第3話 それってすごく幸せだ
近道のため入った路地裏からさらに路地裏へと奥まったそこは、既に───
異世界めいていた。
色褪せた左右の壁は新しいペンキで染められている。
狭い狭い路がいやにぬかるんでいて堪らない。
濃厚な匂いが鼻腔を刺激する。
───ここは既に、血の海だった。
鮮血に染まる壁。
冷気を帯びた真っ赤な血溜まり。
鉄錆を思わせる臭気。
その中心に、人間らしき存在がいて。
そいつはまだ、生きていた。
「そこのあなた……」
この田舎町で生きていて始めてみる銀髪。
どこか幼く、けれど整った顔立ち。その中に鈍く輝く、鮮血をも青く感じさせるアカイロの双眸。
総じて人間離れした外観。
「
それは、身に纏う、引き千切れ、破れきった、かつては典雅な装束だったろうドレスの亡骸からも伺える。今では血にまみれ、ところどころ吐瀉物めいたものまで見える。鉄錆の匂いに酸っぱさの混じるのはそのためか。
「あなたです、そこのあなた。 そうそう、あなた!」
彼女は───そう、女だった、髪の長さも、美貌の形状も、声の高さも、五感で感じとる全てが女性であると判断できる、そんな彼女は───ボクを、真紅の眼で。
じっと、見ている。
ボクはそれを見て威圧され───けれど落ち着いて観察すれば、彼女には怯えるべき要素はないのだった。
何故なら彼女は、倒れていた。
地に這いつくばっていた。
血に這いつくばっていた。
疲労困憊で、満身創痍。
そして何より、立って見下すことなんて、物理的に不可能だった。
立ち上がるための脚がない。
膨らんだ尻が存在しない。
くびれている腰が消失している。
断面───切断面がそこにある。
チロチロと流血する理由がそれだ。
一部飛び出たピンクと白は、それぞれ臓物と背骨だろう。
鋭利な傷では全くない。
千切られ、啄まれ、破裂したような。
そんな傷が、腹のところに存在し。
そこから下は、全て全く存在しない。
彼女は、下半身をまるごとなくしていたのだった。
瀕死。
死に瀕している。
「お───おい、き、救急車を」
心臓が飛び出るかと思った。
早鐘、なんてもんじゃない。
黒い何かを見たとき以上の。
スマホ。
そうだ、スマホだ。今思い出した。スマホで、助けを呼ばないと───。
「馬鹿ですか。救急車でどうにかなるわけがない。だいたい、それが必要な人間であれば、
「じゃあ、どうしろって」
「全てを、ください」
「
───迷宮の番人。
「第六迷宮『ダリア』の番人、それが
「『ダリア』……難攻不落の大迷宮様じゃねえかよ。それ……」
学校の迷宮化や、この町にあるもうひとつの迷宮とは訳が違う。
特に『ダリア』が有する
その代わりに異次元の難易度を誇り、またの名を『暗黒宮』───挑戦者の尽くが死に絶えたために、内部がろくに明かされていないことからついた忌名にして、前人未到を夢見た探索者たちの敬意の証。
その『番人』が。
王権の守護者が。
暗黒宮の化身が。
見る影もない。
それほどに、弱っている。
「ぎっ……いった……っ!!」
「どうした!?」
「……本来、
苦しそうに───いや、本当に苦しいのだろう、息を長く吐き出しながら、彼女は続ける。
「さあ、ください。あなたの体を……。人間を素材にすれば、そこそこの迷宮ができます……から。土木鐵鋼とは訳が違う。魂の可能性の力を用いれば───肉体の儀式的記号と合わせ……再び迷宮を再構築できる……」
「体をよこすって、……どれぐらい、必要なんだ」
「全て」
「全て……それって、ボクは死ぬじゃないか!?」
「ええ。そうです」
彼女は平然と頷いた。
そうして、ボクは気付く。
こいつの、目。真紅の双眸。それは、絶対的な零度を湛えている。
それは……人が、何かものを作るときに向ける目。料理人が野菜を検分し、大工が材木を選ぶ時のような───素材を見る目。
それを、大マジで。
本心から、している。
こいつの体と魂をどう使って───。
どのような迷宮を再構築しようか───? と。
求めているのは助けじゃない。
素材を使って。
自力で、生き延びようとしている。
───ボクは。
何を考えている?
こいつは、人外だ。
まず間違いなく人じゃない。
人は下半身を失ってこんなに長々と話してられない。
化物なんだ。
大迷宮。
第六迷宮『ダリア』の番人。
数多の探索者を飲み込んだ暗黒宮の化身。
そんな奴が、死ぬ。
それを、どうして一瞬でも、助けようと思えたんだ。
だいたい、死にかけてるってことはだ。
『ダリア』は攻略されかけてるんだろ?
歴史的偉業だ。
人類的快挙だ。
何千何万という命を貪ってきた迷宮の、記念すべき攻略の瞬間が今目の前にある。
助けてどうする。
巻き込まれてどうする。
虎子が目の前にあるのに、わざわざ虎穴を作り直す必要なんてない。
こいつは。
死ぬべきだ。
「……どうしました」
何も言わず。
疑問を抱く女を前にして。
ボクは、片足を引いた。
それさえできたら、後は一気に。
三歩、下がれた。
「は」
逃げるさ。
ボクは、逃げる。
「ま……ジですか?」
そのとき。
彼女の、血液よりも赤い双眸が。
弱く───揺らいだ。
「まっ、ちょっと───」
そして───
「待ってください!」
伸ばした手は、空を切る。
そりゃそうだ。だって彼女は、脚がない。腰がない。尻がない。歩けない。
ボクと、違って。
織機に追い付けたボクと、違って。
「待ってください……待ってよう……置いてかないで……」
いいやボクは置いていく。
お前をここに置いていく。
それが一番正しいんだ。
攻略されかけの迷宮なんて置いていくべきものなんだ。
だから。
だから。
考えれば考えるほど、こいつを見捨てる理由ばかりが浮かぶ。
浮かぶ。浮かぶ。浮かぶんだよ!
今、浮かんでるんだ!!
ああそうとも、ボクはこいつを見捨てるさ!
泣こうが喚こうが叫ぼうが見捨ててやる。
死にたくないからな!
全身よこせだ? 魂もくれだと?
ふざけるんじゃぁない!
消えるのは嫌だ。いやに決まってる!
こんなところで死ねるかよ。
ボクは、ボクは、ボクはさぁ……!!
まだ、まだ、死にたくないんだって……!!
だってまだ十七歳だぞ!?
高校三年生だ!
青春まっただ中なんだよ! 友達全然いないけどな!
未来だって沢山あるはずだ! 歩んできた過去は……思い出せないけど。
それでも、生きていたのは確かなはずなんだよ。
それで今日は、ようやく、友達もできたんだ!
なのに。なのにだぞ!
こんな夜が、こんなしょうもない夜が、人生最後の日であってたまるか。最後の事件はこんなもんじゃない! ボクにとってのライヘンバッハや新宿決戦がこんなぽっと出の夜であってたまるか!!
ああ、ボクは生きる。
生きてやるんだよ。
生きて、生きて、生きて、それで───。
何を、やるってんだ?
うるさい!!
まずはエロ本を読むんだよ!
買っただけで読んでない本も山ほどある!
妹の墓参りだっていかなくちゃ。
親とも仲直りして。
そして、織機と───。
織機と、なんのメッセージも、やりとりしてない。
してない、のにさあ……
「死にたくない……」
───それを溢したのが、どっちの口なのか。
多分ボクもそいつもわからなかっただろう。
けれど。
「わかった」
のは、ボクだった。
「いいぜ、やるよ。持ってけ、ボクの全部」
「え───」
「さっさとしてくれ。長くないんだろ、もう」
「なんで」
「なんでかって? ……決まってるだろ」
人生の結末はきっと、
こんなもんだろ。
唐突なんだよ。
ボクがここで選択を突きつけられるのが急だったのと同じぐらい唐突に、こいつも死を突きつけられている。
なら。
どっちが生き残っても変わらない。
んじゃねーかなあと思うわけで。
だいたいボクは。
元から死んだように生きていたんだ。
死を恐れて、消滅を恐れて、眠る度に明日目覚めたらまた全部失くなってるんじゃないかと思ってここ二年生きてきたんだ。
お陰で最悪の高校生活だったよ。
失うことが怖くて、だから何も手に入れたくなかったんだ。
それがどうだ。
こんなに死ぬのが怖い。
今のボクは、失うものができてしまって。
多分今までの人生で一番怖い。
それってすごく幸せだ。
幸せなんだよ。死んでいいくらいに。
「だからこの幸せを分けてやる。その代わり約束しろ。必ず、使いきれ。いっぺん足りとて残すな。捨てるな。無駄にするな。全部使って、最強の迷宮を作れ」
「あ……」
彼女は。
第六迷宮『ダリア』。暗黒宮の化身は。
「ありがとう……」
「喜ぶか泣くかはっきりしろよ」
でもそこには、感謝があって。
はにかんだ笑顔は。
今はもういない、妹に似ていた。
───それが最後。
そのはずだった。
唐突に意識が回復した。
寝ていたことにすら気付いていなかったような、そんな気分だ。
慌てて体を起こす。
けれど、その直後。
何が起きたのか思い出すより先に。
「な、何が───!?」
圧倒された。
奇妙な空間だった。
体育館みたいに広々とした空間。だが全体的に寂寥が漂う。それは壁や床のヒビ、下や上の一部が欠けた柱に由来するものか。裂けた絨毯、垂れ幕の紋様の掠れ。燃え尽きかけた松明の火が、最後の命を焼き尽くすようにゆらゆら揺蕩う。
その奥に玉座があり。
「目覚めましたね」
白銀の髪に真紅の双眸。
少女はドレスを纏って、玉座の脇に立っている。
「なんで……ボクは、生きて……」
「あなたは迷宮となりました。となれば、迷宮はあなたです。迷宮があるなら、あなたも生きていられる」
「なんだよ、それは」
死ぬんじゃなかったのかよ。
あんだけ語って、恥ずかしいじゃないか。
「いいえ……あなたは死ぬよりも辛いことになったかもしれません」
そのように思わせ振りなことを彼女は言った。
いや、いい加減、『彼女』ってのも面倒だ。
「なあ、ダリア」
「……それは宮の名でしょうか?」
「ああ。ダリア。俺はこれからどうすればいいんだ」
「何、簡単です。来た者を迎え撃てばいいのです。この───
そう言って差し出したのは、血のように真っ赤な宝玉だった。拳大のそれは、どくどくと脈打っているように思えた。
「なるほど」
ボクは頷く。これを守るわけだ。
誰から?
「手始めに、宮を追い詰めた『三銃士』。あれを迎撃しなくてはなりません」
「ちなみに、
「迷宮としての意味を失い、崩れます。あなたは本当の死を迎えるでしょう」
「わかった。じゃあ、死ぬ気で守ろう。……で、一番聞きたいことを聞かせてくれ。
ボクは、人間には戻れるのか?」
果たして。
ダリアは。
「戻れます」
と、返した。
「意外だな……」
戻れるんだ。
てっきり一生迷宮のままかと。
「迷宮は自律して広がるもの。時間さえあればですが。だから、1ヶ月。それさえくれれば、最低限の『ダリア』の規模に戻ります。そうなればわざわざあなたを迷宮に縛っておく道理はない。解放しましょう」
「わかった。……じゃあボクの役目は、1ヶ月間ここを守りとおすこと、だな」
「難しいです。できますか?」
「やらなきゃ死ぬんだろ。しかも今度は共倒れで。なら……やるさ」
少女のためなら命を捨てられるが。
探索者のために捨ててやるつもりもない。
拾ったものなら尚更だ。
「迎え撃つ準備をしよう」
ボクは踏み出す。
こうしてボクの異形の夏休みは始まった。
この夏休みがどこへ向かうのか、まだ誰にもわからない。
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