第32話 一人欠けた練習




 姿勢を正し、弓を引く。

 精密な指の動きが同じく精密な音を響かせて、それが一つに交わって大きな音に変わっていく。


 基本に忠実に、それでいて大げさに。

 ある意味、それは威嚇に似ているのかもしれない。


 一人では小さな音しか奏でられない。

 けれど、数が集まれば、それは相応に大きなものに変わる。

 大きければ大きいほど、人々を圧倒し、心を揺さぶるのだ。


 だからこそ、音に負けないように人一倍音色を響かせる。

 遠くに、そして一人でも多くに。自分を魅了した音を、今度は自分が届かせるのだと。


 そして、演奏が終わって。


「はぁ……」


 レスター=テンドルトは、視界に映る空席にため息を漏らした。


 ……もの足りない。


 演奏は練習を重ねているおかげか、順調に最高の仕上がりに向かっていた。

 序盤の不調など嘘かのように、皆が公演に向けて切磋琢磨をしていた。


 その理由は簡単だ。

 アル=クイントン……彼の不調が無くなったから。


 けれど、今日に限っていえばそうではなかった。


「うーん、今日は上手くいかないね……空が曇ってきているからかな?」


「関係ないでしょ。あるとしたらあんたが欲求不満だからじゃないの?」


 フェルド先輩とフィア先輩。

 彼らも今日は上手く音に乗れていないように思える。


 これも、アル=クイントンがいないからなのだろう。


 団長であるガルズ=クイントンの義理の息子であり、将来はクイントン音楽団の団長になる少年。

 彼は実力も本物で、自身レスターも所属する弦楽器奏者のナンバーツーである。

 幼少の頃から楽団に所属しているせいか団員からの信頼も厚く、管楽器のティルナと共に若手の中心的な存在だ。


 そもそも、団員で十代なのはアルとティルナ、それとレスターだけだ。

 クイントン音楽団はそれだけ入団するのが難しく、入れただけで奏者としてはエリートなのである。

 だが、入れたとしても厳しい現実が待っている。


 実力がある者が前列に……つまり、目立つことが出来る弱肉強食の世界。

 レスター達とわりと歳の近い者たちは総じて後ろ側であり、例外はスカウトで入ってきたというフェルド先輩だけだろう。

 若手から見ればアルやティルナの序列は天才と称されるものであり、羨望の眼差しを受ける一方で、高い壁を認識させる呪いだ。

 挫折してスランプに陥る者、演奏出来なくなる者……様々な者がいる中で、アルたちは彼らを見捨てなかった。


 相談に乗り、元気づける。

 それは、同じ若手としてまだ下の序列にいたレスターには出来なかったことで、おそらく今のレスターでも出来ないことなのだろう。

 そして、彼らの伸ばした手は、若手だけではなく中堅の層や切磋琢磨する上位の者たちへも伸ばされていた。

 だからこそ、アル=クイントンは楽団の中心人物であり、次期団長と目されていてもまったく不満が出ないのだ。


「辛辣だなぁ……これは、今日の夜にでも子猫ちゃんたちに癒してもらわないと」


「話聞いてた?」


「聞いてるからこそ癒してもらうんだろう?」


 呆れ顔に変わるフィア先輩。

 そこに、管楽器のトップが加わる。


「フィー、上手く調子が出ないからって人に当たるのは良くない。フェルドも気が乗らないのは分かるが、俺たちは見本なんだ……少し我慢してくれ」


「ごめん」

「分かったよ」


 素直に謝るフィア先輩と、肩をすくめるフェルド先輩。

 しかし、二人を嗜めるレディン先輩さえも今日の演奏には普段のキレがなかった。


 ……やはり、もの足りないな。


 アルの不在。

 それ以外にも、このもの足りなさの原因は存在する。


 管楽器の奏者が並ぶ最前列——ティルナだ。

 彼女の後姿は、普段よりも元気が無いように見える。


 ティルナも、アル程ではないが小さい頃から楽団に所属しているという話だ。

 歳も一歳差で、彼女の方が年上というのがにわかには信じられないが、それだけに付き合いが長く心配なのだろう。

 クイントン音楽団のムードメーカーでもある彼女が大人しい——それが、団人たちが集中できない要因の一助になってしまっていた。


「みんな、すまないね。本当だったら練習を切り上げて調子を戻すことに専念したいのだけれど、公演まで時間が無い。練習を続けよう」


 フェルド先輩の声かけに、団員は一斉に楽器を構える。


 しんと静まり返り、前方の指揮者と視線が重なって。

 レスターは再び音を奏でる……が、やはり音が普段よりも響かない。

 それは誰もが感じているようで、同僚の横顔には明らかな不満が浮かび上がっていた。


 このままではいけない。

 それは分かっていても、レスターにはどうにもできなくて。


「……はやく戻ってきてくれ」


 小さくこぼした呟きは、誰にも聞かれることなく演奏に埋もれていった。

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