5 特急「あじあ」号の車窓から

 三式中戦車が駆け抜けている公主嶺の大地を、同じく轟音と共に疾走する存在があった。

 丸みを帯びた特徴的な流線型の車体から力強く煙を吐き出し、動輪を勢いよく回転させるパシナ形機関車。

 南満洲鉄道株式会社を代表する、特急「あじあ」号であった。

 満洲の乾いた大地を、あじあ号は時速一〇〇キロを超える速度で驀進していく。濛々たる煙が後方へと流れ去り、軌間一四三五ミリの鉄路の上を北へと進む。

 すでに停車駅である四平街を発し、公主嶺の駅を通過していた。

 朝に始発駅である大連を出発したこのあじあ号は、あと一時間もしない内に満洲国首都・新京の駅へと到着する予定であった。

 大連から新京への所要時間は八時間半。

 内地のあらゆる特急列車を凌ぐ性能を持つパシナ形機関車だからこそ実現出来たダイヤであった。


「満洲国主要地理」

https://kakuyomu.jp/users/MikasaJin/news/16818093078424591893


「……」


 その一等客車の車窓から、一人の男性が雄大な満洲の大地を眺めていた。

 男の名は、山崎元幹もときと言う。

 現在、満鉄副総裁を務める、五十四歳の男である。髪を綺麗に整え、丸眼鏡をかけた面長の風貌には、知性と威厳が兼ね備わっていた。

 東京帝国大学を卒業して一九一六年に満鉄に入社して以来、彼の人生は満鉄と共にあったといっても過言ではない。

 茫々たる大地の彼方へと沈みつつある真っ赤な夕日は、満洲に赴任して以来、山崎が何度も見てきた光景である。内地では決して見られないであろうこの景色は、日本人をこの地に引き付ける魅力の一つだろう。

 このあじあ号も、またそうだ。

 山崎は列車に揺られながら、そう思っていた。内地では東京―下関間を結ぶ弾丸列車計画が開始されていたが、その先鞭を付けたのはこのあじあ号である。そのことを、山崎は満鉄に属する一人として誇りに思っていた。

 だが、山崎が満鉄に入社して以来、満鉄の鉄道経営が常に順風満帆であったわけではない。むしろ、入社以来、山崎にとっても満鉄にとっても、波乱の連続だったといえる。

 満洲国の成立と中東鉄道の買収で、満鉄はようやく鉄道事業に集中する鉄道会社本来の姿に近付きつつあった。

 だが、そうして訪れた安定的な鉄道経営は、日ソ関係の緊張化によって再び暗雲が立ちこめ始めている。


「……また、波乱の時代に戻らねばよいのだがな」


 山崎はぽつりとそう呟いた。

 彼は一九二〇年代から三〇年代にかけて満鉄が遭遇した数々の事件を、社員として見る立場にあった。

 そもそも、今、このあじあ号が走る広漠たる大地に「満洲国」という国家が成立した要因は、一九二〇年代にあったのである。

 もちろん、日本が満洲という地に利権を得ることになった日露戦争以後の時代からその原因を求めることは出来るだろうが、「満洲国」という国家が誕生することになった要因はやはり二〇年代の混迷を極めた東アジア情勢にあるだろう。少なくとも、それ以前の時代は辛亥革命などの混乱が起こりつつも、満蒙の地は日露協約という日露の勢力圏を定めた条約、そして東三省(奉天省、吉林省、黒龍江省)における革命の影響を封じ込めた張作霖らの活躍によって比較的安定していた。

 そうした中国東北部を巡る国際情勢の下で、日本が順調に満蒙権益を拡張してきたのが一九一〇年代であった。

 その最初の事例が、一九一三(大正二)年、中華民国との間に締結された「満蒙五鉄道協約」である。

 協約では、四平街―鄭家屯ていかとん洮南とうなん線、開原―海龍線、長春―洮南線の鉄道財産を担保として日本側資本からの借り入れと日本人技師の雇用による鉄道敷設、将来中国側が洮南―承徳間ならびに海龍―吉林間の鉄道を敷設する際には日本側資本との協議を優先することが定められていた。この内、外務省が最も重要視して東部内蒙古への影響力を確実とするための四平街―鄭家屯―洮南線であった。

 さらに一九一八(大正七)年には、後藤新平外相と駐日公使章宗祥しょうそうしょうとの間で新たに「満蒙四鉄道借款契約」が結ばれた。これによって日本が獲得した鉄道敷設権は開原―海龍―吉林間、長春―洮南間、洮南―熱河間およびこの洮熱線上の一地点から黄海にいたる鉄道の四路線であった。

 このように日本は一九一〇年代、南満洲と東部内蒙古での権益を次々と拡張していったのである。

 しかし、そうした日露間の勢力均衡を崩壊させる原因となったのが、一九一七(大正六)年のロシア革命とそれに続くロマノフ王朝の崩壊であった。

 もともと、日本の満蒙政策にとって最重要課題であったのは、南満洲鉄道の哈爾浜ハルビン延長であった。日本は日露戦争によるポーツマス条約でロシア帝国の権益であった中東鉄道南部支線を手に入れていたのであるが、これは長春までの権益でしかなかった。

 満鉄の哈爾浜延長は、北満洲の中心都市である哈爾浜まで乗り入れることでロシアの勢力範囲にある物資を満鉄が吸収出来るという経済的利益だけでなく、有事の際には哈爾浜までの兵員輸送が可能になるという点でも、日本側にとって重要であった(ロシア帝国の利権であった中東鉄道は広軌のため、標準軌の満鉄は乗り入れが出来ない)。

 この満鉄の哈爾浜延長に現実味が出てきたのは、一九一六(大正五)年の第四次日露協約である。事実上の日露軍事同盟へと発展した第四次日露協約に基づき、日本はロシアに対して武器弾薬を供給する代わりに、東清鉄道南部線の譲渡を持ち掛けたのであった。

 しかし、寺内正毅内閣になって交渉がまとまり、松花江しょうかこう左岸の老焼鍋ろうしょうこうまでの区間が日本へ譲渡されることが決まった直後、ロシアで十一月革命が起こり取り決めそのものが空文化してしまったのだった。

 日本の満蒙政策は、ここで一度、挫折してしまったのである。


「ロシアという国家は、どのような国家体制となろうとも満蒙の地に波乱を起こさずにはいられないようだな」


 自らが入社した頃の満鉄の置かれた状況を回想しながら、山崎は呟く。

 かつての義和団事件や日露戦争、そしてロシア革命。ロシアという国家は、これまで幾度となく満蒙情勢を不安定化させてきた。

 ロシア帝国がソビエト連邦と名を変えてからは、一九二八年に奉ソ戦争が起こっている。

 中華民国、そして張作霖、張学良率いる奉天軍閥もかつては日本にとって満蒙情勢の不安定要素ではあったが、彼らは満洲国の成立と共に中国東北部への影響力を失っていた。

 今、この満蒙の地にとって真に脅威となる国家は、北方のソ連だけなのだ。

 満洲国が建国されて、そろそろ十二年目に突入しようとしている。

 昨一九四二年には、満洲国建国十周年を祝う式典が華々しく催されたばかりであった。

 満鉄自身も、創業以来の悲願であった哈爾浜延長を中東鉄道の買収(一九三五年)と共に成し遂げている。さらに満洲国の成立によって朝鮮の鉄道との接続も実現し、満鉄は朝鮮半島東岸北部の羅津らしん清津せいしん雄基ゆうきの三港の経営権を朝鮮総督府から依託され、日本海航路までもを掌握することになった。

 今や満洲の地に張り巡らされた鉄道路線の総延長は、一万二四九二キロメートルにもなる長大なものとなっている。満蒙の輸送能力強化のために課題となっていた各路線の複線化、停車場や操車場の拡大も順調に行われており、それに伴って満洲国の産業も発展を続けていた。

 そのように満洲国、そして満鉄が次なる十年に向けて躍進を遂げようとしている最中に、満ソ国境情勢、そして日ソ関係は緊迫化しつつあったのである。


「……」


 山崎は、暮れゆく太陽をあじあ号の車窓からじっと見つめていた。

 満洲の大地を茜色に染める太陽が満洲国の落日とならぬよう、彼は祈るより他になかった。


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  あとがき


【山崎元幹】(1889年~1971年)

 史実では、満鉄最後の総裁を務めた人物。

 1916年の満鉄入社以来、1930年代の一時期を除き、常に満鉄中枢にあった満鉄生え抜き。

 松岡洋右が山本条太郎社長の下で副社長を務めていた時代(1927年~1929年)には社長室文書課長、満洲事変時には総務部次長の地位にあった。

 妻の須磨は荒井賢太郎(1863年~1938年。1936年から死去するまで枢密院副議長)の三女で、彼女の兄である静雄は満洲国宮内府次長、さらに須磨の姉であるフヂは倉富勇三郎(1853年~1948年。1926年~1934年まで枢密院議長)の長男・均に嫁いでいる。

 戦後は財団法人満鉄会を創設。

 彼が満鉄時代に作成した史料や蔵書は国立国会図書館憲政資料室、小田原市立図書館、アジア経済研究所図書館、早稲田大学中央図書館に分散して所蔵されている。

 このうち、アジ経所蔵の山崎元幹関係文書は2011年、岩波書店より『史料 満鉄と満洲事変 山崎元幹文書』(上下)として刊行された。

 また、山崎は長年にわたって日記をつけ続けており、その所在も確認されているが、遺言によって現在も非公開のままとなっている。

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