第44話 色を失くして心を閉じた
『どうして「さようなら」っていうの』
『嫌だよ』
『これが最後なんて嫌』
「なん……」
溢れ出る文字の奔流に、アルベルトは言葉を失った。
空中に描かれる様々な色の言葉。
浮かんでは消え、浮かんでは消えを繰り返し、森の劇場を埋め尽くしていく。
『もう一人は嫌なの』
『一人になりたくなんてない』
『もう寒いのは嫌』
「…………」
これだけで察することが出来てしまう——これは彼女の感情の発露だ。
原理など分からない。けれど、目の前で起きている現象の原因は彼女で、それが彼女の感情に起因していることくらいは分かる。
止めた足はもう動かない。
映る色彩は、静寂の歌となってアルへと紡がれる——
お母さんが大好きだった。
お父さんは分からない。だって、物心ついた時にはもういなかったから。
毎日夜に出掛けていくお母さん。
それでも、毎日歌を歌ってくれたから寂しくはなかった。
外は怖いところで、世界はとても怖くて。
ちっぽけな小屋の中だけが、唯一安心できる世界だった。
木漏れ日は温かく、風の音は涼やかで。
近くに住む人が流す水の音や、土を耕す音が友達だった。
満ち足りていて、かけがえのないもので。
そんな毎日がすごく……大好きだった。
街はとても暗い。
だけど、お母さんの歌はいつも明るくて、暗い街を照らしてくれていた。
それは、自分の心も同じだ。
狭い世界に閉じこもっていた心を温めてくれていた。
けれど……。
お母さんが英雄と呼ばれるようになってすべてが変わった。
皆がお母さんを英雄と崇めるようになって。
その歌だけが癒しだと、その歌だけが救いなのだと……そう、重い想いを捧げるようになった。
英雄なんてガラじゃないと。
はにかむお母さんは困ったように漏らしていた。
家では歌を歌ってくれて。
外でも歌を歌っている。
毎日、毎日……本当に毎日のように歌って。
お母さんの歌は、この街に無くてはならないものへと昇華した。
楽団という人たちが街に訪れて。
お母さんの重しも少し軽くなるかもしれないと考えたけど、ダメだった。
人の苦しみは思っていたよりも大きくて。
人の願いは思っていたよりも巨大だった。
際限なく願いは、想いは大きくなっていく。
……そんなのただの欲望でしかない。
もっと聴かせて。
もっと歌って。
もっと助けて。
もっと救って。
人が自分のために、自分のためだけに……ただ英雄に奉仕してほしいと願っていただけ。
人は汚らわしいもので、怖いものだと再確認して。
外の世界は本当に危ないものなのだと再認識した。
行ってほしくないと願っても、もう遅かった。
だって、お母さんはもう英雄と祭り上げられてしまっていたから。
一度上がってしまえば、もう戻れない。
そういう世界に、お母さんは行ってしまっていた。
……だから、この結末はもうすでに決まっていたのかもしれない。
「なんだ……?」
空に描かれる色彩が濁っていく。
色がではない。描かれる文字が歪み、書きなぐったような文字に変わっていった。
なのに、彼女は歌い続ける。
顔を上げて、空を見つめて、彼女は歌い続けている——
お母さんが大好きだった。
でも、もう……笑ってはくれなかった。
物を叩きつける音が響いて。
怒り狂う叫び声が響いて。
怒ってくれていた。
嘆いてくれていた。
皆がお母さんを想ってくれていたのだと……そう信じて。
でも……違った。
人は自分のためだけに怒っていた。
英雄はただの道具で、動かなくなってしまえばただのガラクタだ。
体を失っていたガラクタは道に投げ捨てられていて、誰にも見向きはされない。
自分だけが大事に抱えていて、誰も想ってくれてなどいなかった。
……うそつき。
皆……うそつきだ。
世界に色が失われていく。
視界の変化に声が出なかった。
燃え上がった炎も、怒声を上げる人の肌の色も、崩れる瓦礫の色も……何もかも、色を失っていく。
赤が白に、赤が黒に。
青が白に、青が黒に。
黄が白に、黄が黒に。
緑が白に、緑が黒に。
世界が極端に変わっていく。
世界が変わって……自分が変わったのが分かってしまった。
何も思わない。
街が燃えても、人が叫んでも、家が崩れても、人に蹴られても。
なんでこんなに怒っているのだろう?
なんでそんなに叫んでいるのだろう?
なんで?
なんで自分は泣いているのだろう?
分からない。
人が怒っている理由も、嘆いている理由も、両腕にガラクタを抱えている理由も。
ガラクタはガラクタなのに、捨てられない。
捨ててしまえばいいと考えているのに、捨てられない。
黒と白の炎に濡れる街を歩いて、家を目指す。
蹴飛ばされた、逃げる人に踏まれた。
何も感じない。
ただただ歩いて、歩き続けて、穴を掘って。
ガラクタを埋めた後は………………何も覚えていない。
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