第一章 ~『振る舞われたカレー』~
隼人の自宅は駅からそう遠くない位置にあるタワーマンションだ。大学生には不相応な住居は両親が用意してくれたもので、入学と同時に住み始めた新居でもある。
「何度帰ってきても自分の家だと思えないな」
ホテルのようなエントランスを抜けて、エレベーターで最上階まで登る。廊下の突き当りにある角部屋の扉を開くと、若い女性の声が出迎えてくれる。
「お帰りなさい。夕飯できているわよ」
台所で料理をしていたのは従姉の夜月である。エプロン姿と漂うスパイスの匂いから夕飯はカレーで間違いない。
「今日は隼人の好物よ。嬉しいでしょ?」
「いつもありがとな。でも忙しいのに無理しなくてもいいんだぞ」
「無理なんてしてないわよ。私の趣味が料理なことを隼人も知っているでしょ?」
「もちろん知っているが……」
「なら遠慮しないで。私たちは家族なんだから」
「…………」
夜月と一緒に暮らすようになったのは、大学入学と同時だ。発端は彼の両親が仕事へ集中するため、帰宅を諦めたことに由来する。
隼人の父親は医者で、母親は経営者だ。子供の頃はどちらも多忙ながら家族の時間を確保していたが、エリスが病に倒れてからは状況が変化した。
珍しい病気のため治療費が高額だったのだ。ワークライフバランスを重視して働いていてはとても払えるような金額ではない。
そのため彼の両親は仕事一筋に生きることに決めた。実家を売り払い、マンションを隼人に与えてからはずっと仕事場で寝泊まりしている。
ただ過保護な両親は隼人が一人暮らしできるのかと心配した。その不安を解消すべく、同じ大学に就職することが決まっていた夜月に保護者役をお願いしたのだ。彼女はその役割を受け入れ、今に至るというわけだ。
「食器を並べるから、椅子に座って待っていてね」
「料理を作ってもらったんだ。準備くらいは俺が……」
「だーめっ。料理はね、準備も含めて一つの完成品なんだから。途中で投げ出したら、食材のまま食卓に出すのと変わらないの」
「食材のままとは違うだろ……」
「とにかく。座ったままでいいから」
「なら甘えるが……」
「うん。それでこそ普通の男子大学生よ。家族の手伝いをする男の子なんて、フィクションの世界の住人か、ツチノコくらいに珍しいんだから」
夜月は本当の家族以上に家族であろうと振舞う。その努力が伝わり、なんだか無性に嬉しくなった。
「う~っ、食器に手が……」
戸棚の上に手を伸ばすが、背の低い夜月では届きそうにない。
「俺が取ろうか?」
「待って、もう少し頑張るから……」
「諦めは早い方が賢明だぞ」
「もうちょっとなのにぃ……こういう時、低身長が恨めしく思えてくるわね。でも、こういう時のために便利な道具を用意してあるのよ」
そう口にして運んできたのは、折り畳み式の台座だった。
夜月は台座に乗ると、棚から皿を取り出す。白い器にカレーとライスをよそい、机の上に並べる。正面に置かれたことでスパイスの香りが強くなり、食欲をそそった。
「美味しいな」
「さすが私でしょ」
「自画自賛かよ」
「客観的な事実よ」
「まぁ、プロ顔負けどころか、プロの料理人より旨いしな」
「でしょ。この料理が毎日食べられることを私に感謝するのね」
「……感謝しているさ。いつもありがとな」
「そう素直に返されると照れるわね」
気恥ずかしさで夜月は目を背ける。頬もわずかに赤い。
「やはり美味いな……俺も料理の勉強しようかな」
「料理よりも先に大学の勉強を頑張りなさい」
「それを言われると弱いな……だけどさ、俺が料理できれば、月ちゃんの負担が軽くなるだろ?」
「ならないわよ。むしろ包丁で手を切らないかと心配で、心労が溜まっちゃうわ。それに私、人に尽くすのが好きなの。隼人に料理を作るのも娯楽の一環なのよ」
「……月ちゃんってさ、彼氏ができたらすごく依存しそうだよね」
「できたらきっとそうなるわね」
「作らないのか? モテるんだろ?」
「言い寄ってくる人は多いわね。でも私、外見にだけ惹かれてくる男性って嫌いなの」
「外見だけってこともないだろ。月ちゃんは性格も優しいじゃないか」
「……でもね、性格も外見ありきの話なのよ。本当の意味で外見を気にしない男性なんて、私の知る限りでは一人だけよ」
その一人が誰かは口にせず、夜月は悲しげに瞼を伏せる。過去になにかあったのかもしれないが訊ねる勇気はない。
「とにかく私は恋愛に興味がないの。それに手のかかる従弟を抱えていますから。恋人を作るのは当分先の話ね」
「……月ちゃんがそれでいいなら俺から言うことは何もないよ」
夜月に幸せになって欲しいと願いながら、銀のスプーンで掬ったカレーをゴクリと飲み込む。心地よい辛味が口の中いっぱいに広がり、お腹も膨れていた。
夜月も食べ終わったのか、食器を片付け始めた。
「これから仕事か?」
「今日はオフよ。久しぶりのお休みね」
「新刊が発売したばかりだもんな」
「あら、知っていたのね」
「エリスと一緒に書店に行ったからな」
「久しぶりのデートよね? 関係性は進んだ?」
「進めなくても、エリスとは良好な関係だ」
「ならまだ告白してないのね。さっさとすればいいのに……」
「駄目だ」
「どうしてよ?」
「もし振られたら顔を合わせるのが気まずくなる。いつ命を落とすか分からないんだ。少しでも長く一緒に過ごすために、俺は気持ちを伝えないと決めたんだ」
「どうせ両思いなのに?」
「物事に絶対はない」
「臆病者……」
「何とでも言え。俺とエリスは死ぬまで幼馴染だ」
恋人になれば楽しいことも増えるだろう。だがエリスが命を落とす瞬間、傍にい続けられるなら幼馴染のままで構わない。そんな彼の回答に納得できなかったのか、夜月は頬を膨らませるのだった。
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