第9話 世界は悪意に満ちている




 ——世界は悪意に満ちている。


 それは炎に焼かれた瓦礫のようで……。

 それは体を無くした人形のようで……。


 炎が照らす鮮血。頬を濡らす鮮血。手を染める鮮血。

 流れ落ちていく血と共に命がこぼれていく。


 泣いても状況は変わらない……。

 泣き喚いても誰の耳にも届かない……。

 泣き叫んでも周囲の怒号にかき消されてしまう……。


 頬の暖かさがすでに冷たくなっていて、命を宿していた人形はガラクタに変わっていた。


 守るといったはずなのに……。

 救うといったはずなのに……。


 恨んでも、憎んでも、憎悪を叫んでも。

 何をしても人の心には響かない。


 行き場を失った怒りは暴走し、目的を失った。

 いや、そもそも目的ではなかったのかもしれない。


 人は、人々は憎しみを向ける理由を探していただけだ。


 抑圧された不満が。

 抑圧さえた憎悪が。


 溜めに溜められたそれは、ただただ炸裂する瞬間を待っていた。

 結局のところ、人形はきっかけにすぎなかった。


 人々が英雄だと、救いだと喚いていた人形は、結局ただの理由言い訳だったのだ。


 だってそうだろう?


 その人形は今、怒号と炎に濡れた街の片隅に打ち捨てられているのだから——






 少女は、音もなく目を覚ます。


 ボロボロの小屋で。

 ボロボロの毛布で。


 体を起こし、ゆっくりとした動作で立ち上がった。


 灰色の毛布を畳み、濃い灰色で染められた部屋の隅に片付ける。

 かつて孤児院にいた少女は、今は一人で暮らしていた。


 復興もだいぶ進んだレインネスの街。

 領主であるレインネス卿も指揮もあり、異例の速度で進んでいる復興ではあるが、それでも滞っている場所は存在する。

 少女が住む場所がまさしくそれだ。


 毛布を片付けたら、黒っぽいパンを齧り、桶に貯めてあった灰色の水でのどを潤す。

 目が覚めた後の半ば恒例となった作業を終えれば、今度は外へ。


 白い日差しに、焦げのような模様のついた自身の小屋。

 そんな寂しい景色には目もくれず、少女は小屋の脇にある小さな畑へと歩を進めた。


 少女の目に映るのは、白と灰と黒が混ざり合った植物だ。

 そのせいで、植物の成長具合を確かめるのは難しい。


 それでもどうにか確認していき、一定の大きさとなった実を採取すると籠へと入れていった。

 ただし、これは少女自身が食べる為のものではなかった。

 生きていくには金が必要不可欠だ。

 それは、最低限の暮らしをしている少女とて例外ではない。


 少女は籠に集めた実を残りの水で洗うと、ボロボロの外套を身にまとって街の中心へと歩き出した。




「——全部でこれくらいかね」


 差し出された硬貨を受け取り、少女は小さく会釈を返す。

 チャリンと手の中で音を鳴らす銅貨。これも見える色は濃い灰色だ。


 本来は銅本来の色をしているのだろう。

 けれど、いつからか見える景色は色を亡くしてしまった。


 この銅貨も。

 この腕も。

 会釈した際に外套からこぼれてしまったこの一房の髪さえ。


 今や、どんな色をしていたのかも上手く思い出せない。


「……取引が終わったんだから、さっさと行ってくれるかい?」


 かけられた声に視線を上げる。


「いや、あんた自身が嫌だってわけじゃないんだ……でも、分かるだろう? あんたを見てると……」


 言い淀み、視線を逸らす店主。


 その灰色の目に宿る感情は何だろうか?

 困惑?

 後悔?

 それとも嫌悪?


 ……どうでもいい。


 少女は銅貨をしまうと、店主に背を向けて歩き始める。

 街の中央から、定期的に通っている森へ。


 森自体が領主邸からあまり離れていないこともあり、進むごとに街は活気づき、人が増えていく。

 当然、少女のような身なりをした人も数を減らしていくが、気にしない。

 全ての人が、少女を避けていくからだ。


 こんな身なりでは仕方がないと思われるかもしれないが——違う。


 これは停滞だ。

 過去の悲劇から脱却し、未来へと歩み始めたレインネスの街。

 対照的に、少女の時はあの時から進んでいなかった。


 街から森へ。


 灰色の草木の合間を進み、たどり着いたのは森の中央。

 鬱蒼とした木々がここだけは円形に開いており、中心には大きな切り株がポツンと植わっている。


 かつて、この切り株が切り倒される前。

 天高くそびえていた大樹を中心に、精霊たちが踊っていたそうだ。

 しかし、今ではそんな面影は微塵も存在しない。


 切り株へと足を進め、上る。

 少しだけ高くなった視点からは、開けた広場がよく見えた。

 しかし、見えるのは一面の灰色。それがどれだけ虚しいことか。


 その虚しさを払拭するように、少女は空を見上げ唇を動かす。


「—————————」


 音はない。

 声は、色と共に失くしてしまった。


 だけど、少女は歌う。

 それが、それだけが、少女に出来る唯一の事であるから。


 しんと静まり返った森に響かぬ——少女の声。

 やがて、黒い森から光が漂い、少女の周りに集まってきた。


 赤、青、黄、緑。

 一つ一つは小さな光が、集い、形を成していく。


 赤い光の粒が這って、トカゲと成った。

 青い光の粒が泳いで、人魚と成った。

 黄色の光の粒が乱れて、小人と成った。

 緑の光の粒が待って、妖精と成った。


 この光だけが、色を亡くしてしまった世界で少女が認識することが出来る色だ。


 だから、少女は歌う。

 この時間だけが、少女を過去に繋ぎ止めてくれるから。


 声は出ないのに、歌って。

 感動はないのに、歌って。


 ただただ、歌って。

 少女は、かつての光景を幻視して歌った。


 母が笑っていた……はずだ。

 すでに記憶に残っているのは、白と黒と灰に塗りつぶされた人の顔だけだ

 けれど、その光景はすぐに終わりを迎える。


 笑みは溶けて虚ろに変わり、怒号が街を揺らした。

 人々は武器を取り、怨嗟を叫んだ。


 いくら停滞を願っても、記憶の中ですら時間は歩みを止めてくれない。

 やがて空は黒さを増した頃、少女は口を閉ざし、光の消えた劇場を後にする。


 そして、帰路につく街の途中で。


「やっつけろ!」


 どこからか飛んできた小石が、少女のこめかみに直撃した。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る