第40話 静寂と色彩の歌




 街のどこか。

 静かに、でも心を満たす音色が漂ってくる。


 一人の音が消えた。

 二人目の気を奪った。


 三人、四人、五人……十人と。

 波紋が広がるように、雨粒がいくつも水面に落ちるように。


 広場にいる人間の意識が、少しだけ。

 どこだ? どこからだ? そう、人々は声に出さずとも音の発生源を探す。

 それは必然的に全員の声を奪い、一人の少女と同じ状況を作り出した。


 だから。


 導かれるように。

 導かれるままに。


「————————」

 

 広場を、少女の歌が染め始めた。




「これは……」


 ……芽吹いた。


 咲いていなかったはずの……生えてくることがなかったはずの。

 いいや、芽吹いてはいけなかったはずの花がたしかに芽吹いたと、ガルズ=クイントンは確信してしまった。


 先程までの、明らかに分かる不調。

 集中が続かず、気持ちを乱し、団員たちは音にのれてはいなかったはずだ。


 予定外に外れていく音に観客の興味は逸れ始め、次第に数を減らしていく。

 それがさらに団員たちの肩にのしかかり、演奏の影を差していく。

 結果、公演の失敗という最悪の結末へと向かっていたはずだったのだ。


 アリアのパートに移り、ホッとした表情を露わにした団員たち。

 決して彼らを責めることは出来ない。ガルズでさえ、彼らと同じ年ごろであったなら同じことをしていただろう。

 しかし、この場を立て直せる可能性を持つ彼女は歌わなかった。


 先頭に立ちながらも歌わない彼女に団員たちは動揺し、人々は怪訝な眼差しを彼女へと向ける。

 それを、どこから聞こえてきた弦の音色が覆したのだ。


 旋律が観客を黙らせ、少女が歌い出す。

 待っていましたと言わんばかりに灯る光に、ガルズは一輪の芽吹きを幻視した。

 

 少女の周りに色とりどりの光が生まれ、集っていく。


 赤い光がトカゲへ。

 青い光が人魚へ。

 黄色い光が小人へ。

 緑の光が妖精へ。


 幻想的な光景だ。


 突然の異変による沈黙から、彼女の歌声による静寂へ。

 人々の意識が一人の少女に集中し、その光景に吸い寄せられていく。


 赤いトカゲが地を這って。

 青い人魚が共に歌って。

 黄色い小人が騒いで。

 緑の妖精が宙を舞う。


 己が意志を持っているような光が、さらに輝きを強くする。


 赤は炎を灯して。

 青は水に濡れて。

 黄は土を揺らして。

 緑は風を吹かせた。


 精霊……そう称するのが妥当だろうか。

 人知を超えた存在と共に歌う少女……その光景はまさにおとぎ話の再来だ。


 人魚の肩に乗ったトカゲが炎を吹き上げて。

 舞い上がった炎に驚いた妖精が逃げ出し、小人たちがトカゲを小突いて。

 逃げた妖精は人魚の胸元に飛び込んで、人魚は妖精を慰めて。

 トカゲが妖精の元に這っていき、両者は仲直りを果たした。


 自由に動き回る精霊たちの姿に、観客は目を奪われていた。

 言葉を忘れ、食い入るように。

 蒼穹という無限のキャンバスを染め上げる幻想は、人の思惑など意に返さない。


 己が己のために。

 音を楽しみ、歌を喜ぶ。

 ただそれだけの光景が、疲れた人々の心を魅了する。


 あまりにも自由で、あまりにも奔放な彼らは、人の思惑の外でしか動かない。

 だからこそ純粋に、奏者と歌姫……たった二人の演奏に耳を傾け、音に乗って踊るのだ。


「きれい……」


 そう呟いたのは誰だろうか?


 静寂の中だからこそよく届いたこの声は、人々の心のたがを外す切っ掛けとなった。


「本当に……」

「すばらしい……」

「美しい……」


 人の声が徐々に増え始め、ノイズが混じり出す。

 顕著に反応したのは精霊たちだ。彼らはキョロキョロと周囲を気にし始め、動きを鈍らせた。

 しかし、演奏は止まるどころか響きを増して。


「————————」


 一瞬。

 大きく響いた音が、新たな旋律の始まりを告げた。


 切り替わった音律は再び人々に空白を植え付け、静寂が場を支配する。

 同時に、幻想に変化が訪れた。


 さらに増えた光が集い、新たな精霊たちが現れたのだ。


 赤い男が。

 青い少女が

 黄色い猫が。

 緑の女性が


 像を結び、実体が生まれ、音楽と共に踊る。


 炎を纏って踊る男は、情熱的なダンスを。

 水に濡れて踊る少女は、静謐な踊りを。

 植物と触れ合う女性は、活性の舞を。

 唯一、猫だけは地べたに寝転んでだらけていた。


 自由に踊り、歌う。

 心のままに歌い、踊る。


 それは、どれほど素晴らしいことなのだろう?


 赤いトカゲを乗せた青い少女。

 青い人魚の隣に座る緑の女性。

 黄色い小人と一緒に騒ぐ赤い男。

 緑の妖精は黄色い猫のお腹に座って。


 瞳に映る光景は、依頼の上で演奏をするクイントン音楽団のそれとはかけ離れていた。

 そしてそれは、この街に生きている人々も同じだ。


 誰もが生きるために何かを我慢する。

 誰もが生きる以上は何かに縛られる。


 光があれば必ず影が生まれるように、正の感情の裏には絶対に負の感情が隠されている。

 だからなのだろう……彼らの歌と踊りに心打たれるのは。


 裏表なく、己が心に従う精霊の舞は涙が出そうなほどに美しい。

 赤、青、黄、緑と、蒼穹を染め上げる色は、観客の心を掴んでは離さない芸術のようだ。


 声を忘れ、半ば放心状態で無限の色彩を見つめる人々。

 それは、楽団の人間も例外ではない。

 フェルドも、レディンも、フィアも、ティルナやレスターですらも、目の前に広がっている光景に言葉を忘れ、ただ見つめていた。


 そして——


「————————」


 芽吹いた色彩は花を咲かせる。




 新たな色が生まれた。


 赤と戦うように。

 青と添うように。

 黄と遊ぶように。

 緑と並ぶように。


 白と黒。


 それをなんと表現すればいいのか、ガルズには分からなかった。

 しかし、自由に踊っていた彼ら以上の存在であることは、その美しさからひしひしと感じられる。


 白い光を纏った女と、黒い光を纏った男。

 突如空中に生まれ落ちた二体は、音に乗って踊り出す。

 そして始まったのは、白と黒の織り成す舞であり、無限に彩られる舞だ。


 精霊たちを従えて、歌って踊る白と黒。

 彼が手をかざせば焔が舞い上がり、静寂を響かせれば風が吹く。

 彼女が手を降ろせば水流が生まれ、沈黙を響かせれば花が咲く。


 言葉には出来ない美しさがそこにはあった。

 気付けば減りつつあった観客は少しずつ戻り始めており、その全てが色に魅入られて言葉を失っている。

 それだけじゃない。

 人の心を魅了する演奏によって、観客たちの中には涙を流している者もいた。


 声もなく、ただただ頬を濡らして。

 彼ら、彼女らは瞬きも忘れて、いっぱいに広がる色の舞に見とれていた。


 だが、この光景にも終わりが訪れる。

 

 演奏の終わり。

 曲が終盤に差し掛かり、最後を迎えて。

 長く空気を揺らす余韻が広場に響き、じんと耳を揺らしている。


 人々は少しでも長くこの余韻を感じていられるように、ほとんどが目を閉じていた。

 そして、広場を完全な静寂が支配して——


 ——————パチ。


 初めは一人だった。

 一人増えて、二人になって。

 四人、八人と伝播し、広がり、少しずつ大きな音に変わっていく。


 ガルズはその光景に微笑みを浮かべて。


「アル……ようやくお前の夢が叶ったぞ」


 一人の男への賛辞は、すぐに喝采の音にかき消された。

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