急転の世界 編
Death+21. 死神の誘惑
更科の家をあわてて飛び出したその後は、有事に一回死んだもののオレの家まで命からがら帰ってきた。
フォールが背中からオレを降ろし、片手でひょいと雪乃のチャリを元あった位置に戻したあとで、オレは念のためチャリの様子を見に行く。無茶な使い方したからか、心なしかタイヤのゴムが大幅にすり減っちまってる。
こっそり新しいのを買ってやらねえとな。ワイヤー式の錠をつけてトーラスに鍵を閉めてもらいながら、オレは一抹の罪悪感とともにそんな事を考えながら、ふとさっきより目の利く空を見上げた。
思った以上に大冒険をしていたらしい。気付けば日の出の時間も迫ってきたようで、暗く塗りつぶされていたような夜闇はもう、深い紺色に染まる頭上から白んだ群青の山裾にかけて柔らかいグラデーションを作っていた。
もうこんな時間か。オレは家族、特に起床の早い母親を起こさないよう静かにドアノブを回して土間へと踏み込み、音を立てないよう細心の注意を払って自室まで戻っていった。
「ただいま~っ!や、マジつかれたね~……」
「ホントだぜ。一日でいろんな事がありすぎた……」
「眠るのか、幸長?ではこちらに寄れ」
疲れ果てて布団に潜り込もうとしたオレを見留めたフォールが呼び止める。見ればフォールは大きな体を床を埋め尽くすほどの勢いでだらんと寝そべらせていて、浅黒い肌に覆われた筋肉質な自分の身体を指さしているところだった。
「今宵はよく働いたな。褒美に俺の身体を布団にして寝かせてやろう。……走り回った故な、程よく温かいと思うが……♡」
「な~にを、言ってん……」
突拍子もないセリフに、反射的にツッコミを入れようと振り返ったところで、オレは思わず息をのんだ。
目の前に広がるフォールの肉体の、大海原のような質量に圧倒されちまっていた。本当にちょうど人間ひとりが寝転がれてしまいそうで、いっそのこと興味本位で身体を預けてしまいたくなるような強烈な欲動を問答無用で与えてくる。
横に立たれたときは圧倒されるような威容だっていうのに、いざ目線より低く横たられると、また違った印象を受けさせられる。そう、ひとことで言えば、包容力のようなものが。すべてを受け入れてくれそうな巨大な優しさが、今はオレのためだけに開かれているような気がした。
疲れた頭が判断力をにぶらせ、オレは本能のままにフォールのほうに近づいていた。言葉通りその身体全体はじっとり汗ばんでいて、浅黒い肌と相まって艶めかしい光沢を放っている。見事に盛り上がった腹筋に手を触れると「んぅっ♡」といった熱のこもった息を吐き出すのが聞こえた。
硬い筋肉で寝心地はよくないんじゃないかという勝手な印象があったが、オレの触れた手のひらは拍子抜けするほど柔らかい抵抗を伴って沈んでいく。深く落ち着いた呼吸といっしょに上下する横隔膜の生々しい鼓動を感じて、オレの心拍数も呼応するように早くなった。
無駄なく研ぎ澄まされた肉体というものは余分な硬さはなく、むしろしなやかで柔らかいと聞く。その理想形とも呼べそうなフォールの腹が無抵抗にもオレに差し出されているのは一種の優越感みたいなものを覚えさせられるようですらあって。
思考を放棄しながら割れた腹筋を夢中で触っていると、はるか向こうにあるように感じるフォールの顔が、頬を上気した朱に染めながら口を動かして、こんなことをオレに呟いた。
「んっ……♡腹だけで、良いのか……?俺は肉布団なのだから、他のところも好きにすれば良い物を……♡無欲な奴め……♡」
他のところ。オレはとてもじゃないが視界に収まらないフォールの肉体を見回す。いつの間にか普段より軽装になっていて、腰当てやら防具のたぐいはすっかり外され、身につけているものといえばフンドシとサラシくらいなものだった。
筋肉に覆われた長い脚、鎧を身に着けたような腕、そして、腹のすぐ上のほうでそびえ立つ、サラシでギチギチになって隠された馬鹿でかい双丘。
それが今、なぜか、オレの自由にできてしまうらしい。そんな非現実的で蠱惑的なお告げにオレはまんまと引っかかり、あまり深く考えることもなくふらふらと引き寄せられるようにフォールに向かう。
ああ、眠いなあ。こんな柔らかくて温かいんだから、確かに布団で間違いない。ここで寝たら、どれほど気持ちいいことだろう。そうだ、ここで寝るんだ。
疲れ果てた頭のままでふらりとフォールの身体に飛び込もうとした途端、不意に両の腕にむにゅうとした柔らかい別の感覚が舞い込んできた。
「ストーップ!ユッキー誘惑しすぎぃ!これだから油断できないの!」
「お!まえこ。びすぎ?だろ!」
「はっ、トーラス、ルサール!?」
オレの右腕に身体全体を回して抱きついてきたトーラスの肉感的な感触、左腕に触手を巻き付けて身体ごと張り付いてきたルサールの柔らかい感触を同時に受けて、オレはかろうじて気を取り戻した。
頭から突っ込もうとした全身をぴたりと止めて、冷静になる。といっても、フォールの上に寝そべることへの興味が消えたわけじゃないらしい。どうしたものかと考えあぐねていると、
「……ち。もう少しだったと言うのに。お前ら、邪魔立てするか」
「一人占め禁止ぃ~!」
「そー!だそー。だ」
きゃんきゃん吠えだす死神どもの姿を見て、こいつらの本質を思い出す。そういえば、注意しておかなきゃいけないのを忘れていた。
いつだってオレは狙われている。オレが逡巡とともにフォールのそばを離れようとすると、不意に右の耳元でトーラスが甘く囁いた。
「ねぇユッキー。フォールの上で寝るよりさぁ、うちを抱き枕にして寝ちゃわない?絶対ふっかふかだしぃ……♡気持ちいいと思うんだけどなぁ……♡」
至近距離での吐息の混じった声に身体が反射的に跳ねる。トーラスは自分の正しさを証明するように腕に身体をくねらせるように擦り付けて、上目遣いでオレの目を見る。
トーラスがこの上なく柔らかいだなんてことは、悔しいがここ二日で嫌というほど思い知らされている。その言葉はつまるところ、フォールの上でなくてベッドで寝たらトーラスといっしょに寝ることになる、そんな究極の二者択一。
自分の魅力を分かった上でわざとらしく、オレの脳が疲労でうまいこと動かないところを狙いすましたように、本能に働きかけるような小ずるい戦略だ。そんな事はぼんやりした頭でも十分わかっていたが、どうもオレの肉体のほうはそれを拒絶するほどの体力は残っていないらしかった。
もう、トーラスでいいかもな。そんな風に意識を奪われかけたところで、今度は左のほうからあどけない声が聞こえてくる。
「そい!つだく、ならル?サールま。くら、にし。ろ♡ひん!やりし、てる?ぞ♡♡」
反対側からも別の誘惑が舞い込んできて、オレの判断をバグらせる。
どうするんだ、どうすればいい?オレはどうやって寝るのが正解なんだ?そもそも寝たほうがいいのか?
頭がこんがらがって動けない。全部が全部別様の気持ちよさがあるだろうのは間違いない。そんな誘惑は蹴ってひとりで勝手に寝ちまうのがオレの健康上は一番いいんだろうが、困ったことに三方向から追い詰められていたオレはどれかを選ぶしかないんだという錯覚のもとで悩み続けていた。
いよいよもってオレのあまり性能のよくはない脳内回路がショートを起こしかけようとした寸前で、また別の声が聞こえてきた。
「───お楽しみのとこ悪いが、さっそく召集ダ。行くぜ、お前ラ」
カースのあくまで冷静な言葉が聞こえるか聞こえないかという内に、オレを取り囲んでいた死神三人が、不意にすっ、とオレから離れた。
「……え~、早いなぁ。いいトコだったのに……」
「おたの!しみ、はこ。れから?だ」
「マァ、マァ。帰ってからいくらでも遊べるゼ」
「それもそっか!」
「託宣も久方振りだな。近年は余り無かったのではないか?」
至極名残おしげな声を上げたトーラスを皮切りに、死神たちが口々に言葉を交わす。
「ううっ、せっかくユッキーと寝られると思ったのにぃ……慰めて……」
「……どっか行くのか、お前ら?」
「あたっ」
オレはきょとんとしながら、撫でてくれとばかりに差し出されたトーラスの頭に軽くチョップをして、何やら話し合っている死神たちに問いを投げかけた。
カースがオレの言葉を聞き、ちらと目線を合わせてきて、いつもの落ち着いた調子で質問に答える。
「あー、ちょっと冥府に用事がナ。なあに、すぐ終わるだろうサ」
「学校が始まるまでには帰るかんね!」
「起こしてやれるか分からんぞ、一人で起きろよ」
「ねぼすけ!」
「バカにすんない!そういうことならさっさと行け!」
はぁーい、とばかりに、四人の死神たちは一瞬にして目の前から消え失せる。
後に残されたのはウソのような静寂と、窓からのぞく日の出前の空の明るさばかり。
まるでオレだけがぽつんと一人ぼっちになっちまったような部屋の中で、我に返る。
寸止めでもされて、そのまま放置されてるみてえだ。オレは急にバカバカしくなって、ぽりぽり頭をかいてから、どうにも消化不良な胸の高鳴りだけを感じながら、ふうと息を吹いた。
「……やっと一人になれた……」
オレはそう呟いて、もはや懐かしい静けさを噛み締めながら、ベッドに寝転んだ。
Death+0.
轢死 : 5
落死 : 2
溺死 : 1
呪死 : 2
Total : 10
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