色
月島スバル
色
後悔はない。
私は昔彼女を助けたようだ。
私に友人はいなかった。
阿呆な女だけがいた。
その女は周りの目を気にすることもなく話しかけてくる。
授業と授業の合間に質問をしてくる、それ自体はいいのだが如何せん要領が悪い。
何度も同じところを間違えてはノートにまとめ、間違える。
その成果は実っているのかいないのか毎度テストの点数は悪かった。
補修を受けるとまではいかなくとも、ボーダーギリギリを維持していた。
もちろんそんな成績では大学に受かることなどできるはずもない、そう思っていたが地元の短期大学に受かることができたようで心底喜んでいた。
寒い雪の中、私は彼女に引っ張り出され合格確認の付き添いをさせられた。
大学までは少し遠いために二人で電車に揺られた。
鬱陶しかった。
その年の春から東京の大学に私は通うことになった。
地元から電車で3時間はかかる大学だ。
当然ながら一人暮らしをすることになる。
彼女は泣いていた。
卒業式の日に帰ろうとする私を彼女は呼び止め写真を撮ろうと提案してきた。
いつになく鬱陶しかったがおくびにも出さず容認した。
それ以来彼女と写真を撮ることはなかった。
今もその時の写真を握っている。
大学に入ってからは無難に過ごした。
特に話すこともない人々。
いつも通りにすぎる講義。
特に考えることもなくこなすアルバイト。
何の刺激もなく過ぎる日々に私は嫌気がさしたんだ。
アルバイト帰りに大学でみたことのある男に声をかけられた。
どこかで見たことがあるのは当然で、以前大学の試験結果をトイレで聞かれたことがあった。
いくつかの講義で終わったものから帰宅が可能なものがある。
それを利用してわざと遅刻するつもりだったのだろう。
どこの世界にもゴミは存在するもので、こんな男でも大学に入れるのかと呆れたのを思い出した。
男は私に「お礼をする」と言っていた気がする。
男は「お礼」を渡しに来た。
それは紙袋に入っている。
注射器だった。
私の世界に色が出たのはこの時からだ。
道化を演じていたようなつまらない灰色の世界はなくなった。
しかし急激に劣化していく色彩に慣れることなどできなくなった。
いつも長袖を着るようになった。
幸い男以外に私にかかわるものはいなかったからこそ怪しまれなかった。
チクッとした痛みがすると急激に晴れていく色彩に惑わされていなかった。
いつしか男はいなくなっていたが、そんなこと数年後に思い出すだけで私にとってはどうでもよかった。
色彩と花火が好きになった、どちらも鮮やかで花火はその煙が好みになった。
はじめは鮮やかに最期は急激に衰える様子はとてもじゃないがとても息苦しい気分だ。
大学に入ってから彼女と会うときは少しだがあった。
会うたびに綺麗と思った。
それこそ私が好きな色彩や花火にも劣らないほどに。
しかし触れることはなかった、色彩や花火は触れたいと思えるが彼女は思わなかったからだ。
変わったねと嬉しそうに話す彼女を見ているだけで楽しかった。
酒や焼き鳥が好きだった。
今思えばどんなこと話したっけ…。
まっすぐ歩けなくなった。
涎が止まらなくなった、痙攣が止まらなくなった。
そうなった日の朝は大学に行かないようにした。
その代わりに爪を噛むようになった。
痙攣を止めるために貧乏ゆすりをよくするようになった。
ある日鏡を壊した。
板には白髪の混じった皺の混じった男がいたからだ。
自分と認識できなくなっていた。
そうだそうだそうだそうだそうだそうだそうだ。
色彩が宿ればこの白髪の男は消える消える消える。
過呼吸になりながら、血まみれの手を伸ばして床を這うように進んだ。
注射器を掴んで火をつける。
なにを第一にして何を第二にするんだ、どっちを優先すればなんて考えなかった。
今すぐこの灰色の世界から逃げたくて必死にもがいた。
錠剤の入った瓶を倒して割ったんだ、握って口に放り込んで無理やり唾で飲み込んだ。
のどと口いっぱいに鉄の味がした。
視界がぼやけて色づき始めた世界を見ることなく、意識を失った。
白い世界が広がっていた。天井だ。
身体は動かないなと、ひりひり痛いなとそんなことしか思わなかった。
意識を戻すと看護婦が医者を呼びに行ったようで、しばらくするとぞろぞろと家族とともに私の病室に入ってきた。
どうやらバイト先の人が連絡に出ない私を心配し、大家さんとともに訪ねてきたみたいだった。
ひとしきり説明を受けた後、親父に殴られた。
弟や妹には罵倒され、母は泣き崩れた。
昔はこんなに構わなかったくせにと若い頭で考えていた。
当然のように大学は退学になり、しばらく入院とリハビリが宣告された。
警察にもお世話になった。
病室にはテレビがなかったために知らなかったが、しばらくニュースに取り上げられていたらしい。
どうせ昼のワイドショーで面白くもない芸人のネタに使われただけだろう。
しばらくして面会が許可されたらしく、彼女が来た。
面会解禁に気づかなかったのは、誰も肉親が来なかったからだ。
退院しても会うことはなかった。
いや、捨てられたのだ。
私が入院してから引っ越したらしい。
退院の日警察から封筒と通帳を渡された。
簡潔に「縁を切る」「引っ越す」「200万あげるから一人で生きろ」
さようならはなかった。
最後に書かれていたのは大学と貸家は片しておいた。
それから町の工場で働いた、その間もリハビリが終わることはない。
何年も、何年も働いてはリハビリ。
同級生や大学のやつらが同窓会や新入社員会やらで盛り上がってる間もずっとこの灰色の生活を送り続けた。
金は貯まらない。
私が働いた分の金は親の通帳へ流れた。
入院代と200万の金、そして慰謝料として弟と妹に金を流す。
月7万で生きるようになった。
同僚はどうしようもない奴や指がない奴、障害者と様々いた。
全員見下していた。話したくもなかった。
頼まれればおくびにも出さずに了承した。
そんな日々が続いたある日、彼女がやってきた。
誰にも言っていないはずなのに工場から帰ると彼女が家の前にいた。
そのころにはリハビリも終わり、家にいる時間が増えた時期だった。
彼女はこの近くに就職したといった。
通い妻のように週2、3日夕飯を作りに来る。
段々と増えて、いつしか週6で入りびたるようになった。
ある日の工場帰り。
いつもいた同僚が今日はいなかったことを思い出しながら帰路についた。
前からその同僚が走ってくる、追突し倒れる私をよそに走り去ってしまう。
少し向こうから警官が追いかけてくるのが見えた。
咄嗟に荷物をまとめ物陰に隠れる。
そんなことする必要なんかないはずなのに、警察という存在に敏感になっていた。
家について荷物を降ろす。
今日は彼女が来ない日だったことを思い出し、面倒ながらも彼女の作り置きをレンジで温め夕食を済ませる。
シャワーを浴び、傷がなくなった腕を入念に洗う。
全身を入念に、使うことはないと思うペニスも入念に洗う。
風呂からあがり、荷物が玄関に置きっぱなしだったことを思い出す。
玄関に置いてある荷物の中に見覚えがない紙袋を見つける。
きっとぶつかったときに同僚が落としたものだろう。
中身はわからないが玄関に置いておくのも忍びない、そう思い持ち上げた時カチャリと音がした。
なにかカラの容器がこすれる音。
紙袋の中身は知らないはずなのに、この音にワクワクが抑えられない。
ふさがった腕の傷がウズウズと鳥肌が立ち始める。
動悸が激しくなり、開けてしまいたくなる。
そこにあったのだ。
私だけの絵具が私という名のキャンバスを削るだけで描ける、色が出せる絵具。
一度味わったものを手放すなんて人間出来ちゃいない。
いつの間にか勃起していた。
まるでクリスマスにプレゼントをもらった子供のように喜びで手が痙攣する。
少しの痛みの先に高揚感。
あの時と違う色のついた世界が広がっている。天井はなんと美しいんだろうか。
その快楽を一時一時味わい尽くす。涎が止まらなくなる。気管に入り咳をする。それすらも気持ちよかった。
さらにまだある。吸えるのだこの快楽を、口いっぱいに吸い込みボルテージが煙が上がる。基地外のように叫んだ。脳が冴えわたり、思考が冴える。
鏡を見る。そこには健康な青年がいる。あの時の続きができる。
あの堕落した、しかし確かに退屈だったが充実していた日々の続きが…。
鏡に唾液を含んだキスをする。舐め回す。
楽しい楽しい楽しい楽しい楽しい楽しい楽しい楽しい楽しい楽しい
アラームの音で目を覚ます。
風呂場で横たわっていた。風邪をひいた。
風呂の水が乾いていないのに服が濡れるのも気にせず寝てしまったからだ。
体温は38℃あった。工場勤めで初の休みをとった。2日休んで回復した。
回復すると脳が求め始める。
あの快楽を思い出すと痙攣が始まる。
クローゼットに隠した紙袋をあけて、注射を打つ。
涎と痙攣が止まらない、気持ちいい、楽しい、世界が綺麗に見える。
ああ…なんて幸せなんだろう。
5日休んだ。
彼女が私を訪ねてくるのが鬱陶しい。
帰る時が待ち遠しい。
職場に行けば同僚に詰められる。
それがストレスになり、自宅に帰ると女がいる。
いつしか日常だと思っていた灰色の景色はちがうと気づく。
同僚が工場の機械に巻き込まれて死んだ。
事件だった。私にはどうでもよかった。
しかし困るのは私で入手先を聞き出すことができなかった。
毎日少しずつ使う。
鬱陶しい女が家にいるときは煙を吸うようになった。
タバコ?と聞いてくる女に対する鬱陶しさは日に日に膨らんでいった。
いつからか完全に同棲していた。
そうしていつも通り吸っていたある日。
彼女は私を見ていることを知った。
同棲もしていたのに抱くことはおろか、触れることすらしなかった。
私に触れた彼女の顔は泣いていた。
おもむろに服を脱ぎ乳房を晒した。
彼女は吸うなら乳房を吸えとぽろぽろ涙を流しながら怒鳴っていた。
きっときっと彼女はぐしゃぐしゃになっていたのだろう。
それこそ私の快楽とは真反対で何かに依存することもできずに、只々近くで私を見ていた。
いつから私を見ていたのだろうか。
彼女は私に恩があると言っていた。
記憶はない。
彼女を助けたなんて記憶はない。
きっとそれは私の気まぐれで助けただけだ。
何年も何十年も想い続けるほどの恩を売ったとは思っていなかった。
彼女は私の肩に顔をうずめ泣いていた服を着ることすら忘れて。
そこで私は壊れてしまったように泣いた。
誰にも愛されないと思っていて誰も愛していなかった。
そして私自身が見ていなかったのだ人間を。
灰色と思っていた世界にはちゃんと色があったのだ。
手から離れ落ちた花火と色彩。
それは綺麗だったが外装だけだった。
彼女に泣きつき謝った。
ただただ懺悔した、今までのことを吐いた。
「どうなったんですか」
青年が次の話を聞かんとグイグイくる。
手に握られているのは皺クチャになった写真だ。
「…そうだね」
息を吸い込み口を開く。
「時間だ」
私は呼ばれ、手に握っていた写真を破かれる。
手錠をはめた状態で連れていかれる。
刑事裁判。私はどうなるのか。死刑が望まれるような凄惨な事件を起こしたわけじゃないと思う。
ただ、同僚を突いただけだ。
そして彼女も突いただけだ。
私の愛を教えて、私の愛を抱えてくれたんだ。
裁判所の明かりがとても灰色に見えた。
色 月島スバル @SubaruTsukishima
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