3 ワシントン体制の蹉跌

 一九〇七(明治四〇)年に成立した帝国国防方針でアメリカを仮想敵国と定めた日本海軍は、国防方針に付属する国防所要兵力において、いわゆる八八艦隊の建造を目指していた。

 この八八艦隊計画は、一九一七(大正六)年に、まず八四艦隊案として帝国議会で予算を獲得していた。

 こうした中で、第一次世界大戦後の軍縮の気運が、新たな日米対立の要因を生み出すこととなったのである。

 とはいえ、アメリカのハーディング大統領によるワシントン会議の提案は、ある意味で日本の財政を破綻から救うことには成功した。この提案のあった一九二一(大正十)年における日本の国家予算は十五億九一二八万円で、その内三十一・六パーセントに当たる六億二一二万円が海軍予算、陸軍予算も合せれば四十八・一パーセントが軍事費に充てられるという状況だったのである。

 第一次世界大戦の欧州戦線で大きな損害を受けた陸軍はその再編の最中であり、さらには大戦を直接経験したことによる陸軍の近代化も急務であった。このため、陸海軍の予算はこの後も増大していくことが予想されていた。

 ワシントン会議は、その意味において軍事支出に歯止めをかける切っ掛けとなったのである。

 しかし一方で、国防を担う者たちの胸中は複雑であった。

 軍縮会議の開催を受けて、海軍は八八艦隊計画には固執しない姿勢を見せる一方、戦艦の保有比率は対米七割を最低条件としていたのである。

 だが会議が始まって早々、アメリカ首席全権代表であるチャールズ・ヒューズ国務長官は、米英日の主力艦保有比率を五・五・三とする提案を持ち出してきた。これに対して日本海軍首席随員であった加藤寛治ひろはる中将が対米七割を主張して反発するなど、ワシントン会議は最初から波乱の幕開けとなった。

 この会議におけるイギリスの立場は複雑であった。

 すでに日英同盟は、第一次世界大戦の勝利によってその価値を失いつつあった。また、第一次世界大戦における戦費を確保するため、イギリスはアメリカから四十一億ドルもの借款を受けていた。戦争によってドイツやロシアに持っていた資産を失ったこともあり、イギリスは債権国から債務国へと転落して、その国際的な立場を弱めていたのである。

 だからこそ、イギリスにとって戦後の対米協調外交は必然であった。

 しかし一方で、イギリスは大戦を通じて日本との結びつきを強め過ぎてもいた。日本の満洲権益に保障を与えてしまったこともそうであったが、欧州派兵の見返りとしてドイツ権益の一部を日本に継承させるという密約が、日英仏の間で結ばれていたのである。

 特に重要だったのは、ドイツ銀行が株式の二十五パーセントを保有していたトルコ石油の利権を、日本に分け与えたことであった。

 トルコ石油は、一九〇八年のペルシャ湾油田発見を受けて、メソポタミア地域(主にイラク)での石油開発を目的に設立された会社であり、株式の五十パーセントをアングロ・ペルシア(英)が保有し、残りの二十五パーセントずつをシェル・グループ(英)とドイツ銀行が保有していた。

 このドイツ銀行の株式保有分を、フランスが十五パーセント、日本が十パーセント、継承していたのである。

 当時、アメリカは世界の三分の二の産油量を誇り、第一次世界大戦中は連合国の消費する石油の四分の一をスタンダード・グループのニュージャージー・スタンダード一社で賄っていたほどであった。しかし、アメリカは東半球に石油利権を持っていなかった。

 中東の石油利権に介入したいアメリカは、アメリカ企業の事業への参入を許さない国に対してはアメリカ国内での採掘権を認めないとする「鉱物法」を成立させて、イギリスの石油産業への圧力を強めていた。

 このためイギリスは、アメリカと協調する必要性と、アメリカを牽制する必要性との間で、板挟みとなっていたのである。

 ワシントン会議では、共同して日本の保有比率を六割に押さえつけようとするアメリカ側の働きかけに対し、イギリスは終始、日米に対し中立的な立場を維持しようと腐心していた。

 中国の利権を軍事力で脅かしかねない日本はイギリスにとって警戒の対象となりつつあった一方、第一次世界大戦では結局、満洲利権の維持のみに努めた日本の抑制的な態度をイギリスは評価してもいた。

 さらに、アメリカ海軍に日本海軍を牽制させる一方、日本海軍にもアメリカ艦隊を牽制してもらい、アメリカの中国市場への介入を抑制したいという思惑もあった。

 結果、日本が対米七割を主張していることもあり(加藤友三郎は六割で妥協する肚ではあったものの)、イギリスは日米に対して十六インチ砲搭載戦艦を三ヶ国それぞれが保有することを提案した。

 アメリカ側としては会議においてイギリスと完全な外交的連帯がとれなかったこともあり、また会議開催時点で十六インチ砲搭載戦艦をメリーランドしか竣工させられていなかったこともあり、不満はありつつもイギリスの提案を受け入れることとなった。

 結果、日本は加賀、土佐、長門、陸奥の四隻、アメリカがメリーランド、コロラド、ウェストバージニアの三隻、イギリスが新たにネルソン、ロドネーの二隻を保有し、日本が三八万三二五〇トン、英米が五二万五〇〇〇トンという割合で交渉は妥結することとなった。

 比率に直せば、日本は英米の七十二・五パーセントを確保するという、望外とも言える結果を手にしたのである。

 ただし、アメリカ側は流石にこれでは日本の海軍戦力が過剰になりすぎると警戒し、太平洋防備制限案を会議の場に持ち込んだ。

 これは本来、加藤友三郎が対米六割で妥協する代わりに英米に認めさせようとしていたものであり、日本の外交暗号を解読していたアメリカは、逆にこれを日本側に認めさせようとしたのである。

 太平洋防備制限案は、各国の本土や付属する島嶼部以外の軍事施設の現状維持を謳ったものであり、日本では千島列島、小笠原諸島、奄美大島、琉球諸島、台湾、澎湖諸島がその対象となる(ヴェルサイユ条約とのその後の国際連盟で日本の委任統治領となった南洋群島は、そもそも連盟規約で軍事基地化が禁止されている)。

 アメリカも当然ながらアリューシャン列島、グアム、フィリピンなどがその対象となるが、アメリカはフィリピンにはハワイ、パナマ運河地帯と同じく例外とするよう、強硬に求めた。

 こうしたアメリカ側の姿勢に対し、すでに戦艦が土佐まで保有することを認められた日本は大きな反対をしなかった。

 対米七割を達成して満足していたといえばそれまでであるが、本土の軍事基地には制限を設けられていないのだから、むしろ本土近海で艦隊決戦に臨める日本側が有利と、加藤友三郎も加藤寛治も考えていたのである。

 これは、第一次世界大戦の戦訓から、遠隔地に大量の陸軍部隊を輸送することがいかに困難であるかを実感しており、対米七割の艦艇保有比率を達成しているのならばアメリカ本土からフィリピンまでの長大な航路を日本はいつでも遮断出来るだろう、という冷静な判断に基づくものでもあった。

 一方のイギリスは、シンガポールが防備制限の範囲から除外されていることに満足する一方で、フィリピンの軍事基地化は自国の中国市場に対するアメリカの軍事的圧力の増大をもたらすものとして警戒していたが、結局は対米協調を優先して妥協するしかなかった。

 こうして、ある意味で日本が一番会議の結果に満足していた一方、アメリカとイギリスはそれぞれにしこりを残して、ワシントン海軍軍縮条約は締結されることとなったのである。

 そしてこの日本の対米保有比率七十二・五パーセントという数値は、その後もアメリカ国内で日本脅威論の根拠とされていく要因となった。

 すでに第一次世界大戦時から高まりつつあった日本人への差別感情も同様であり、日本人移民の多かったカリフォルニア州出身の下院議員を中心に「帰化不能外国人」の移民禁止を求める動きを強めた(「帰化不能外国人」とは、主に日本人のことを指す)。

 結果、一九二四年、いわゆる「排日移民法」が制定され、日米対立の新たな要因を生み出すことになる。

 ワシントン会議では中国の領土保全や門戸開放、機会均等を認めた九ヵ国条約、太平洋の現状維持を謳った四ヶ国条約が成立し、満期となった日英同盟は解消された。しかし、日英はこれ以降も、中国権益などを通じて緩やかな連帯を続けていくこととなる。

 ワシントン体制の成立は結局のところ、日米間の対立要因を徒に増やしてしまう結果しかもたらさなかったとも評価出来るのである。


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  あとがき


【史実のワシントン海軍軍縮条約における太平洋防備制限条項】

海軍軍備制限に関する条約

(前略)

第十九条 合衆国、英帝国及日本国ハ左ニ掲クル各自ノ領土及属地ニ於テ要塞及海軍根拠地ニ関シ本条約署名ノ時ニ於ケル現状ヲ維持スヘキコトヲ約定ス

(一)合衆国カ太平洋ニ於テ領有シ又ハ将来取得スルコトアルヘキ島嶼タル属地但シ(イ)合衆国、「アラスカ」及巴奈馬運河地帯ノ海岸ニ近接スル島嶼(「アリューシャン」諸島ヲ包含セス)竝(ロ)布哇諸島ヲ除ク

(二)香港及英帝国カ東経百十度以東ノ太平洋ニ於テ現ニ領有シ又ハ将来取得スルコトアルヘキ島嶼タル属地但シ(イ)加奈陀海岸ニ近接スル島嶼(ロ)濠太利聯邦及其ノ領土竝(ハ)新西蘭ヲ除ク

(三)太平洋ニ於ケル日本国ノ下記ノ島嶼タル領土及属地即チ千島諸島、小笠原諸島、奄美大島、琉球諸島、台湾及澎湖諸島竝日本国カ将来取得スルコトアルヘキ太平洋ニ於ケル島嶼タル領土及属地

前記ノ現状維持トハ右ニ掲クル領土及属地ニ於テ新ナル要塞又ハ海軍根拠地ヲ建設セサルヘキコト、海軍力ノ修理及維持ノ為現存スル海軍諸設備ヲ増大スルノ措置ヲ執ラサルヘキコト竝右ニ掲クル領土及属地ノ沿岸防禦ヲ増大セサルヘキコトヲ謂フ但シ右制限ハ海軍及陸軍ノ設備ニ於テ平時慣行スルカ如キ摩損セル武器及装備ノ修理及取替ヲ妨クルコトナシ

(後略)

(外務省編纂『日本外交年表竝主要文書』下、原書房、1965年、9~12頁)

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