第34話 英雄を幻視して




『——お前なぞ、我が家の人間ではない!』


 怒鳴り声。

 よく聞いていた声だ。毎日毎日、飽きることなく叫ばれるそれと、かきむしられた白金の髪。

 飽きもせず繰り返される日々に、いつの間にか心が揺れ動くことが無くなった。


 やがて父の表情の変化にも興味が無くなり、街の人の表情に興味が湧くようになって。

 元より向けられることなんてなかった母の眼差しも、全く気にならなくなって。


『本当に下らない……これでは先が思いやられるな』


 小さな世界の中にいた人たちの陰口も、そういうものだと子供ながらに納得した。

 だからだろう……彼女の歌声に心動かされ、感動してしまったのは。


 それから、少し時間が経って。


『やあ! 私の歌、楽しんでくれた?』


 酒場に潜り込んで、彼女と少しだけ親しくなって。


『そっか、楽しんでくれたのなら嬉しいな』


 そう気恥ずかしそうに微笑みながら、大嫌いな髪をくしゃくしゃにされて……それから、それほど自分の髪が嫌いではなくなった。


 でも、街の人の表情から笑顔が消えて。

 その笑顔を取り戻すための僅かな希望も潰えてしまって。


 また、自分の髪が大嫌いになった。


 だから————




「ああ……」


 体の熱にうなされ、意識を取り戻す。

 気怠さに、のどの痛み。それらを感じながらも、意識は靄がかかっているようで思考がままならない。


「練習は大丈夫だったかな……?」


 公演までもう時間が無い。

 本来であればアルが率先してフェルド先輩たちをサポートして、効率的に練習を重ねていかなければいけなかった。

 しかし、今はこんな様だ。


 悔しさや虚しさ……無力感が胸に渦巻いて、涙がにじみ出てしまいそうだった。


「はっ、どうしようもないな……」


 自分が女々しくて嫌になる。

 感傷に浸るくらいなら、早く体調を戻して練習に復帰するべきだ。


 少し考えれば分かるはずなのに、脳裏に浮かぶのは後悔ばかり。

 それでも、体は思うように動かなくて。


「寝るか……」


 アルの意識は、次第に闇に埋もれていった。




 再び、熱にうなされて意識が浮上した。

 のどの痛みは少しはマシになった……程度だろうか? 気怠さはそう変わりなかったが、多少は改善してきている気がする。


「今は……夜、か?」


 窓の外はすでに暗く、自分が思いのほか長く眠っていたことに驚いた。

 医者が言うには疲れが出たということなのだから、当たり前といえば当たり前かもしれないが、初めての経験にどうしても実感が湧かない。


 アルは、体は昔から丈夫な方だった。

 さすがに養父に引き取られた直後は環境に慣れていなく、体調を崩すことが多かったが、生活に慣れてきた頃には体調を崩すことは無くなっていた。

 だからむしろ、よく熱を出していたティルナの看病をしていた記憶の方が多い。


「さすがに腹が減ったな」


 一日寝っぱなしだったせいか、腹が空腹を訴えている。


「今から食堂に行っても間に合うかな?」


 正確な時間が分からないため、まだジャルムが食堂に残っているかも分からない。

 それでも、最悪なにか食べられる物はあるだろうと、アルが体を起こそうとすると。


「うぉ!?」


 視界に入った人影に、アルは思わず声を上げてしまった。

 ズキズキと痛む喉に顔をしかめ、弾む心音を落ち着かせながら人影の様子を窺う。

 少しずつ暗闇に目が慣れてきた——アリアだ。


「……どうしたんだ? ランプくらい点けても良かったのに」


 アリアが首を横に振る。

 そして、スッと腕を上げたかと思うと、アルのベッドの脇に置いてあるテーブルに指を差した。


「ああ、食事を持ってきてくれたのか。ありがとう」


 静かに座っていたものだから何事かと驚いたが、そういうことなら納得だ。

 アルが礼を言うと、アリアはまた首を横に振った。


「違うのか? じゃあ、ティルナか? それも違うのか……まあ、いいか。様子を見に来てくれたんだろ? それだけでも嬉しいからさ」


 アリアの反応を伺いつつ、会話を続けていく。

 同時に、アルは用意された食事に手を伸ばした。


 用意されていたのは粥だ。

 さすがに冷めてしまっているものの、空腹もあってやけに美味しそうに感じてしまう。


「いただきます」


 スプーンですくって一口。

 シンプルな塩味が身に染みた。


「悪いな、俺だけ食事してるみたいで。大丈夫? そっか」


 首を横に振るアリアから視線を外して、アルは食事を続ける。

 空腹なのもあってすぐに粥を平らげたアルは、空になった食器をテーブルに戻した。


「ごちそうさま。それじゃあ、俺は寝るよ……なるべく早く体調を戻さないといけないしな」


 アルはベッドに横になる。


「今日はありがとな。アリアも部屋に戻ってくれ」


 コクリを頷くアリアを見届けてから目を閉じた。

 すると、椅子が動く音が耳に届いて——


「なん……?」


 さらりと。

 前髪をくしゃくしゃにされて、アルはすぐに目を開けた。

 しかし、彼女はスッと手を離すと、背を向けて扉へと歩いていって——


「ぁ————」


 その後ろ姿、アルはかつての英雄を幻視した。


「待ってくれ!」


 気が付いた時には体を跳ね上げさせて声を張り上げていた。

 振り向き、向けられる錆色の瞳。


「……いや、ごめん。なんでもない」


 いったい何をやっているのか……。

 無意識だったとはいえ、あまりにもおかしい行動だ。


 背を向けられ、扉が開かれる。

 すぐに聞こえてきた扉の閉まる音を境に、アルはベッドに身を落とした。


「まさか……な」


 呟きは誰にも届かず、暗い室内で静かに溶けた。

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