第43話 離別の歌




 楽しかったという記憶はない。


 子供ながらに異常さは感じていて。

 けれど、皆がそれが普通なのだという。


 おかしい……おかしいよ、と。

 上げる声はまだ小さくて、背も低かったから視界も開けていなかった。


 鎖に繋がれるままに生きてきて、鍵を開けたのはただのいたずら心。

 鍵をそっと置いて、外へと身を乗り出した。


 世界は自分が思っているよりもずっと大きくて。

 人は自分が思っているよりもずっといっぱいいて。


 鎖ではない何かで繋がっている彼らに、心奪われた。


 繋がれるのではなく、繋ぎたいと。

 自由の意思の元で、自分から繋がっていきたいと。


 だけど、自分の世界は広げられないままで……結局狭い鳥籠に繋がれたまま。


 繋がれた鎖が壊されて。

 無理やりに広げられた世界は美しくて。

 魅了された心はもう戻れなくて。


 でも、美しい金色は儚く燃えて、散った。


 世界は思っていた以上に醜かった。

 醜くて、汚くて、恐ろしくて……いつしか見たいものしか見なくなった。


 仲間が増えた。

 また増えて、また増えて、また増えて、また増えて。


 増えるたびに一人に向けられる量は減って、外に向ける量も減った。


 好きなものだけを見て、嫌なものは背景に。

 そうして心は平静を取り戻した……はずなのに。


 なんで、この景色から目を離せないんだろう?

 見てはいけないと心が叫んでいるはずなのに、心が離れてくれない。

 他にも動いてくれない……ただただ、蒼い円に浮かぶ色彩に魅了されていた。


 なのになんで?


 絵を宙に描き出した歌姫は、自分と同じだった。

 見たいものだけを見て、見たくないものは見えなくなっていた。


 少しだけ異なっていたのは、自分はそれを隠していたということだけ。

 隠して、もっと深く隠して。

 認識すらできなくなっていたそれを見せつけられて、厳重な蓋に傷がついた。


 だから…………なのに。

 少しだけ動いた心は、後を追ってくるはずだったのに。

 そう思い込んでいたのは自分だけだった。


 スタート地点は同じ。

 前に進んでいたのは貴方だけ。


 取り残されて、それが認められなくて。

 足は動かない。心は動かせない……動かしたくない。


 なのに……。


 心だけが先に進んでいく。

 想いを置いて、進んでいってしまう。


 待ってと叫んでも聞いてはくれない。

 だって、すでに心を奪われてしまっているから。


 だからここでサヨナラを。

 それが貴方に贈る……の歌。




 風の音に、葉のこすれる音に混じって響く音が小さくなっていく。

 

 じんと耳を揺さぶる音色は薄れていって。

 心を揺さぶるための旋律は擦れていって。


 揺れる弦の余韻を感じながら、アルベルトはその手を止めた。


「…………」


 余韻はまだ続いている。

 次第に塗りつぶしていく風の音に紛れて喉を鳴らす。


 アリアはただ森を見ていた。

 真っ直ぐに見続けていて、今までのように歌ってはくれなかった。


 ……それもそうか。


 かたきだからという理由を除いても、彼女が歌わなかったのは正解だ。

 これは、誰かと共に演奏する歌ではない。

 アルベルトが生きてきた様を音にして、アルベルト一人が奏でる離別の歌だ。


 ……分かってたはずなんだけどな。


 感じる一抹の寂しさに、アルベルトは微かに苦笑した。


 この森で演奏する時はいつも一緒だったからだろうか?

 一人で奏でたという結果が、アルベルトがもう一人なのだと結論付けていて。


 ……これで、終わりなのか。


 小さい感情が、徐々に大きくなっていく。

 しかし、それを表に出してはいけない。


 出してしまえば隠せない。

 隠せない以上は、もう吐き出すことしか出来なくなるからだ。


 響かせようとする音を飲みこんで、アルは構えを解いて楽器を降ろした。


 握る楽器は辛くなるほどに重い。

 けれど、心が軽くなったのは重荷を音に乗せたからだろうか?


 心の膿を吐き出して、残った想いは透き通っていて。


「聴いてくれてありがとう……これでサヨナラだ」


 アルベルトは相棒を握り締めると、ケースにしまうことなく歩き出す。


「たぶん、楽団は君を追い出したりしないと思う。だから、安心して世話になってくれ」


 それくらいの我が儘は許されるだろう。

 養父ガルズ義理の息子アルベルトの願いなら聞いてくれるはずだ。


 アルベルトは顔だけを振り向かせた。


「それでも渋るようなら……フリント様にでも頼めばいい。あの人なら喜んで世話を焼いてくれるだろうし、楽団に残る手助けもしてくれるさ」


 彼ならば、彼女のために全力を尽くすだろうから。

 アルベルトが知っている彼の心情を考えれば、それくらいは確実にするだろう。


「じゃあ、俺は行くよ……さようなら」


 別れは済んだ。

 ティルナたちには出来ていないが、アリアに伝えられただけでも上等だ。


 張り付く雑草から足を逃がして、アルベルトは街への道を歩き出した。






 しかし、その足は円形の劇場を出る直前に阻まれる。


『どうして?』


 空中に文字が浮かんでいた。

 青い光で形作られていた一言。

 その文字を見て、アルベルトは弾かれたように振り返った。

 そこには——


「————————」


 切り株というステージの上で、歌姫アリアが歌っていた。


 腰を下ろしたままで、雑草に足を乗せたままで。

 けれど、その目は空へと向いていて、彼女の周囲には色とりどりの光が浮かんでいる。


「なにが……?」


 声を漏らす。


 一度だけ見た現象だ。

 あの時は、彼女に名前を聞いた時だったか。当時と同じ現象に、アルは目を奪われてしまって。


「————————」


 切り株に座るアリアから、無数の光の文字が溢れ出た。

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