしてもだ。
「理由を知った時に、後悔するかもしれないけれど、それでも構わない?」
彼はラーメンのスープを全て飲み干し、急に真面目な表情を作った。
笑っている印象が強いからか、その表情が怖かった。
ジェイミーに俺を怖がらせる気なんてちっともないのだろう。
冗談にしては、余りにも目が真摯だった。
「そんなの、知らなきゃ分からないだろ」
「まあまあ。それはその通りだけれど、後悔をする覚悟があるのかだけ教えてよ」
「……腹は括ったよ」
ジェイミーは、カードキーをテーブルの上に置いた。
ただそれだけの動作が、妙にもったいぶっていた。
カードキーはこの部屋のものとよく似ていたが、端には『関係者限定』と彫られていた。
それに、文字の装飾が細かく、高級感があるような気がする。
正直、ここに来てから高級感がインフレしていて、基準がおかしくなりそうだった。
「それでは、この船のトップシークレット、深層部へご案内」
彼は自分のトランクケースを開け、衣類を取り出した。
ファンタジー映画であれば、トランクケースの先が異空間に繋がっていることだろう。
勿論そんなわけはなく、ただ空のトランクケースが出来上がる。
「運び込むから、この中に入って貰えるかな」
そして、ジェイミーはそのトランクケースを示した。
知り合いが同じことを勧められていたとしたら、俺は全力で止めているだろう。
今日初対面の相手が持って来たトランクケースに自分から入るほど、迂闊でお人好しで馬鹿な知り合いの心当たりは、一人しかいない。自分だ。
俺は足を折り曲げ、トランクケースの中に座り込んだ。
「……何」
「ありがとう」
ジェイミーは拍子抜けしたような、安堵したような、何とも形容し難い表情をしている。
座ったまま見上げると彼がさらに大きく見えたが、迫力は感じられず、むしろ迷子のようだった。
トランクケースが外側から閉じられ、やがて完全に暗くなった。
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