第2話
中西さんから、親に連絡をするようにきつく言われたので、俺はしぶしぶ母親に電話をした。しばらく友達の家に泊まるから…と。
家に帰ったら、卯月の行為がひどくなるかもしれない。それでも今は、家から離れたかった。
中西さんのアパートは、とても綺麗で、寝室も別にあり、お風呂やキッチン、リビングもすごく広かった。
リビングの机の上は、仕事関係と思われる書類でいっぱいだった。その少し空いた場所に、オレンジジュースを置いてくれる。俯いたままの俺に、中西さんが声を掛けてきた。
「本当の名前、竜樹君て言うんだ」
さっき、母親に電話をした時に、思わず名乗ったせいで、バレてしまった。
「うん…。松島竜樹…」
「そっか…。顔が腫れてるね。口の中も切れてるんじゃない?」
さりげなく言う中西さんの言葉に、俺の体が硬直した。
「さっき会ってた時より、ひどくなってる。手首の痕も…」
俺は咄嗟にT シャツの袖を伸ばして、手首を隠した。
長袖のTシャツを着て、帽子も深く被って、隠してるつもりだったけど、バレてたんだ。顔の傷も、手首の痕も…。
「一体、誰が…?」
俺は首を激しく横に振った。
「言えない。言いたくないんだ」
そう答えた僕に、中西さんは困ったように深いため息を吐いた。
「いいよ。言いたくないなら聞かない。でも、この先どうするつもりなの?君はまだ未成年だろ?僕はただの会社員で、君を守ってあげることはできないんだよ?」
急に見放されたようで、とても悲しくなった。
「明日には帰るよ。中西さんのこと困らせたいワケじゃないから」
「そういう意味で言ってるんじゃない。竜樹君さえ良ければ、しばらく、ここにいるといい。だけど、逃げるだけじゃ何の解決にもならないよ?」
中西さんの言っていることは、充分に理解できる。親や警察に相談しろ…ってことを言いたいんだろう。
そう。暴力だけならいい。実の兄に、体を奪われていることだけは、誰にも知られたくなかった。
そして、中西さんは、それ以上、何も言わなかった。
それから、中西さんのアパートで、二人での生活が始まった。卯月が予備校に行っている時間を狙って、だいたいの荷物も運び終わった。
「まっずい!中西さんて、本当に料理が超下手!そもそも野菜に火が通ってないし」
「竜樹君だって、同じようなもんだろ。つべこべ言わずに食べる」
「はいはい。我慢して食べますよ」
「一言多い!」
中西さんとの生活は、毎日が楽しくて、本当に、卯月のことを思い出す時間が少なくなるくらいだった。
居候をさせてもらうようになってから、中西さんは、仕事が終わってからすぐにアパートに帰って来てくれるようになった。その分、持ち帰って来る仕事量は増えていたけれど…。
俺は、大学受験を控えているにも関わらず、夏休み中の課外授業に一度も出席できないでいた。いつか、卯月が学校まで来るかも知れないと考えるだけで、怖くて仕方がなかったのだ。幸い、今は欠席の連絡はメールで報告することになっていて、課外に出ていないことは親にもバレずに済んでいた。
休日になると、外出できない俺が退屈していると思って気を遣ってくれているのか、中西さんは、いろんなところへと俺を連れ出してくれた。子供が行くような動物園や水族館。映画や買い物。中西さんとの時間は本当に新鮮なことばかりで、グレーでしかなかった俺の生活に、まるで色が付いたようだった。
「俺の両親、高校の教師で、部活の顧問もしてて、休日もほとんど家にいなかったから、こんなふうに出かけた記憶がなくて。マンボウがあんなにデカイなんて知らなかった。サメとかも、あんなに近くで見たの、初めてかも。この前の動物園も、めちゃくちゃ楽しかったし」
いつか水族館に連れて行ってもらった帰り、車の中で俺が興奮気味に話すと、
「あんまり物心ついてから水族館や動物園って行くこともないし、喜んでもらえたなら、良かった。あのマンボウは、ちょっとデカすぎたね。水槽一つを一匹だけで使ってたから、よっぽどだよ」
中西さんが笑う。俺もつられて笑った。
「でも、中西さんに悪くて。お金、全部出してもらってるし、アパートにも居候させてもらってるのに、何も返せないから、俺、バイトでもしようかな、って思ってて」
そこまで言うと、
「そんなの、しなくていいよ。竜樹君は、ただ笑ってくれてればいい。その、あどけない無邪気な笑顔に、僕は毎日癒されてるから」
「え?」
「それに、掃除とか洗濯とか洗い物とか、お風呂も洗って沸かしてくれたり、ほとんどの家事してもらってるし。今は僕のところにお嫁に来た専業主婦だと思って、甘えてくれてればいいよ」
「専業主婦…」
その言葉に胸がキュッとなり、そして急に何だかすごく照れくさくなって、つい俯いてしまった。
「あ、変な例えしてごめん。とにかく今は何も考えなくていいから。僕は竜樹君の笑顔さえ見られれば、それでいい。だから、本当に何も気にしなくていいよ」
中西さんの言葉に、胸がくすぐったくなった。そんな風に人から言われるのは初めてで、毎晩帰りの遅い両親のせいで、自分のことは自分でするしかなかったことが、ここにきて、中西さんの役に立てているんだと思えて、すごく嬉しくなった。
中西さんは、実の兄にも裏切られ、暗闇の中にいた俺を救ってくれた、本当に、お日様のように暖かい人だった。
中西さんと生活を始めて、三週間が過ぎた頃だった。ある夜、俺は悪夢にうなされて、目が覚めた。兄の卯月に暴力を振るわれ、体を奪われる夢だった。今まで現実に起きていたことを夢に見た俺は、寝汗がひどく、そして体を起こすと、呼吸を必死に整えた。
一つ上の兄、卯月は、小さい頃から両親が家にほとんどいなかったせいもあり、いつも優しくて、いろいろと俺の世話をやいてくれていた。親からのしつけで、自分のことは自分で、というスタイルの生活だったけど、いつも不器用な俺を「仕方ないな」と、笑いながら手伝ってくれるような、本当に温厚な兄だった。
それが、いつからか、あんなふうに…。思い出される、地獄のような、恐怖でしかない行為。
考えて、胸が苦しくなった。体も気持ちも、すごく重く感じた。これから先のことを思うと、不安で押し潰されそうになる。
汗をかなりかいたせいか、ひどく喉が渇いていた。俺はベッドから降りると、水を飲もうと、寝室を出て、キッチンへと向かった。リビングのソファーで眠る中西さんを起こさないように、静かに歩く。
ふと、男前な寝顔に、目が止まった。静かに寝息を立てている中西さんが、たまらなく愛しくなって、側に寄って、膝を付く。顔の高さが一緒になった。中西さんの寝顔を見ていたら、先ほどの胸の苦しさも不安も、全てかき消されるような安心感に包まれ、とても気持ちが落ち着いた。
「寝顔もカッコいいんだなぁ…」
しばらく見惚れて、それから俺は、ゆっくりと顔を近付け、中西さんの薄くて柔らかそうな唇に、そっと触れるだけのキスをした。
「ありがとう。中西さん」
そう言って、もう一度、今度は深く唇を重ねた。
ハッと、我にかえる。
俺…何して…!
俺は、喉の渇きも忘れて、慌てて寝室へと戻った。
いくらなんでも、寝込みを襲うなんて…。でも、中西さんの寝顔を見ていたら、どうしても中西さんにキスをしたくて仕方なくて、欲望が抑えられなかった。
まさか俺、中西さんのこと、いつの間にか好きになってた…?
カアッ、と顔が赤くなる。そして、自分の唇にそっと指を当てて、なぞる。
今日のことは、絶対に内緒にしておかないと…。急に恥ずかしくなった俺は、ベッドへと戻ると、タオルケットを頭から被った。
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