ありふれた不幸

@wasabimaiu

ありふれた不幸

 きっかけはもう忘れた。

 暴かれたくない。このまま、早く人生が終わってしまえばいいのに。心底そう思っている。

 食べたものが食べたまま胃の中にあることに苦痛を感じる。そしてその苦痛から逃れるために、全て口から吐き出してしまえる日々は、私の中で常習化している。それは恐らく、普通のことではないはずだ。

 精神がイカれてるとか疲れてるとか、そんなのは知ったこっちゃないので病院には行ったことはない。

 疾患だと名付けられることは案外簡単だ。その道のプロをバカにしているわけではないのだが、必死に悲劇のヒロインぶれば案外サラサラと診断書に書いてくれる気がする。けれど、名前を付けられて解決するものなら、それこそすたこらさっさと私は新患問診票を埋めていくのだろう。名前を付けられたら、そのものになる。仕事は休めるかもしれない。一時的に休んだところで、鬱でもなんでもなく冷静でいられる私がそのまま休みを怠惰に過ごして食って吐くだけで、戻ってくるにしても転職するにしても「名前が付いて休んだ人」というレッテルばかりがバシーンと貼られてしまう。家族にだって白い目で見られるだろう。アンタやっぱりそうだったの、なんて思われて、肩身は削れる一方。そんな環境下で、この疾患みたいな慣習がなくなるか? あまりにもノーだ。私は頭がおかしい。おかしいけれど、それが普通になって、おかしい私は普通の社会に溶け込んでいる。

 おかしさが当たり前の人間にとって、何にも特別なことをしているつもりはないのだ。

 食べる。美味しい。美味しい。苦しい。

 ………………。

 リセットをする。

 その繰り返し。

 多分これは単純な摂食障害なのだろう。と言うと、どんなイメージがあるだろうか。

 トイレの便器に顔を突っ込んでウーウー泣きながら指を喉に突っ込んでベチャベチャ吐き出すようなものか。

 実際は違う。まず、食べ物は須く美味しいと思う。美味しく食べてる。大食い選手権だとかで苦しそうにまずそうに詰め込む人間を見ると、なんだかやるせない気持ちになる。まあそれは、私が全てをリセットしてしまうからかもしれないが。そして問題の本番だが、実際はとても作業めいている。慣れてしまうと立ったまま身体をくの字にして腹部に力を入れるのだ。胃の辺りから内容物が押し出され喉を通り、一気におえっと外に吐き出される。音は最小限。ゆっくり便器に出すからボトリ、くらい。うまくいけば全部を出すのに五分もいらない。生理的な涙は滲むけど、二回くらい続けて水に流してしまえば、さして便器は汚れない。こんなことばかり、器用になった。

 隠れることばかりがうまくなったのだ。

 しかし実際には、隠れられていないのだろう。後述するが、見つかったことはもちろんある。時を経て何事もないように振る舞ってくれる一方で母の目線はたまに耐えきれないくらいに切ない。父の「お前はそんなに食べて、どうしてそんなに細いんだ?」という言葉は能天気なもののようで実は嫌味なのかもしれない。家族は崩壊寸前なのを、なんとか型にはめて、まだ大丈夫ですよと笑顔を貼り付けているようなものだ。ここは深く触れないが、兄の発達障害、父の度重なる借金、そして……娘の摂食障害。母の心労を考えると余計に死にたくなるが、私には死ぬという選択肢はなかった。楽になるのは私かもしれないが、残してきた生活の産物を、社会に登録された名を、痕跡を、全て精算してからでないと私は死ねないのだ。善良な市民然として言うのなら、この世の中に恨みはないから仕事は後腐れなくやめたいし、友達にはラインギフトと共に「アディオス!」ってな感じで先行くぜと一言残したいし、恋人にも楽しかったよ〜なんつって未練をなくしたいし、そして両親に親不孝なんて思われたくないから、「これはもう多様性ということで、各々が死にたい時に死ぬのが望ましいんじゃあないでしょうか」と言い放って、とにかく、さらっとつるっと消えなくてはいけないのだ。家のこととかお金のこととか、それはごめんなさい。私に借金はありませんし貯金は雀の涙ですがなんとか有効活用してください。葬式も入りませんし、なんとか綺麗な形で死ぬか消えるかするので。ああ、骨髄バンクのドナーは保護者のサインがないとできないんだったね。私の名前は書いてあるから、それでなんとかなりませんかね。多分死ぬまでの準備は、意気込んでやる気を出せばあっという間なのかもしれないけど、中々難しい。そこで頭を抱えてしまうほど、死は私にとって救済ではない。いや、救済になるまで私は絶望していなかった。

 いやしかし。このことにおいて絶望したことは何度もある。

 母に見つかった時だった。

 吐瀉物を見られたこともある。部屋に押し入られたこともある。夕食後の、部屋のゴミ箱に詰められた大量の菓子パンの包装紙に指を差されたこともある。その時その時で険悪になれど、母はいつも通りを装った。こんな人間で申し訳ない。本当に、申し訳ない。死にたい。「死にたい」は、わかりやすい「私今こんなに絶望してます」の状態提示だから、実際は死にたいより、消えてしまいたいが近い。生きていく意味は、よくわからない。昔からも、今でも、多分、これからも。

 人には人の乳酸菌があるように、人には人の絶望があるのだ。

 こんなありふれた私の不幸は、「あ〜若い子によくあるやつですね」と鼻で笑われてなんなら食べ物を粗末にすることに対して非難されて「あ、お薬出しておきま〜す」と渡される錠剤。それで、片付けられてしまうのかもしれない。社会に溶け込んでいる私は、その実溶け込めきれていない。けれど、逸脱者というレッテルは、一度貼られてしまえば剥がすことはできないから、必死に逃げている。そして私の人生には煩わしい思考と不安が多すぎて、ダメ人間代表としてこれらからもBダッシュ逃げをしてる。仕事も定時になったらいかに早く退勤をきれるかの戦いなのだ。そうして全て、何かを食べて出すまでの作業をしている間、そう言う思考は一時的に忘れることができる。だから、やめられない。この不幸は、簡単に終わらせることができそうでいて、今日で最後を繰り返してもう五年くらい経った。私の幸せはなんだろう。現に今、両親が健在で大事にされていて、一応職があって、友人や恋人にも恵まれている。今、幸せだ。体型に囚われて食べてしまう自分に怒りを抱き腹を殴り涙を流しながら夜中に走りに行く哀れでたまらない子豚のような若い私は、それはそれで不幸だったが、嘔吐という選択肢を知らない分幸せでもあったのかもしれない。嘔吐を知り、上手に吐けることができなかった私は、走りに行くと言って家を飛び出して、公園のハエが漂う汚い便器に髪の毛を付けないように顔を近づけて夜中、来るかもしれない人に怯えてビチャビチャと顔を汚していた。今でも、とても思い出すにも見るにも耐えないものだ。喉に入るくらいの管を買って、なんとか胃にまで届かないだろうかと管の先を切って細くして、どうしても喉の奥に進めなくて風呂場で泣いていた私。いろんな無様な積み重ねがあって今、すっかり慣れて何事もないですよという顔ですっきりする私は、便器に座るようにも向かい合うことが多くなった私は、一体、人間なのだろうか? 怪物みたいだ。壊れた歯車はきっともう戻らないのだろう。選択肢が生まれたら消すことはできないだろう。嘔吐後は電解質が乱れて寒気と震えに襲われる。全身が脱力して強い眠気が頭を支配する。でも仕事なんて欠勤したことない。カフェインを大量に摂取して、職場では「今日も元気だね」と何も知らない笑顔で言われる。日常。これが日常になってしまった。

 こんなことは、名も知らない誰かの選択肢を生んでしまうだけで、暴かれてはいけないものだと重々承知している。私個人の醜態を暴かれたくない。暴かないでくださいと懇願する日々。早く死なせてください。全てを精算した後で、私の死刑執行ボタンは私が押したい。それでもこうして文字という形に残して吐き出してしまうのは、吐き出すことへの抵抗がぶっ壊れて、我慢ができなくなった私のエゴである。こんな人間もいる。こんな人間が「よくあるやつですね」と括られていいのか。括られたいのか。私の目の前の道はいつでも暗く、後ろには罪悪感が吐瀉物の形をして広がっている。

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