#1 出航
雲一つない快晴、風も穏やか。老人が小魚の群れに餌を投げている。
昼食の残りのパン屑あたりだろうか。
昨日までの雨で水路の水嵩が上がっていることを除けば、絶好の旅日和だった。
俺は船へ乗り込み、自分の泊まる部屋を探した。
絨毯の敷かれた階段に、よく分からない装飾の施された柱。
俺の服装は生地が固めのワイシャツに、深い赤色のスキニー、黒いショートブーツ。
これでも、持っている服の中では値段が高く、落ち着いたものを選んでいる。
周囲の服装はブランドものらしきスーツや、華やかなドレス。場違いすぎてここから消えたい。
「お、そのチケット、同室さん?」
肩を叩かれ振り向くと、俺以上に場違いな奴が、俺の方を向き、僅かにかがんでいた。
褐色肌の美形だ。黒い髪の毛は結べるほど長く、下の方で緩い団子が作られている。
エスニックを体現したような服装だった。カーキ色の服には刺繍が施されている上、明らかにデザインとしてのオーバーサイズだ。
むしろよくそんな服が売っていたものだと思う。特注かもしれない。
見上げるほど背が違うが、俺は別に小柄じゃない。彼が二メートル近くあるだけだ。
革紐製ネックレスの先にはオレンジ色の硝子がぶら下がっていて、その硝子がちょうど俺の目線の高さで揺れていた。場違いだが、とても似合っている。
その顔には見覚えがあった。昨夜寝る前に見た、公式マークつきの有名人。
「オレはジェームズ・ミラー、略してジェイミーってことでよろしく」
見せられたチケットの部屋は俺の部屋と同じ番号で、握られた手のひらは温かかった。
チケットと一緒に部屋のカードキーを貰ったが、彼がそれを持っている様子は無い。
持ち物は今さっきポケットから取り出したチケットのみに見える。
スーツケースはどうした。
「助かった。仕事の都合で早めに着いたんだが、カードキーを部屋の中に置いたままうっかり外に」
つまり、締め出されたというわけか。このドレスやスーツの集団の中、派手な私服で待たせていたのだと思うと、本人のミスが原因とはいえ申し訳なくなってくる。
彼が有名人であると分かっているから、猶更。
思い出した。
レインコート姿で、外を出歩かないようにとアナウンスしていたのも、楽しそうに踊る動画を上げていたのも彼だ。
よく分からないチケットで潜り込んだ俺と違って、彼は自分の稼ぎで堂々と、ここに来る権利を手に入れられるのだろう。
「ニコロ・セルキーです。名字でも名前でも、お好きな方で」
「じゃあ、ニコな!」
名乗られていたことを思い出し慌てて名乗ると、笑みと共にあだ名をつけられる。
活動名と同じ呼ばれ方であることに引っかからないわけではないが、一々言及する方が怖かった。
顔を覗き込まれて、咄嗟に目を逸らした。
コンタクトを着けているとはいえ、心臓に悪い。
カードキーを扉にかざして、彼から顔を背けたまま、部屋へ足を踏み入れた。
ベッドが二つ、テーブルと椅子のセット、冷蔵庫、バスタブ、トイレ、海の見える窓。
白いシーツのかけられたベッドはマシュマロのようにふかふかだ。
テーブルの上にはクッキーなどの焼き菓子が銀食器に盛られている。
紅茶の用意されたポットの横には、ウェルカムドリンクのメニュー。
メニューの上に置きっぱなしのカードキーが、ジェイミーのものだろう。近くに、俺が入れそうなほど大きなスーツケースもあった。
冷蔵庫の中にはデザートワインが数本と、船に乗る前に買ったらしいカップアイスがいくつか。
何故それが分かるか。アイスのフタに『ジェイミー』と書いてあるからだ。
トイレは手を横に伸ばせるほど広く、バスタブは自宅の倍くらいのサイズがあった。
少なくとも、俺が普段暮らしているワンルームの部屋より遥かに良い場所であることは確かだ。
ウェルカムドリンクや銀食器なんて、物語の中でしかお目にかかったことが無い。
扉側のベッドに鞄を下ろした俺を見て、彼は窓際のベッドに座った。口元が動いていると思ったら、静かにクッキーを咀嚼している。
どうやら味が気に入ったらしく、ベッドに食べカスを落とさないように添えられた手には次に食べるクッキーが乗せられていく。俺の分も食べたら怒ろう。
ベッドの横にある小テーブルには豪華な装丁の小冊子が鎮座していた。旅の栞らしい。
数ページめくったところで、俺の手は止まった。ドレスコードのページだ。
寝室以外、フォーマル一色。ファッションに詳しい人が見れば違いはあるのだろう。
外に出るならスーツを着るように以外、俺が読み取れる情報は無い。どおりで私服が浮くはずだ。
「この部屋、衣装のレンタル代も込みだったよな。オレは今から借りに行くけれど、一緒に来る?」
ジェイミーは指を舐めながら、弾みをつけて立ち上がる。クッキーは皿の半分を境に、向こう側だけがすっかり食べ尽くされていた。
「うん、そうする。助かる」
クッキーを一枚、口に咥えながら返事をした。甘い。
咀嚼すると、バターの匂いが口の中に広がった。
クッキーよりもガレットのようで、ほんの数枚で腹に溜まる。
きっちり半分食べきっていたジェイミーの方を横目で見た。
その背の高さを目で計って、なるほどと頷く。
体格がいいから食事の量が多いのか、大食いだから背が伸びたのか。
果たして彼に合う丈のスーツはあるのだろうか。
そんなことを考えながら、部屋の扉を開けて廊下に出る。
忘れ物は無いかと振り向いて、笑い出しそうになった。
部屋の奥からこちらへ向かっているジェイミーの頭で、カモメがくつろいでいるように見えた。
もちろん、本当にカモメが室内へ入ってきているわけではない。
窓の外で船の装飾部分に掴まっていたカモメが遠近法でそう見えただけだ。
「ジェイミー、ちょっとそのままでお願い。よし、撮れた」
ジェイミーは振り返り、俺の視線の先を見てから、まるで頭上のカモメを撫でてでもいるかのようなポーズを取ってみせた。
「どれどれ。お、我ながらなかなかいい位置」
「SNSに投稿していい? 誰か分からないように眉毛より上だけ切り取って載せるから」
「どうぞ、ご自由に。切り取らなくても構わない」
ジェイミーはそう話し、笑った。会ってからまだ一時間も経っていないが、彼の破顔を何度も見ている気がする。人の柔らかな笑みをこんなに見るのはいつぶりだろう。
『快晴 旅行中』
今さっき撮った写真を加工して、コメントと共に載せた。
鳥が目立つようにエフェクトや落書きを加えた写真からは、現在地も、被写体の性別すらも読み取ることが出来ない。これでよし。
有名人だろうに、自分の写真に対する緩さはそれで問題ないのかとむしろ心配になる。
「ええっと、衣装を借りられる店は……あっち? お姉さんありがとうー!」
彼は手足も身振りも大きい。
船内マップを探しながらの馬鹿でかいひとりごとに、近くの女性が手を振って応えた。
ジェイミーが手を振り返すと、彼女らも手を大きく振り返した。
人に好かれやすい性質だろうか。身長の割に、威圧感をほとんど受けないから不思議だ。
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