Death+18. 悪霊の運命

暗闇の中を、ただ歩いていた。

どこまでも広くて、何もなくて、光のないどこかを、たったひとりで歩いていた。

ここはどこだろう。どこへ行くんだろう。そんな疑問をもやが掛かったみたいな頭でぼんやり考えながら、ただただ手足を動かしていた。

不思議と疲れは感じない。むしろ、気持ちのいい軽さを感じる身体はまるで浮かんでいるみたいで、安心さえするみたいだった。

永遠に続いているみたいな、寂しい場所。暗くて、冷たくて、長い長い夢のような。

足を止めれば、いつでも歩くことは終わらせられそうだった。けれど、それを止めてしまうと、すぐに沈んでいってしまいそうな気がして、なんとなく、歩くのをやめることができなかった。

ここは、あの世なのかな。私はふと、そんな縁起でもないようなことを思いついた。

何も思い出せない。何も聞こえない。何もはっきりしない。目が開いているのか閉じているのかもわからないような感覚の中で、漠然とそんな風に感じた、ただそれだけだったけど。

そんな考えが浮かんできても、不思議と私は、怖くはなかった。

ただでさえ曖昧な意識が、途切れかけているのを感じる。なんだか、眠くなってきちゃった。

駄目、まだ歩いてるのに。ああ、でも、気持ちがいいな。

そうだ、寝ちゃおう。寝て、起きたら、きっとまた一日が始まる。いつもの日常が、いつもの生活が始まるの。

あれ、でも。日常って、なんだろう。私は、どんな生活をしてたっけ。

それよりも、そういえば。

私って、なんだろう。

ああ、眠たいなあ。

……寝ちゃおう。


そうして、意識に蓋をしようとする寸前。

誰かが、私の近くにいるのを感じた。


真っ白くて、薄い青に光る幽霊が、すぐそばに立っていた。

何もない暗い場所の中。ぼうっと光る人の形をしたモヤみたいな身体は、眩しいぐらいの存在感で、いつの間にかそこにいた。

なんで、今まで気づかなかったんだろ。普通はきゃあ、と悲鳴を上げて驚いてしまいそうな恐ろしい姿だったけれど、不思議と私はそれが初めからそこにあったみたいに、当たり前に受け入れていた。

ゆっくりと、幽霊が私の首に手を添える。凍えるほど冷たくて、霧みたいに形のはっきりしない指が喉もとに食い込んでくる。

……苦しい。ただでさえ切れそうな意識が遠のいていく。ゆっくりと力を込める指先からは、いろいろな、言葉にできないほどの強い感情がこもっているみたいだった。

怒り、悲しみ、苦しみ、痛み、ごったがえした悪い感情を詰め込んだような怨念。

身の周りの全部を憎んでいるような、理不尽な暴力に首を絞められながら、それでも私はその幽霊が、なぜだか怖くなかった。

たぶんそれは、私には、その口と目の形をした暗い穴でつくられた顔が、どこか弱々しくて、泣きそうなほど叫びたがっているように見えてしまっていたせいで。


(……可哀想)


どこからか湧いてきたそんな気持ちの中で、私は自分の首が締まっていくのを感じながら、その先にある運命を、静かに受け入れようとしていた。


(私、死ぬんだ……)


すると。

不意に、暗闇の向こうで一瞬だけ、光がまたたくのが見えた。

その点は円になって、円は波になって。見る見るうちに大きくなっていって、空間ごと私と、その幽霊を照らしていく。

息つく間もなくどんどん広がっていく光の中に吸い込まれるように、幽霊は私の首から手を離して、はるか彼方に遠ざかっていってしまう。

私もすぐにまぶしい虹色に飲まれて、思わず、目をつぶった。


──────あったかい。


そんな感覚で、はっ、とわれに返った。

気付くと幽霊は姿を消していて、相変わらず目の前は暗かったけれど、悪い夢から覚めたみたいに、意識はずっとはっきりしていた。

一瞬だけの、暖かくて、安心できて、包み込むような奇跡。それのおかげで、私はもう二度と元に戻れない、あの恐ろしい暗闇から、ちょっとだけ帰ってこられたんだ。

ああ、私はこの感触ひとに覚えがある。

大きくて、力強くて、それでいてぶっきらぼうで、ちょっと不器用で、どこか放っておけなくて。

何もないところで転んでつまづいたり、橋が急に壊れて川に落ちちゃったり、給食で一人だけお腹を壊したり……。修学旅行で迷って、置いてけぼりにされちゃってた事もあったっけ。

近くで見てても、ちょっとどうかと思うぐらい運が悪いけど。

いつでも一生懸命で、ポジティブで、明るくて、芯が通っていて、気さくで……

……私の、好きな人。


十字路の夕焼け、隣で授業を聞く横顔、入学式、空手の大会で勝った笑顔、文化祭、一緒に歩いた帰り道、旅行のどたばたで困っていた顔。

今ならはっきり思い出せる。忘れられるわけがない。

病気で弱った心が、そんな夢みたいな幻を見せてたのかも。

そういえば、喉が渇いちゃったな。まだ重い身体を起こそうとして、まぶたを開けると。


「うわああああああ~~~っ!!」


その人は、本当に、私の前で死にかけていた。


─────────

──────

───


「熱い痛い寒い寒い熱い!!」


人の家だっていうのも忘れて、オレは叫び声と共に身体をくねらせながら悶えていた。

ケツから口まで、焼けた鉄の棒と冷たいツララを同時に貫かれたとでも例えようか、身体の中で得体の知れない何かが激しく、オレの肉体を奪おうとするかのようにのたうち回る。寒気と熱が交互にやってきて、深く身体を蝕んでいく。


「やけに暴れてんナー。邪魔されたからカ?」

「ユッキーファイト!」


オレの死に様にも慣れたか、死神どもが後ろの方でノンキな声を上げているのが聞こえる。

他人事だと思って。心中で吐いたそんな悪態も、内蔵を冷たい手で鷲掴みにされたような驚愕で上塗りされてかき消えちまった。

身体の皮膚のすぐ下で、体内に侵入してきた薄気味の悪い冷気のカタマリが周りにあるオレというもの全部をめちゃくちゃにしようと荒れ狂い、内臓を恨めしく凍らせて、脳を殺していく。

オレのものではない暴風雨のような悪意と恨みと虚しさと不安と絶望と苦悶と嘆きと憂いと鬱と退屈と欲望と狂いと憧れと悔しさと辛さと酷さと執着と嫉妬と怒り、怒り、怒り、怒りの声が激しく打ち鳴らされて鼓膜を通さず心の中で乱反射する。

怒涛のような感情の渦。氾濫した川底のヘドロが決壊の轟音とともに呆気なくふもとの家々を踏み砕いていくように、オレの意識は助けを求める声を上げる間もなく怨念の土石流の中へ飲まれていった。


───

──────

─────────


眼を開けると、そこは暗闇だった。

家具も壁もなく、更科の部屋より暗い。明かりひとつなく、夜より暗い。星ひとつなく、多分、宇宙より暗い。

オレだけを残してぶっつりとくり抜かれたような、寂しく色あせた世界。現実にはありえないすべてが静止した黒が、あたり一面に広がっていた。

いや、正確には、そこで唯一カタチをなしているものが、オレ以外にもうひとつあった。

オレの目の前、体感で距離にすれば1mぐらいの近い位置に、オレよかすこし背丈の低いぐらいの人型の煙が、ぼんやりとした光を放ちながらうつろに浮かんでいた。

肩を落とした気力のない立ち姿、表情のない頭、うなだれた背骨、そして、全身からにじみ出すような、深くおぞましい殺気。

それが更科の部屋の外から感じたあの不快感と丸っきり同じだったから、オレはすぐに確信に至っていた。悪霊はこいつだ。

目の前にいるとその怨念は、まるで質量をもった波折りが殴りかかってくるようにいっそう強く感じられて、全身が総毛立つ。オレはそんな気迫におされて、心構えをする間もなく、先に動いた悪霊の腕に首をきつく締められていた。


「がはっ……!?」


瞳をマネしたみたいな空洞に、オレは厳しく睨みつけられていた。

その奥でないまぜになった全部の悪意が、オレの命をと奪い去ろうとする冷たい不定形の指から伝わってくる。

憎い、憎い、憎い、俺を見ろ、俺を見ろ。俺の無念を知れ。そんなどうしようもなく悲痛なメッセージを、オレを殺すという動作で必死に主張しているみたいで。

それを見ていると、何故かオレの中に、殺されかかってるって言うのに、むくむくとした怒りが膨れ上がって来るような気がした。


「……お前は、全部が憎いんだな」


オレは気付いた。こいつは、あったかもしれないオレの姿なんだ。

不運が続いて、幸せをつかめなくて、ついに人生ぜんぶが悪い方に傾いちまったもしものオレ。

自分が世界で一番不幸だ。それを他人に知らしめたくて、哀れんでほしくて、道連れにしたくて、そんな悲観を死んでまでやっている。

そうじゃないと、自分が生きていた意味がないから。そんな気持ちと、怨念と、悪霊になっちまった理由までもが、手に取るように分かった。


運命ドゥームなんてもんで、理不尽に死んじまったから。他人も同じぐらい不幸にしねえと、気がすまねえんだ」


だからこそ、そんなザマはまるで、鏡写しになった不甲斐ない自分を見ているみたいで。

それが許せなくて、オレはいつの間にか、こんな啖呵を切ったんだ。


「オレは絶対、てめえみてえな奴には、ならねえぞ。げほっ!運が悪かったからって、他人まで不幸にするような弱い奴にはならねえ。オレはそう決めたんだ。そう生きてくって決めたんだ、げほっ!」


ぎりり、と悪霊の力が強まる。オレの声が届いているかどうかなんて知る由もなかったが、ピーチクとうるさい生者の最期の叫びを否定するように喉笛が圧迫されて、声が出づらくなる。

それでもオレは、目の前の何も映し出さない穴ぼこを、オレのどうしても捨てられない、ちっぽけな人生の意味を込めて、と睨み返し。


「オレが、証明してやるよ。お前の人生が不幸でしかありえなかったなんて、間違いだって証明してやる。だから、文句があんなら───」


悲嘆にくれる瞳に向かって、吐き捨てた。


「───お前の運命を、オレによこしてみろよ。それでもオレが幸せなら、てめえだって文句ねえだろ!」


その言葉と共に、すっ、と首に掛かっていた力がゆるんだ。

一気に通り始めた呼吸を感じ、急速に思考が鮮明になる。はあはあと乱れた呼吸と一緒に、オレは目の前の悪霊を見据える。

そいつは呆然としたように、オレを眺めて立ちすくんでいた。品定めをするような、見咎めるような仕草で、三つの穴の空いた顔を空虚に、じいっとオレの足元から頭までを撫でるように動かしたあと。

口のような部分を、下卑た悪辣な笑みを浮かべるように歪ませた、その瞬間。

青白く光を帯びた身体ごと、オレの体の中に入ってきていた。


「~~~ッ!!?」


口、鼻、耳、目玉、オレに侵入できるありとあらゆる隙間から、それこそ掴めない霧みたいになって入ってくる。

そいつは抵抗できないオレを体の内側からいたぶるように転げ回っているようで、想像を絶する激痛が体中に走る。

意識が遠のく。目が見えなくなっていく。消えそうなオレの内側で、せせら笑うような悪霊の、背筋の凍るような声が聞こえた気がした。


『やってみろ』


オレはそんな幻聴に、最後の意地を振り絞って叫んだ。


「あの世で指咥えて見てろ、バカヤロー!オレはお前の分まで、せいぜい幸せに生きてやる!!」


身体の中で、高笑いによく似た絶叫とともに悪霊が消えていくのを感じながら。

前より重くなった身体だけを残して、オレの命はぷつりと途切れた。



Death+1.

轢死 : 4

落死 : 1

溺死 : 1

呪死 : 2

Total : 8

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