4 公主嶺の鉄獅子
満洲国首都・新京(長春)の南、
数多の履帯が地面を叩き、発動機の轟音が大気を震わせている。
大日本帝国陸軍が「鉄獅子」、あるいは「鉄牛」と呼ぶ戦車の群れが、公主嶺の丘陵地帯を圧するように進んでいた。
「うちの連中たちも、随分と新型戦車に慣れてきたようだな」
演習地の一角にある丘の天幕から眼下の光景を見下ろしながら、重見
彼は一九四三年十月一日付を以て少将昇進の上、戦車第三旅団長に就任していた。今、彼の目の前で土煙を上げる戦車たちは、すべて戦車第三旅団に所属する車両であった。
「満ソ国境情勢もきな臭くなっておりますからな。現下情勢において、機甲部隊の増強は一日を争う事項でしょう」
重見少将の言葉に応じたのは、同じく演習を見守っている池田末男中佐であった。
彼は四平陸軍戦車学校の教官として、戦車第三旅団の演習を視察に来ていた。重見も、
公主嶺、そして四平街は、陸軍機甲部隊の研究・教育を行う場として機能していたのである。
「ああ、部下たちも、日々の訓練に一層身を入れている。頼もしい限りだ。ただ、心配であるのはどこまで、各戦車師団、独立混成旅団に新型戦車が行き渡るか、だ」
多少の憂いを帯びた重見の視線の先には、新型戦車と呼ばれる三式中戦車チヌがあった。
三式中戦車は、一九四三年、つまり皇紀二六〇三年に陸軍が制式採用した最新鋭戦車であった。
六十五口径七十五ミリ砲を装備したこの戦車は、自重三十七トン、砲塔前面装甲および車体前面装甲七十五ミリ、発動機は三菱がライセンス生産したイギリスのロールスロイス・ミーティアで六〇〇馬力、最高時速四十五キロと、他の列強諸国の戦車と比較しても遜色のない性能を誇っている。
ただし問題は、三式中戦車は今年になって量産が開始されたばかりであり、四つある戦車師団、あるいは諸兵科連合の機械化部隊として編制されている独立混成旅団のすべてに行き渡るには、今しばらくの時間がかかりそうなことであった。
それまでは、二〇トン級戦車である五十七ミリ砲搭載の一式中戦車チヘ、あるいはそれよりも旧式な九七式中戦車チハに頼らざるを得ない。
「一式中戦車はともかく、九七式ではT34なるソ連の新鋭戦車に対抗出来ますまい。まあ、一式でもかなり厳しい部分はあるでしょうが」
「うむ……」
池田の指摘に、重見は渋面を浮かべる。
日本の戦車開発、そして陸軍の機甲化は、第一次世界大戦にまで遡る。欧州戦線に派遣された日本陸軍は、英仏が遠征のため財政負担や船舶の手配などを引き受けてくれた上、主にフランス軍から野砲、戦車、航空機の供与を受けていた(これはヨーロッパに派兵されたアメリカ軍も同じ)。
ここから、日本独自の戦車開発が開始された。
また、第一次世界大戦への本格参戦は、日本の工業化を一層押し進める結果ももたらした。総力戦となった第一次世界大戦では、連合国陣営として本格参戦を果たした日本の産業構造にも変化を及ぼしていたのである。
特に第一次世界大戦を期に一気に成長を遂げたのは自動車産業であり、大戦中より英仏の自動車会社などからの技術支援を受け、戦地となっている自国に代わる自動車生産地となることを英仏から期待されていた。
しかしながら一、二年で日本の企業が欧米並みの信頼性を持つ自動車を生産出来るはずもなく、故障頻発の粗悪な軍用自動車を輸出して、英仏を嘆かせた。とはいえ、第一次世界大戦の趨勢はアメリカの参戦まで不透明な部分もあり、英仏はより一層の技術供与を日本に対して行っていた。
日本の自動車産業が本格的に勃興するのは大戦終結後であり、それは必然的に軍需産業と結び付く結果をもたらした。
陸軍は次なる総力戦に備えて国内産業の振興、重工業化を押し進めようとし、農林省が推進しようとしていた農業用トラクター国産化政策(その代表的な企業が小松製作所)に陸軍も関与するなど、様々な産業振興政策に関わることとなった。
不幸中の幸いというべきか、第一次世界大戦で大損害を受けた陸軍は、戦後の軍縮気運の中で再編を行う必要性を減じており、そのために投じるはずだった予算を兵器開発や装備の近代化、産業振興政策に回すことが出来たのである。
日本の戦車開発や陸軍部隊の機械化は、こうした陸軍内部の事情や国内の産業構造の変化の中で進められていったのである。
しかし、日本独自の戦車開発は、最初から難航した。当初、戦車開発の参考にしようとしていたのはフランスのルノーFT17などルノー系統の戦車であり、この戦車は以降、列強各国で開発される戦車の基本形となってはいたものの、日本陸軍内部で戦車の運用方法について意見が分かれたのである。
そもそも、第一次世界大戦における戦車とは、無数の砲弾によって鋤き返された不整地を走破し、敵の塹壕や機関銃陣地を突破するために開発された兵器である。
そのため必然的に、歩兵の支援兵器としての戦車を開発すべしという主張が陸軍内部で生まれた。
一方、第一次世界大戦におけるイギリスの戦車軍団参謀長ジョン・フレデリック・チャールズ・フラーのように、戦車を騎兵に代わる機動力ある兵器として開発すべしという声も存在していた。
実際、一九一八年七月のソアッソンの戦いでは、フランス軍戦車部隊が歩兵部隊に先行してドイツ軍に突撃し、急襲を受けたドイツ軍を大混乱に陥らせている。また、英独間では史上初となる戦車戦も発生していた。
このことから、次世代の戦車は機動力と対戦車能力を持たせるべきとの意見もあったのである。要するに、急襲してきた敵戦車を撃破するためには砲陣地の転換では間に合わず、同じく機動力ある戦車で迎撃するしかないという発想である。
こうした戦車を巡る日本陸軍内部での論争をさらに複雑にしたのは、日本国内や主戦場と想定された満洲のインフラ状態であった。
まず、重量のある戦車を生産したとして、それを港からクレーンで船に積載出来るのか。そして海を越えてその戦車を上陸させる際、その地の港湾は整備されているのか。そして国内や満洲の橋梁などは戦車の通過に耐えられるだけの強度を持っているのか。
そうしたインフラの整備状況による制約も、日本の戦車開発を混迷に陥れる要因となった(もっとも、こうした問題は国内のインフラ整備を加速させ、自動車産業の勃興と合せて第一次世界大戦後の不況からいち早く脱出する契機ともなったが)。
一九三一(昭和六)年の満洲事変と翌三二(昭和七)年の上海事変は、日本戦車部隊の初陣となったが、戦車の開発方針を巡る論争に答えを導き出すほどの戦訓は得られなかった。
こうした事態が一変したのが、一九三九(昭和十四)年のノモンハン事件である。この事件では、旧来の八九式中戦車や九五式軽戦車の他、日本陸軍の最新鋭戦車、九七式中戦車チハも投入された。
九七式中戦車はそれまでの日本の戦車開発の混迷を象徴するかのように、歩兵直協用の短砲身五十七ミリ砲を搭載した甲型と、対戦車戦を想定した四十八口径四十七ミリ砲を搭載した乙型の二種類が存在していた。
しかし、ソ連の投入してきたT26軽戦車やBT5快速戦車に対して、八九式や九五式、そして九七式甲型では十分な優位を確立することが出来ず、九七式乙型のみがソ連戦車に対抗可能な戦車であることが証明される結果となった。八九式、九五式、九七式甲型は、主砲の貫通能力においてソ連軍戦車に劣っていたのである(それでも日本軍戦車部隊は善戦していたが、それは主にソ連軍戦車の装甲の薄さに助けられた部分が大きい)。
ここから日本陸軍は本格的な対戦車戦闘を想定した機動力と砲力を兼ね備えた次期戦車の開発に取り組んでいくこととなる。
そうして完成したのが五十七ミリ砲を搭載した一式中戦車チヘであった。この戦車はその名の通り皇紀二六〇一(西暦一九四一)年に制式採用された戦車であり、当時の英独の戦車の主砲がおおむね三〇ミリから五〇ミリ程度であったことを考えると、十分な性能を持つ戦車であると言えた。
しかし、ソ連がノモンハン事件やスペイン内戦、そして冬戦争での戦訓から強力な新型戦車を開発しているという情報が伝えられると、ソ連を第一の仮想敵国とする陸軍はさらなる新型戦車の開発に取りかかった。
そうして完成したのが三式中戦車チヌであり、対ソ戦という観点から見れば、この三式中戦車こそが陸軍の本命であると言えた。
しかし、数を揃えなければソ連軍に対抗することは難しいのも、また事実であった。
「とはいえ、我らは日々の訓練による練度向上に努めることに注力する以外にないでしょう」
池田は重見を労るように、そう言った。
「三式の数が揃うのが先か、ソ連が攻めてくるのが先か。まったく、戦車に乗り込んで敵を撃つことだけを考えていればよかった頃が懐かしい」
重見は、苦笑を浮かべてそうぼやいた。
一九四三年十一月、亜寒帯に属する長春周辺ではすでに厳しい冬を感じさせる気候となっていた。日中の気温が十度を下回る日が続き、人々の吐く息は白くなっている。
そうした中で十月五日、ソ連は満ソ国境を隔てる黒龍江に浮かぶ光風島に突如、上陸してきたのである。日ソ中立条約締結以来、収まっていた国境紛争が、再燃しようとしていた。
満洲国側は直ちにソ連側に抗議を行い、撤兵を求めたが、ソ連側が応じる気配はなかった。
それどころか十一月七日、ソ連の革命記念日においてソ連首相スターリンは日本を名指しで「侵略国」であると批難する演説すら行っていた。
第一次世界大戦での欧州派兵、ロシア革命の干渉のために行ったシベリア出兵、そして満洲事変は、日本が侵略国であるとの現れであると主張したのである。演説の中では、日本では偽書扱いされている「田中上奏文」までが言及されていた。
もちろん、日本側はソ連外相ヴァチェスラフ・モロトフに対してスターリン演説に対する抗議を行ったが、モロトフはあくまでも歴史的評論を行ったに過ぎず、現在の日ソ関係を論じたものではないと日本の抗議をはね除けた。
日ソ関係は今や、満洲に訪れようとする冬と同様、急速に冷え込みつつあったのである。
―――――――――――――――――――――――――――――――――――――
あとがき
作中の三式中戦車は史実の三式中戦車ではなく、日本の五式中戦車、ドイツのⅣ号戦車、Ⅴ号戦車パンター、ソ連のT34などを足して割ったような戦車であるとご想像下さい。
外見は、五式中戦車のようなものを想定しております。
【重見伊三雄】(1884年~1945年)
史実では、戦車第三旅団長としてルソン島の戦いに参加し、戦死した人物。
陸士第27期を卒業後、1926年、創設されたばかりの戦車第一隊副官に任命されたのを皮切りに歩兵科出身ながら戦車畑を歩んでいく。1932年の第一次上海事変では、八九式中戦車5輌、ルノー軽戦車10輌で編成された独立戦車第二中隊長として初陣を果たす。
1945年1月、ルソン島リンガエン湾に上陸した米軍と激闘を繰り広げた末、27日、戦死。
戦死後、中将に昇進。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます