第3話

翌朝、中西さんの態度が普通なことに安堵して、一緒に朝食を食べていた時だった。

「あ、中西さん、替えのシーツと枕カバーってある?」

「え?あ、うん。あるよ。どうしたの?」

「昨日の夜、汗かいちゃって。今日、天気良さそうだし、洗おうかな、と思って」

「クーラーの温度、高かった?」

「ううん。ちょっと怖い夢見ちゃって。うなされたみたい」

「そっか…。大丈夫?」

「うん…」

中西さんが立ち上がり、寝室のクローゼットから新しいシーツと枕カバーを持って来てくれる。

「ごめんね。竜樹君にこんなことまでさせて」

申し訳なさそうに、僕へと手渡してくれる。

「ううん。俺のほうこそ、ベッド一人占めしちゃってて、ごめんなさい」

「僕は全然構わないんだけど…。今は夏休みだからいいけど、学校が始まってからは、さすがにここにいるワケにはいかないよね」

中西さんが、ふと呟いた。

「え?あ…、うん」

分かってる…。分かってるんだ。突き付けられる現実。一気に気分が沈む。

「そういえば、昨日、課長が出張から戻ってきて。君と連絡が取れないから、何か知らないか、って聞かれたけど、知らないって答えておいたよ」

一瞬、俺の表情が、強張ったかもしれない。

「ど、どうして?」

「だって、親戚なんだろ?俺のところにいるって言ったら、それを親御さんに話して、友達のところにいることが嘘だってバレるかもしれないし。それに、君に暴力を振るってる誰かが、もしかしたら親御さんに居場所を聞いて、ここに来る可能性もあるかな、と思って」

「そっか…。そうだよね。ありがとう。中西さんて、見かけによらず、賢いんだね」

「竜樹君は、いつも一言多い!」

俺は、笑った。

中西さんとのこんな些細な言葉のやり取りが、本当に楽しい。一緒にいるだけで嬉しくて、何よりも、中西さんの優しさに、心が安らいだ。いつまでも、このままでいたい。心から、そう思っていた。でも、幸せな時間は、そう長くは続かなかった。


「ただいま。竜樹君、布団のシーツとタオルケット、外に干しっぱなしだよ」

中西が仕事を終え、アパートに戻って声をかけたが、返事がなかった。

「竜樹君…?」

リビングへと向かったが、そこに竜樹の姿はなかった。

寝室の扉を開けるが、そこにも竜樹の姿はなく、お風呂場も覗いたが、竜樹はどこにもいなかった。こんなこと、今まで一度もなかったのに。

「…どこに行ったんだ…?」

中西は、頭に手をやり、落ち着かない気持ちを必死に抑えながら、冷静に思考を働かせていた。

「まさか、場所がバレて連れ戻された…とか?」

中西は、慌てて玄関へと向かい、急いで靴を履き、竜樹を探すために外へと出た。そこに、

「あ!お帰りなさい」

と、竜樹が戻って来た。

中西は、竜樹の姿を見た途端、躊躇することなく、思いっきり自分の胸へと抱き寄せた。竜樹の手から、自動販売機で買ってきたコーラが落ちる。

「良かった」

中西の左手が、力強く竜樹の頭を抱き抱え、竜樹の耳元に、中西の顔が密着し、息がかかる。竜樹の心臓が、トクン、と反応し、どんどんと鼓動が早くなった。

「心配したよ」

「ごめんなさい。どうしてもコーラが飲みたくて、自販機まで買いに行ってた」

「連絡くれれば、買ってきたのに…」

「だって、いつもお願いしてばかりだし、悪くて…」

「そんなのいいよ。全然」

中西が、ハッと気付いて、竜樹を胸から離し、距離を置く。

「ご、ごめん。あ、コーラ。冷たいうちに飲んだほうがいいよね」

中西が、コーラを拾い、竜樹へと手渡す。

「落としたコーラの蓋、今開けたら大変なことになるよ…」

竜樹が、高まる鼓動を落ち着けようと、ゆっくり静かに呟いた。

「そうだよね。ごめん。とりあえず、中へ入ろうか」

「うん…」

竜樹は、真っ赤になって俯いたまま、中西のあとをついてリビングへと向かった。


「布団のシーツとタオルケット、すっかり忘れてた」

「大丈夫だよ。今日は、雨も降ってないし」

夕飯を食べながら、会話をするけど、何だか恥ずかしくて、俺は中西さんと目が合わせられなかった。

「あのさ、俺、あんなふうに人に心配されたことなかったから、ものすごく嬉しかった」

俯きながら、中西さんに言うと、

「みんな口に出さないだけで、竜樹くんのこと、ちゃんと心配してるよ。友達とか親御さんからも、ちょくちょく連絡来てるみたいだし」

「…そうだね。確かに、言われてみるとそうかも」

でも、今の俺にしてみたら、中西さんに心配されることが、一番の幸せかもしれない。そう考えながら、頬が、つい緩んでしまう。

そこに、突然、インターホンが鳴った。

「はい」

中西さんが返事をする。知らない二人の男が画面に映し出された。

『中西和真さんのお宅ですか?』

「はい。そうですけど…」

『北警察署の北山と申しますが、少しお話を伺いたいのですが』

「北警察署?警察が何で?」

俺は立ち上がり、中西さんの横に立った。

「分かりました。今、開けます」

中西さんが、玄関の扉を開けると、

「中西和真、未成年、拉致・監禁の疑いで、署まで連行する」

と、二人の男が警察手帳を見せた。

「え?」

「松島竜樹君だね?お兄さんから、捜索願が出てる。君も一緒に署まで来てもらえるかな?」

「卯月から?そんな、俺、親にはちゃんと毎日連絡してたし、中西さんは俺のこと監禁なんてしてません!俺が無理に頼んで、ここに住ませてもらってただけです!」

俺は思わず大声を出して叫んだ。

「詳しくは、署で聞くから」

「嫌だ!俺のせいで中西さんが警察に行くとか、絶対に嫌だ!!中西さんは何も悪くない!!」

俺は必死に訴えた。

「とにかく落ち着いて」

私服の警察官の、もう一人の男が、俺の肩に手をかける。

「触るな!!」

混乱する俺に向かって、

「竜樹!!」

中西さんが、初めて声を荒げた。

俺はビックリして、中西さんを見た。

「心配ないから。大丈夫だから。一緒に警察に行こう」

「中西さん…」

俺は二人の警察官に促されるまま、中西さんと一緒にパトカーに乗り込んだのだった。


警察署に着くと、一人、別室に連れて行かれ、先ほど北山と名乗った年配の男が、机を挟んで俺と向かい合い、椅子に座った。

「中西は、本当に君を拉致・監禁してないと?」

「はい。俺が家庭内暴力を受けていたことを知った中西さんが、アパートに居候させてくれていただけです」

あんなにも、誰にも知られたくないと思っていたことなのに、中西さんを守りたい一心で、スラスラと言葉が出てくる。

「家庭内暴力?」

「そうです。だから、中西さんは何も悪くありません。俺がワガママを言って、ずっと居候させてもらってたんです」

「でも、君はまだ未成年だろ?それに、さっきも言ったけど、お兄さんから捜索願が出てる」

「俺に暴力を振るっていたのは、兄です。中西さんからきつく言われていたので、母には毎日連絡してました。俺が、中西さんに無理を言ってアパートに住ませてもらってたんです。本当です。信じて下さい」

俺は、中西さんが悪くないことを分かってもらいたくて、必死に訴えた。

「分かったよ。取りあえず、今日は一旦、家に戻りなさい。明日、また来てもらうことになるけど。未成年の子が、家にも帰らずに他人の家に泊まってるのは、良くないことだ。車で送るから」

「…中西さんは、どうなるんですか?」

「まあ、詳しく事情を聞かないことには…」

「中西さんは、俺を助けてくれたんです。本当に親切にしてくれただけで、何も悪くありません」

「…分かったよ。おい、野口と宮間。この子を家まで送ってやってくれ」

横に立っていた二人のうちの一人の若い男が、俺の腕を掴んで、椅子から立ち上がらせる。

「中西さんに会わせて下さい」

俺が懇願すると、

「それは無理なんだ。ごめんよ」

年配の男が、俺の頭に、ポンと軽く手を置いた。

「警察は、今日、俺が家に帰ったら、また兄に暴力を振るわれるのを分かってて、家に帰すんですね」

俺が嫌味っぽく言うと、三人が、グッと言葉に詰まった。俺は促されるままに警察が準備した車に乗り込むと、久しぶりの自宅へと連れて行かれたのだった。


「全く。お前には参るよ」

先ほどの年配刑事、北山が、別の車に乗り込みながら言った。

「大きな貸しがあるんで、これくらい協力して下さいよ、北山さん」

後部座席に乗り込みながら、中西が言った。

北山の運転する車が、竜樹を乗せた車のあとを追う。

「あの子、お前は悪くないって、ずっと言ってたぞ。こんな騙すような真似していいのか?」

「僕は、あの子を守りたいんです。もうすぐ夏休みも終わるし、これ以上、僕のアパートに置いておくワケにもいかないんで…」

「ふぅん。お前の正義感、本当にもったいないな。救われてる奴らも多かったのに。また警察に戻って来いよ」

北山が言うと、中西は静かに首を横に振った。

「僕にはもう、警察官は務まりません」

「まだ昔のこと、気にしてるのか?本当に、頑固なところも相変わらずだな」

北山が、悲し気な表情で、少しだけ口元を上げて微笑んだ。

「でも、まさか捜索願が出てたのは、想定外でした。本当に犯罪者になるところでしたよ」

「俺も驚いたよ。まさか、お前がかくまってたなんてな…」

「…兄で間違いなさそうですね」

「そう言ってたよ。兄から暴力を受けてた、って」

「え!本人が、そう話したんですか?」

「ああ」

「…あんなに話したがらなかったのに…?どうして急に…」

「さあな…。とりあえず、うまくいくといいけどな」

北山の言葉で、車の中の空気が、一瞬でピリッと張りつめた。


「到着したみたいだな」

北山が少し離れたところで、車を停めた。竜樹が車を降り、野口と一緒に玄関の中へと入る。しばらくして、野口が出てきて、竜樹を乗せてきた車に乗り込むと、北山の携帯が鳴った。

「…ああ。分かった。とりあえず、野口はこっちに来てくれ。宮間は先に署に戻ってていいぞ」

北山が言うと、しばらくして、野口が北山の車に乗り込み、助手席に座った。

「父親も母親も今日は帰りが遅いみたいで、家には兄だけでした。帰るなり、あの子の手を引いて、すぐに二階に上がって行きました」

野口から、説明を受ける。

中西は、車の窓から、二階に灯った部屋の明かりをずっと見ていた。しばらくして、二つの影が激しく動き始めた。

「北山さん!」

「分かってるよ」

三人は勢い良く車から降り走り出すと、松島家の玄関のドアノブに手を掛けた。幸い、鍵は掛かっていなかった。二階から怒鳴り声が聞こえた。

「俺の言うことを聞かない奴は、どうなるかなんて、分かってたことだろ!」

ガタガタと、激しい物音が響き、うめき声が聞こえた。

「今日はいつもより激しくしてやるよ。覚悟しとけよ!」

竜樹の兄、卯月が、両手をベッドの柵にくくりつけたれた竜樹の頬に何発も平手打ちをし、荒々しく服を脱がす。

「もう、ほぐさなくても、このままでいいよな?」

卯月が自分の下半身を竜樹へとあてがった瞬間、バンッ!!と部屋の扉が開き、北山と野口が入って来た。二人が卯月の腕を掴み、抵抗できないように、取り押さえた。

「松島卯月。弟、暴行の容疑で現行犯逮捕する」

竜樹と卯月の二人が、その一瞬の出来事に、何が起きたのか分からないと行った様子で、呆然としたまま、微動だにせずにいた。

北山が、卯月に衣服の乱れを直すように促し、それから、卯月の腕に、手錠をはめた。

「じゃあ、あとは頼んだぞ。借りは返したからな」

北山は、扉の外側にいた中西の肩を叩くと、卯月を連れて、野口と一緒に部屋をあとにした。

中西は、両手をベッドの柵に縛られ、全裸で横たわる竜樹に静かに近寄ると、そっと、床に落ちていたタオルケットをかけた。

竜樹は、唇を噛みしめて、横を向いたまま、中西と目を合わせようとはしなかった。

中西が、ビニール紐できつく繋がれた両腕をゆっくりと解放する。

「辛かったね…」

言いながら、竜樹を優しく抱き起こす。

「中西さ…」

竜樹の目から、涙が、一つ、また一つと零れてくる。

「もう大丈夫だから」

中西の言葉に安堵して、竜樹は中西の胸に顔を埋めて、声を出して泣いた。今までの分も、まとめてと言うくらい、堰を切ったかのように、ずっと中西の胸で泣き続けたのだった。


その日の夜遅く帰宅した母親に、中西さんは事情を説明してくれた。

「先ほど、卯月さんが竜樹さんに暴力を振るっているところを現行犯で捕まり、警察に連行されました」

母は、信じられないといった表情を一瞬見せたかと思うと、急にうろたえ始めた。

「落ち着いて下さい。今、卯月さんは北警察署にいます。今すぐご主人さんに連絡を取って、一緒に行ってあげて下さい」

中西さんが、ゆっくりと丁寧に母へと向かって話すと、

「…わ、分かりました。あの、失礼ですけど…」

「あ、すみません。僕は印刷会社で修理担当の巡回の仕事をしています、中西と申します」

胸ポケットから名刺を取り出して、母に手渡す。

「元、警察官です。竜樹さんとは、街で偶然知り合ったのですが、初めて会った時に、顔と手首にひどい傷を追っていたので、こちらで保護させてもらっていました。ご相談もせず、勝手なことをしてしまい、すみません」

「いえ…。こちらこそ、竜樹を守って下さって、本当にありがとうございます。私、全然何も知らなくて…。

情けない母親ですね…」

母が口に手をやり、嗚咽を漏らす。目からは、次から次へと涙が溢れていた。

「母さん、泣かないで。早く卯月のところに行ってあげてよ」

「…ええ、そうね。竜樹、ごめんね。気付いてあげられなくて、本当にごめんなさい。卯月も、きっと辛かったでしょうね。あんなに仲が良かった二人だもの…」

母が、涙を流しながら俺を抱き締める。

ああ…。どうしてもっと早く相談しなかったのだろう。母は、いつだって、俺や卯月の味方だったんだ。母は父に連絡を取ると、すぐに卯月のいる北警察署へと向かったのだった。


母を見送って、中西さんが俺の方を向く。

「今日はゆっくり休むといい。明日も警察に行くんだろ?夕方六時過ぎには、アパートに帰ってきてるから、荷物を取りにおいで」

そう言って、優しく微笑んだ。

「アパートを追い出すの?」

「君は受験生だろ?学校が始まるのに、僕のアパートにいるのは良くないよ。お兄さんも、しばらくは帰ってこられないだろうし、家に戻った方がいい。そして、ご両親とよく話し合って、今後のことを決めていかないと」

「どうして…?もう一緒にいちゃいけないの?警察の誤解、まだ解けてないから?」

俺は中西さんの腕にしがみついた。離れるなんてイヤだ。考えるだけで、息が詰まりそうなくらい、胸が苦しくなる。

「明日、ゆっくり話そう。アパートで待ってるから」

「絶対だよ?」

俺の好きな、中西さんの口癖。

「うん。絶対」

中西さんは、クスッと笑った。その優しくて可愛い笑顔に、胸がギュッとなる。そして、中西さんは、玄関を静かに出て行ったのだった。

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