絶対だよ、の約束

多田光里

第1話

その日、俺は、出会い系サイトで知り合った中年の男とファミレスで待ち合わせをしていた。目的は援交だった。援交目的で男と会うのは今回が初めてで、かなり緊張していたかもしれない。パソコンでやり取りしていたメールには、五万くれるとあった。五万もあれば、安いビジネスホテルに、きっと五日間ほど宿泊できる。

俺には、どうしてもお金が必要だった。一日でもいいから、家に帰らなくても良い日が欲しかったのだ。


約束の時間を過ぎて、一人の男が息を切らして店へと入って来た。店員に声をかけられ、

「待ち合わせです」

と答えて、辺りを見回す。

背が高く、スタイルの良い、かなり目鼻立ちの整った男だった。黒縁の眼鏡をかけているせいか、とても真面目そうに見えた。格好から見て、きっとサラリーマンなんだろう…。

ジーッと見て観察していたら、目が合ってしまった。俺は慌てて目を逸らし、俯いた。

今日、約束していた人が、あんな風に、カッコいい人だったら良かったのに…。

メールに添付してあった写真は、もっと顔が丸くて、頭も薄かった。そんな奴と、俺は、今日…。

そんなことを考えている俺の座る席の横に、さっきの男がやって来て、立ち止まった。

「あの、違ってたらごめんなさい。もしかして、松山ケンイチ君ですか?」

松山ケンイチ。援交で使用するためだけの、分かりやすい俺の偽名だ。

「そうだけど、何?」

誰にでも偽名だと分かりそうなものなのに、その男の表情は真剣そのものだった。

「良かった。実は、課長が支社のトラブル対応で、急に出張になってしまって。君のパソコン以外の連絡先を知らないから、僕に代わりに待ち合わせ場所に行って、今日会えなくなったことを伝えてくれ、って言われて」

相当、慌てていたのだろうか。額に汗が滲んでいる。

「ふぅん。分かった」

俺は、何だかホッとして、テーブルの上に置いてあるコーラのストローを咥えた。

店員が注文を聞きに来る。なぜか男は、テーブルを挟んで、俺と向かい合って座った。

「オレンジジュースを」

スラックスのポケットからハンカチを取り出し、額の汗を拭いながら男が言った。

「オレンジジュース?普通、大人の人ってアイスコーヒーとかじゃないの?」

俺の偏見なのかもしれないけど、大人はだいたいみんなコーヒーを飲むものだと思っていたせいか、少し驚いて、思わず尋ねてしまっていた。

「あ、いや、コーヒーは好きなんだけど、午後から飲むと、夜に眠れなくなってしまって」

子供みたいなことを言う男が、両手を膝の上に置いて、恥ずかしそうに俯いた。

変な奴。

「で?その課長から、俺のことどうしろとか、聞いてんの?」

俺が聞くと、男は少し戸惑ったように、

「あ、いや、何も。ただ、会えなくなったことだけ伝えてくれればいいって。また連絡するから、って」

「そう…」

俺は、被っていた帽子のつばを、グッと下にさげた。

一気に気が抜けた感じがした。

「君の名前、有名な俳優さんと同じなんだね」

男がにこやかに話かけてくる。

バカじゃないのか、こいつ。同姓同名なんて、そうそういるワケないだろ。俺は無視して、コーラを飲み干した。

「あ、自己紹介もせず、ごめん。中西和真と言います。良かったら、これ。名刺」

そう言って名刺を差し出した男の手の指は、細く、そして長くて、とても綺麗だった。

さっきも思ったけど、この男、かなりのイケメンだ。眼鏡をかけているけど、その奥の瞳はとても澄んでいて、ものすごく優しそうに見えた。笑うと、口の横にシワが寄って、それがまた、より優しい雰囲気を引き出していた。

俺はその名刺を受けとると、そのまま黙ってハーフパンツのポケットに突っ込んだ。

「課長とは、どういう関係?」

突然の、核心をついた質問。

「親戚のおじちゃん」

咄嗟に嘘を付いた。

「そっか。今日は会えなくて残念だったね」

こいつは、人の話を何でも信じるんだな。ムシャクシャしていた俺は、何だか無性にこの男に対して意地悪をしたくなった。

「じゃあ、代わりに、中西さんがどこか遊びに連れてってよ」

「え?」

オレンジジュースを飲みながら、驚いたように俺を見た。

「遊園地に行きたい」

「でも、僕、こんな格好だし」

キチッとしたサマーシャツを着て、夏用のスラックスを履いている。腕時計やバッグや革靴も、カチッとした高級そうなものを身に付けていて、いかにも、真面目でやり手の会社員、という感じだ。だからこそ、わざと遊園地を選んだ。

「いいから行きたい。ね?いいでしょ?中西さん」

中西さんは、軽く息を吐くと、

「分かったよ。行こう」

と、笑顔を見せた。

こんな真面目そうなサラリーマンの男が、男子高校生を連れて遊園地なんて、有り得ないシチュエーションだ。俺は、それが面白くて、いたずら心に火がついたかのように、いろんなワガママを中西さんにぶつけた。一人でベンチに座らせて、ソフトクリームを食べさせたり、メリーゴーランドに乗せたり。中西さんが、恥ずかしそうに戸惑っている姿や表情を見る度に、俺は笑った。

そう…、笑っていたんだ。


「すっかり暗くなったね」

中西さんは、帰りに、とても夜景の綺麗な場所へと連れて来てくれた。

「雑誌に載ってた、ある俳優さんの言葉なんだけど『この灯りの分だけ人の生活や人生や悩みがあるんだな、と思うと、何だか自分の辛いことが、ちっぽけに思えるんです』って。すごく、いい言葉だな、と思ってさ」

中西さんが、夜景を見ながら、まるで僕を励ますかのように言った。

俺はしばらく黙り込んで、俯いた。

「家に帰りたくない…。どこか、泊まろうかな」

変だ、俺。初めて会ったばかりの人に、こんな弱音を吐いてしまうなんて。

「ダメだよ、そんなこと言っちゃ。君はまだ未成年だろ?家まで送ってあげるから」

そっと、手首を掴まれ、痛みに少し顔を歪める。

「あ、ごめん。痛かった?」

中西さんは、謝ると、俺の指先を握り直した。

トクン…と、心臓が微かに跳ねた。温かい、指先の感覚。ただ軽く触れているだけなのに、中西さんの優しさが全身へと伝わってくるようだった。

中西さんにしてみたら、ただ、子供の手を引く親のような、何の感情もない行動なのだろうけれど…。

俺の家へ向かって歩きながら、

「僕の名刺、ちゃんと持ってる?あれに、僕の携帯番号も印刷してあるから、何かあったらいつでも連絡しておいで。絶対だよ?何時でもいいから」

中西さんが、少し強めの口調で俺に言う。俺は、口を開くと涙が出そうで、声を出すことができなかった。


家まで送ってもらい、中西さんは帰って行った。

玄関を開けると、兄の卯月が、目の前に立ちはだかった。

「遅かったな、竜樹。今の男、誰だ?」

「友達の兄ちゃん。遅くなったから、家まで送ってくれた」

「お前は、何度言っても俺の言うことが分からないのか?」

腕を力強く引かれ、俺の部屋へと連れ込まれる。

「俺以外の奴と親しくするなって、いつも言ってるだろ!」

頬を叩かれたと同時に、帽子が飛んで、床に落ちた。

強く肩を押され、ベッドへと押し倒されたかと思うと、ビニール紐で両手をキツくベッドの柵へとくくりつけられる。

四ヶ月前からの、いつものパターンだった。

学校がある時は、周りが変に思うと困るからと、顔を傷付けないように、暴力を振るわれることはなかったが、夏休みに入ってからは、手を出すようになった。

もう、俺には抵抗する気も起きなくなっていた。抵抗すると、余計にひどい目に遭うということが、分かっていたからだ。

頬を平手で何度も強く叩かれ、髪を掴まれ、顔を前に向かされる。そして、俺の服をすべて脱がし、胸や横腹へと、唇と舌での愛撫が始まり、それが俺の下半身へと移動し、しばらくの抱擁が続く。そのうちに自らを俺へと一方的に挿入するのだ。いくらゴムを付けているからといっても、ただ痛いだけで、心からイヤだと思い、苦痛しかないのに、俺は感じたふりをする。そうしないと、卯月の暴力がひどくなるからだ。

卯月が、俺の中で、激しく波打つのが分かった。ズルリと、俺の中から抜けると、満足気に微笑む。

「お前、今日もイケなかったのか?こんなになってるのにな」

先端に、クッと爪を入れられた。

「うっ…!」

痛みに、思わず声が出る。

「シャワー浴びて寝ろよ。親にバレないように、部屋も片付けとけ。また明日の夜、かわいがってやるからな」

卯月は、俺の手を自由にすると、自分の乱れた衣服を直して、部屋から出ていった。

顔と手首が痛い。口の中は、血の味がした。もう、心が、傷付くことさえ諦めて、涙すら出てこなかった。

俺は体を起こし、兄がその場にそのまま放置していった残滓をティッシュで何重にも包み、ゴミ箱に捨てた。誤魔化すように、飲みかけていたジュースの蓋を開け、少しだけそのティッシュの上に流した。部屋中に充満していた、纏わりつくような不快な匂いが、甘い香りへと変わる。

こんなこと、いつまで続くんだろう…。


一つ上の兄の卯月が俺にこんなことをするようになったのは、大学受験に失敗してからだった。今は、予備校に通っていて、友達ともうまくやっている感じなのに、夜には必ず俺の部屋に来て、暴力を振るい、体を奪う。

「もう、疲れた…」

俺は呟くと、脱がされた服を片付け始めようとした。その時、ふと思い出した。ハーフパンツの中にねじ込んだ、名刺のことを。

俺は力ない手で、名刺を取り出した。

「中西…和真…」

この人に連絡したところで、何か変わるワケじゃない。頭では、そう思っていた。それなのに、自分でもよく分からなかったけれど、いつの間にか俺は外に出て、自分のスマホから中西さんに電話を掛けてしまっていたのだった。

何度か呼び出し音が鳴る。

『はい。中西です』

「あ、あのっ…俺…」

『…ケンイチ君?ケンイチ君でしょ?どうしたの?何かあった?』

ああ。この人は、見ず知らずの俺に対して、どうしてこんなにも優しく声を掛けてくれるのだろう。今日だって、嫌な顔ひとつせずに、俺のワガママに付き合ってくれていた。

「あの…俺…。電話なんかして、ごめんなさ…」

初めて人の優しさに触れたような気がして、涙が出た。

『大丈夫だよ。今日はありがとう。今、どこにいるの?家?』

「家の近くの、コンビニの駐車場…」

ダメだ。涙で声が途切れる。

『コンビニにって、帰りに送って行った時に、最後に通ったところの』

「…ん…」

声にならない。

『今行くから待ってて。いいね。絶対にそこにいて。絶対だよ』

「ん…」

そして、電話は切れた。

しばらくして、本当に中西さんが現れた。額に汗を滲ませながら、息を切らして…。

この人は、どうして今日初めて会ったばかりの俺に対して、こんなに必死になってくれるんだろう。

「…大丈夫?」

はぁ、はぁ、と、肩で息をしながら、俺に聞く。どれだけ慌てて、ここまで来たのだろう。俺は、中西さんの問いに答えられずにいた。

「とりあえず、今日はもう遅いから、ケンイチ君さえ嫌じゃなかったら、僕のアパートにおいで」

頭をくしゃっと撫でられる。俺の顔は、きっと涙でぐしゃぐしゃだったに違いない。

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