第29話 鼻歌




「やっぱりか……」


 日も沈み、真っ暗になったいつもの森の中で。

 切り株に座って空を見ていたアリアに、アルは歩み寄っていった。


 この森では、アリアは外套のフードを被っていない。

 そのせいか、円形にくりぬかれた森の上部から覗く月明りが彼女の白髪を照らし、屋敷に留まることになったことで整えられた髪がキラキラと輝いている。


「失礼」


 チラリと覗かれた錆色の瞳に返答し、彼女の後ろに腰掛ける。

 ちょうど背中合わせに座る形だ。


「昼間は悪かった」


 ずっと胸の中で燻っていた。

 謝って許されるようなものではないし、そもそも謝ることが正解かも分からない。

 それでも、言葉として……形にしておきたかった。


「たぶん、嫌な思いをしたと思う。もし俺だったら嫌だったし……傷ついたと思う。それで、ティルナの言葉がずっと頭にあった」


 アルは持ってきていたケースから楽器を取り出す。


「俺が本当に楽しいと思えるのは演奏だからさ。こんなことしか出来ないけど」


 座りながら弓を構え、軽く音を出す。

 調律でもない、ただ確認するための音出し。それだけでも、揺らいだ葉のこすれる音と交わりあって心地いい。

 そうして、短い音を出すのを繰り返して。


「スゥ……」


 息を吸いこんで、アルはこんどこそ演奏を始めた。


「……これは楽団として国々を回ってるときに知った曲で、無理を言って教えてもらったんだ。誰が演奏していたと思う?」


 間延びしていて、単調で、それでいてやけに耳に残る。


「実はこれ、その辺を歩いていた商人が口ずさんでいた鼻歌なんだ。それを曲にするなんて恥ずかしいって断られたけど、それを無理言って曲にさせてもらった」


 この曲を教わったのは、楽団に所属して三年目くらいだったか。


 思い出して、クスリと笑ってしまう。

 この優しくて心地いい歌を、子供が無き叫ぶような強面のオッサンが歌っていたのだからなおさらだ。

 それでもアルはこの歌に惹かれて、怖くて震えながらも教えを請いたら彼は恥ずかしがりながらも最終的には教えてくれた。それで一緒に曲にしてくれたのだ。


 楽しかった思い出。

 それが彼女に届けられるように、アルはその気持ちを曲に載せて演奏を続けていく。


 単調に。

 時に軽快に。

 ゆったりとして。

 最終的には安らぐように。


 楽団の誰にも教えていない。アルだけが演奏出来るとっておきだ。

 それに、この曲は一人で演奏する用に作っていて、複数人で一つを作り上げる楽団の演奏とは合っていない。

 だからこそ、アルはこの曲を彼女に届けたかったのかもしれない。


 全ては後付けの理由だが、それでもアルはその直感が正しいと感じていた。


 孤独だった彼女に寄り添えるように。

 孤独だった彼女が安らげるように。

 そして……孤独ではなくなったのだと伝えるために。


 ふと、アルの周囲に光が灯された。

 赤に、青に、黄色に、緑。

 直接視線をやらなくても分かる——アリアが歌っているのだ。


 赤い光が曲に乗りアルの膝に飛び乗って、トカゲの造形を結ぶ。

 青い光がアルの顔を覗き込んで、人魚の造形を作り出した。

 黄色の光が足元で騒いで、小人たちを生み出して。

 緑の光が頭上を舞って、妖精の像を投影した。


「綺麗だな……」


 何度見ても色褪せない。

 一度魅入られてしまったら抜け出せなくなる——それは、どこで聞いた物語だったか。

 それとも、美の女神とやらを見てしまったら虜になる——そんな物語でもあったか。


 なんにせよ、それは演奏を止めて見入ってしまいそうになるほど綺麗で、アルは無意識に手を止めてしまわないように注意しなければならないという事実だけがあった。


 この曲はそう長くない。

 当たり前だ。元々は鼻歌なのだから。

 そのため、演奏が終わりに近づくと即興で曲の始めと繋げて、半ば無理やりに続けていく。


 聴こえはしないが、二週目に入ればアリアも曲に慣れてくるだろう。

 そうすれば、彼女もこの曲に合わせるのに苦労しなくなるはずだ。


 トカゲに、人魚に、小人に、妖精。

 様々な色が煌めいて、暗い森を照らしてくれる。

 やがて、その光が数を増していき、新たな像を結んでいった。


 赤い光が屈強な男を作り出し。

 青い光が美しい少女の造形を結んで。

 黄色の光が猫の像を投影して。

 緑の光が妙齢な女性を生み出した。


 増えた光の像たちは、思い思いにこのたった二人の演奏を楽しんでいく。


 黄色の猫の上に赤いトカゲが乗って。

 緑の女性と青の人魚が共に歌い。

 青い少女は緑の妖精と戯れて。

 赤い男は黄色い小人と笑い合っていた。


 何にも縛られない自由とはこのことなのだろう。

 余計なことを考えず、ただただ耳に届いている音を楽しむ。

 そして、無邪気に楽しんでくれる精霊たちギャラリーがいるならば、アルもまた楽しむことができ、演奏に力が入るというものだ。


 弓を引く角度、弦を抑える場所、抑える指の揺らぎ——様々な音を出す要因はあれど、その全てに感情の影響が宿る。

 悲しければ悲しく、嬉しければ嬉しく……そして、楽しければ楽しく。

 悲しくても、嬉しくても、曲と合っていない感情だったとしても、感情の乗った演奏は乗っていない演奏よりも素晴らしいものではあるが、最高の演奏とは曲と感情が組み合わさった瞬間だ。

 そして今、この森を染めている曲と今のアルの感情はピタリと組み合わさっていた。


 ……止めたくないな。


 そう考えるようになったのは、何週目に到達した時だったか?

 指は疲れているはずなのに、どうしても続けたくなってしまう。

 けれど、明日には練習があって、声は出ていないかもしれないけれどアリアの喉も心配だから。


「…………」


 アルは演奏を止めると、森に響く余韻を楽しんだ。

 そして、空気の揺らぎが消え、淡くなっていく光の像たちが見えなくなった後——


「……………………帰るか」


 アルは立ち上がり、ようやく切り株に座った少女に手を差し出す。

 すると、彼女の手がゆっくりと上がり、やっと触れるような距離感で触れる。


 その刹那、月明りに照らされていた彼女の瞳……そこには再び宿りかけていたはずの諦めの色は欠片も見えなかった。

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