愛のすべてをあなたに捧げる

夏野資基

愛のすべてをあなたに捧げる

?月?日

 僕には、世界一かわいい妹がいる。17も年が離れている、小学2年生の妹だ。

 妹と出逢った日のことは、今でも鮮明に憶えている。当時高校生だった僕の指先を、片手ぜんぶの指できゅうと握り返し、やわらかい笑顔を向けてきた、赤ん坊の妹。

 研究にしか興味なかった僕に、その可愛らしさで隕石並みの衝撃を与えた、可愛い可愛い僕の妹。

 僕はこの子のために、少なからず人生を捧げることになるだろう。

 生まれたばかりの妹に微笑まれたあの時、僕はそう確信したのであった。 




1.

 カーテンに差し込む日差しが強くなったころ、僕はいつもどおり小学生の妹を起こす。おはよう、朝だよ、起きて。そうやって妹に何度も何度も呼びかける。しかし、ふかふかのベッドで僕をぎゅうと抱きしめたまま眠っているパジャマ姿の妹は、口をむにむにさせながら、幸せそうな顔で眠りっぱなしだ。

 きっと、大好きなパンケーキの夢でも見ているのだろう。邪魔されたくないに違いない。僕もそんな妹の邪魔なんてしたくないし、妹の可愛い寝顔をこのままいつまでも眺めていたい。でも我慢だ。流石にもう起こさないと、家庭教師の先生が来てしまうし、朝食を食べる時間が無くなってしまう。

 僕の20分におよぶ懸命な呼びかけにより、パジャマ姿の妹は、少し身じろぎをしたあと、ゆっくりと目を覚ました。

 妹は赤ん坊の頃から変わらないやわらかな表情で、僕に微笑みかける。

「おはようございます、お兄さま」

 そう言うと、妹は僕の頬に、いつもどおりのキスをしてくれた。

 時刻は朝の10時。今日も僕の妹はお寝坊さんだ。


 執事のじいやに部屋へ運んでもらった朝食(時間帯的にはブランチである)を、可愛らしいワンピースに着替えた妹が美味しそうに食べている。バターと蜂蜜のたっぷりかかったパンケーキを幸せそうに頬張る妹は、寝ぐせで飛び跳ねた後ろ髪も相まって、今日も非常に可愛らしい。

 向かいに座る僕はそんな妹に、もう少し早く起きたらどうだい、と何度目かの提案をしてみる。毎日妹を起こすのは全く苦ではないけれど、僕は眠っている妹よりも、起きている妹のほうが好きなのだ。

「いやよ。だってこの時間に食べるパンケーキが、いちばん美味しいんですもの」

 前回同様すげなく却下されてしまったので、前回同様僕は妹の説得を諦めた。だって必要以上の小言は妹の機嫌を損ねてしまう。僕はしかめ面で頬を膨らませる可愛い妹よりも、パンケーキを頬張ってご満悦な可愛い妹が好きだった。


 家庭教師の先生から勉強を教わったあと、部屋に帰ってきた妹が、背の高い本棚から1冊の本を取り出した。

「お兄さま、本を読んで!」

 いつものように妹が僕に読み聞かせをせがんできたので、いいよ、と答えた。

 椅子に座った妹に、机に座った僕が読み聞かせをする。今日の本は、広大な砂漠をずっと彷徨っていた旅人が、オアシスに辿り着く話だった。

 オアシスでひさしぶりに笑顔を取り戻した旅人の挿絵を見て、妹が言った。

「お兄さまが言ってたとおり、オアシスって素敵な場所なのね」

 僕が言ってた? そうだっけ? と僕が返すと、妹は不満げに頬を膨らませた。可愛い。

「砂漠の中にある青い泉で、嫌なことをぜんぶ忘れさせてくれて、心に安らぎを与えてくれる素敵な場所だって、お兄さまが教えてくれたのよ」

 妹の記憶力に感心した僕は、すごいねと妹をたたえる。すると、妹は照れくさそうに口元をにまにまさせた。可愛いね。

 僕は物忘れが激しいのか、記憶がところどころ欠如している。20年以上は生きてる筈なのに、なぜか妹に関することしか憶えていない。まあ、愛しい妹のことさえ憶えていればあとはどうでもいいので、大した問題ではないのだけれど。

「いつか、2人でオアシスへ行きましょうね」

 僕は、もちろんさ、と答えた。


 今年小学5年生になるはずの僕の妹は、学校に行ってない。

 理由は、分からない。妹が教えてくれないのだ。

 本人は、いたって健康そうだ。医者が家に来たり薬を飲んだりしている様子もないから、病気ってわけではなさそう。

 それに、読み聞かせの本に学校の描写が入っていても特段反応を示さないので、学校に嫌な思い出があるわけでもないらしい。

 名探偵でもない僕は、正直お手上げ状態である。学校には行ったほうがいいと思うんだけどな……。

 そんな妹が家に閉じこもって、もうすぐ3年が経とうとしている。




?月?日

 純愛ってなんだろうと、僕は考える。

 純粋な愛。見返りのない愛。ひたむきな愛。辞書を引くといろいろな定義が出てくるけれど、僕は『僕と妹のような関係』が、まさしく純愛だと思うんだ。

 僕は、妹を愛している。もちろん、兄妹としてだ。

 妹の傍に居られるだけで嬉しくなる。小鳥のさえずりのような妹の声を聞くだけで気分が高揚するし、妹の美しく透き通った瞳に僕だけが映っていることを想像するだけで、喜びのあまり飛び上がりそうになる。

 そして幸福なことに、妹も、僕を愛してくれている。もちろん、兄妹としてだ。

 妹が僕を呼ぶ声、妹が僕に向ける表情、妹が僕をぎゅうと抱きしめるその仕草しぐさ。妹が僕に与えてくれるすべてが、僕への愛で満たされている。

 僕たちは、お互いを愛し合っている。

 こんな僕たちの関係が純愛でなかったら、なんだというのだろうか。僕は幸せを噛みしめる。

 ああ、僕はなんて幸せな兄なんだろう!




2.

「いやあああ! お兄さま! なんですのその頭は!」

 お寝坊な妹が起きぬけ早々に、叫び声をあげた。

 別に、大したことじゃない。妹の部屋から出ようとしてジャンプしたら、バランスを崩して無様に絨毯の上をゴロゴロ転がったせいで、髪がクシャクシャになっただけだ。

 妹の部屋にはなぜか鏡が無いので、自分の髪の乱れ具合はよく判らないけれど、妹の反応を見るに、どうやら相当ひどい有様らしい。

「さあ! はやくこちらへ来てくださいな」

 妹は椅子に座ると、僕に手招きをした。こういう時は妹に従っておかないと後が怖いので、素直に言うことを聞くことにする。

 妹が、慎重に僕の頭を撫でまわす。

「……頭は、問題無いようね」

 ほっと胸をなでおろした妹は、そのまま僕の髪に絡みついた絨毯の埃を、丁寧に取り除きはじめる。優しい。

「あまり、無茶はしないでくださいね。お兄さまの綺麗な青い髪が、台無しになってしまいますから」

 綺麗な髪? そうだろうか? 確かに髪は青色だけど、長さはセルフカットを失敗したようにばらばらのようだし、今日みたいに派手に転ぶせいで、ところどころ無毛地帯もある。あまり見栄えが良いとは思えないのだが。

 妹は僕の髪に絡みついた埃を取り終えると、椅子近くに置いてある机の引き出しから可愛らしいポーチを取り出す。ポーチから小さな櫛を手に取り、僕の髪を丁寧にかしはじめた。そのポーチにも、鏡は入っていなかった。櫛はあるのに不思議だよね。

「お兄さまは賢い人でしたけれど、手先はとても不器用でしたの。手芸もあまり得意ではなくて、けれど素材を選ぶセンスだけは確かでしたわ」

 賢い? 手先が不器用? 手芸が得意でない? 僕はそういう人間だったのか?

 記憶がところどころ欠落しているからだろうか、褒められてるのに実感が湧かなかった。

「お父さまもお母さまも、今のお兄さまを『青びょうたん』と言って気味悪がったり、学校のバカな男の子たちも『妖怪デッサンぐるい』なんて酷いあだなで呼んでたりしていましたけれど、わたくしは気にしませんわ」

 あだなの件は初耳だった。そんな風に呼ばれていたのか。ていうかなんだ『青びょうたん』と『妖怪デッサンぐるい』って。どんなあだなだよ。

 妹が、神妙な面持ちで僕に言う。

「それでも、わたくしはお兄さまが大好きですわ。だってお兄さまは、どんな姿でもお兄さまですもの]

 なんだか自分に言い聞かせるような言い方だったのが気になったけれど、それよりも妹が僕と同じ気持ちを持っていることへの喜びのほうがまさった。僕も、妹がどんな姿になろうと可愛いし大好きだよ!

「さあ、直りましたよ!」

 妹はそう言うと、僕の頭から手を離す。どうやら、クシャクシャの髪が元に戻ったようだ。

 ありがとう、とお礼を言うと、妹が花が咲いたような笑顔を向けてくる。なんで僕の妹はこんなに可愛いんだろうね。

「ところで、お兄さまは、どうして髪をそんな風にさせてしまったの?」

 あ、まずい。

 僕は妹に、妹の部屋から出ることを禁止されているのだ。

 だから別の部屋に行ってみたかったなんて素直に答えたら、妹に怒られてしまう。でもどうやって答えればいいんだろう。

 う、運動したかっただけだよ……、と苦し紛れに答える僕を見て、察しの良い妹は理由に気づいたようだった。

「ダメよ」

 妹が一気に不機嫌になった。しまった、と思った時にはもう遅い。妹は僕を逃がすまいとして、ぎゅうぎゅうと抱きしめてくる。幸せだけど、ちょっと苦しい。

「わたくしを置いていくなんて、許さないんだから」

 妹が僕を部屋に閉じ込める理由を、僕は知らない。

「お兄さまは、わたくしとずっと一緒に居てくれなきゃ、いけないんだから」

 まあ、僕は妹に愛されていればそれでいいので、どうでもいいや。




?月?日

 長期の海外出張から帰ってきたばかりの僕の部屋に、深夜にもかかわらず、じいやが相談にやってきた。

 なんでも、妹が小学校でお兄様に会いたい会いたいと、四六時中駄々をこねていて困っているらしい。

 妹は生まれてから小学校に上がるまで、ずっと自宅で英才教育を受けていた。ちょうどその頃の僕は大学生だった。研究内容も自宅で完結するようなものだったし、なによりも妹が大大大大大好きだったので、妹が勉強してる時間以外は、多忙で外に出る仕事の両親に代わって、ずっと妹の傍に居たのだ。

 どうやらそれが、悪い影響を及ぼしたらしい。

 慣れない同世代の子供たちに囲まれ、慣れ親しんだ兄(僕)は傍に居てくれない。環境の劇的な変化に、ついていけないのだろう。僕が外に就職して忙しいのもあって、妹と一緒に過ごせる時間が減っているのも、良くなかったのだろうな。

 その妹は、授業中ですら駄々をこねていて、食欲も減退しているのか大好きなパンケーキすら殆ど残してしまうほど、参っているらしい。

 流石にそれはまずい。

 しかし、どうすればいいのだろう。仕事は投げ出せない(だって僕の両親は人を見る目がない。いつ騙されて家の全財産を喪うか判らないのだ。そうなるとニートの僕じゃ妹を守れないじゃないか!)から、ずっと傍に居ることは難しい。だって例えば僕が事故とかに遭ってうっかり死んでしまったりすれば、遺された妹はどうしようもないじゃないか。

 妹に愛され必要とされていることは、正直泣きたくなるほど嬉しい。実際、いま僕は号泣していて、じいやにドン引きされている。

 けれど、僕は妹にまっとうな生活をしてほしい。しっかり授業を聞いて、同世代の子たちと仲良くなって、見聞を広めてほしい。そうやって素敵な大人になってほしい。両親のように変な奴らに騙されて定期的に大金を喪いまくる残念な大人には、なってほしくないのだ。

 それに、僕に依存したまま生きていくのは、妹にとって絶対に良くない。だって、人生の選択肢が極端に狭まってしまう。そんなの絶対ダメだ。

 僕はじいやと共に頭を悩ませる。うーん……良い案が思い浮かばない。




3.

 妹が学校に行かなくなって、もうすぐ3年が経つある日。

 なんと、僕は誘拐された。

 犯人は執事のじいやである。

 僕を抱きしめて眠っている妹から、上手いこと僕を引き抜いたらしい。早朝(といっても8時だが)の犯行は、この時間いつもぐっすり眠ってる妹には気付かれずに済んだようだ。

 何処に行くの、と尋ねてみると、「しばし、お付き合いください」とじいやが返してくる。答えになってないんだが。

 じいやは僕を抱えてしばらく歩くと、やがてとある部屋に入った。客間だろうか? 床全面に赤いカーペットの敷かれた広い部屋には、高そうな調度品たちと、僕の両親が待ちかまえていた。父さんは誰かの遺影を抱きしめながら俯いていて、母さんはそんな父さんに寄り添っている。誰の遺影だろう。

 あれ……待てよ。

 部屋に、まだ誰か居る。1、2……3人。全員、僕が知らない人だ。牧師ふうの男、研究者ふうの男、霊媒師ふうの女が立っていた。統一感の無い組み合わせだな。また両親がカモられたのだろうか?

 そんなことを考えていると、じいやがいつのまにか僕を3人の真正面に置かれた椅子に座らせた。なんだなんだ。

 父さんが口を開く。

「では、みなさん。お願いします」

 その合図とともに、3人が一斉に動いた。

 牧師ふうの男は空に向かってブツブツと独り言、研究者ふうの男は手元のタブレット端末を爆速で操作、霊媒師ふうの女は一心不乱に変な踊りをし始めたのである。どういうことだよ。

 じいやに視線で助けを求めると、「もう少し耐えてください」とでも言いたげなジェスチャーが僕に返ってくる。じいやが止められないということは、父さんか母さんが、この珍妙なショーの仕掛け人だろう。これはしばらく耐えるしかなさそうだ。

 誰かと目が合うと気まずいので、僕は部屋の天井をぼんやり見つめ、時が過ぎるのを待った。

 しばらく経つと、研究者ふうの男が僕に話しかけてきた。

「ぼくを憶えていますか」

 僕は素直に、知らないと答える。すると研究者ふうの男は驚いた様子で「ぼくは、貴方の研究仲間ですよ。貴方は優秀な研究者だったんです」と言ってきた。

 研究者だって?

 驚いたのは僕だ。僕は研究仲間がいたことも、自分が研究者だってだったことも、なにも憶えていない。欠落した部分の記憶だろうか。ていうか専門はなんだ。まさか妹か? それならものすごく気になるのだが。

 初耳だと答えると、「研究に関わるデータは入力しなかったのか……」「まさか完成していたなんて……」とかブツブツ言ながら、タブレット端末を持って客間から出て行ってしまった。

 霊媒師ふうの女はひとしきり踊ると、急にピタリと動きを止めて、父さんに「こちら、ご本人さまの一部のようですが、ご本人様そのものではありませんね。ご本人様の霊は、すでに空へ旅立っています。ご安心ください」と伝え、「それでは失礼します」と頭を下げてから、客間を去っていった。

 独り言を話していた牧師ふうの男は、独り言を終えると母に「神に事情を聞きました。人間の魂を、人形に写し取ったもののようです。……誰がやったのかは知りませんが、なんと罰当たりな……これは許されざる行為……禁忌ですよ」と顔をしかめた。そのあと「すみませんが、私は悪魔祓いは専門外なので……」と言うと、客間から離れていった。

 いつの間にか部屋に居るのは、父さんと母さんと、じいやと僕だけになった。

 3人の話を聞いた父さん母さんがその後つぶやいた言葉は、僕とまったくの同意見だった。

「わけがわからない」。

「せっかく大金を払って方々ほうぼうの専門家を集めたのに、この有様とは……」と、落胆する母さん。さっきの3人は、どうやら父さんや母さんが呼びつけたようだが、結果は2人の満足いくものではなかったらしい。そりゃそうだ。だって全員、意味わかんないことを言って帰っていっただけだし。金持ちのくせに人を見る目がないのは相変わらずらしい。

 反対に、じいやは去っていった3人の言葉に、何か思い当たることがある様子だ。何か言いたげなそぶりをしている。どうして言わないんだろう? 妹に口止めでもされているのだろうか。

「アレックス」

 父さんが、僕に話しかけた。アレックスは僕の名前である。


「アレックス、亡くなってから3年も経つのに、どうしておまえはまだ生きているんだい?」


 え?


 いや、その、……ちょっと待って。亡くなって、3年? 僕? この僕が? そんな、馬鹿な。嘘でしょ?

 僕は、おそるおそる、父さんがさっきから抱えている謎の遺影に、視線を向ける。遺影には、青髪でぼさぼさ頭の、若い男が写っていた。

「これは、おまえの写真だよ」

 これが、僕?

 父さんがじいやに目配せをする。するとじいやは、懐から古い新聞記事を取り出し、身体をかがめて、椅子に座っている僕に記事を見せてくれた。

 父さんが言葉を続ける。

「記事に、お前の写真が載っているだろう。おまえは1年前、外国へ向かう飛行機の事故で、死んでしまったんだよ」

 新聞の日付を確認すると、今からちょうど1年前。大きな見出しには『飛行機事故』『大富豪の息子』『天才研究者の夭折ようせつ』などの文字とともに、

 僕の──『アレックス』という名前と、父さんの持っている遺影そのままの写真が、掲載されていた。

 どういうことなの、と僕が震えた声をこぼすと、母さんが僕以上に困り果てたような顔で答えてくれた。

「わからないの。わたしたちは科学に関してはさっぱりだし、おまえはわたしたちに仕事の話をあまりしてくれなかったから……。たぶん、おまえの研究に関係しているのだろうけど」

 父さんが頭を抱える。

「話しぶりからして、おまえがアレックスなのは間違いない。だけどアレックスは、もう死んでいるんだ。そんな姿でもなかったんだ……」

 母さんがじいやに、鏡を持ってくるように命じる。優秀な執事であるじいやは、すぐさま懐から高さ20センチほどの鏡を取り出し、僕の目の前に鏡を置いた。

 すると、そこには。


 肌は青白く、長さのバラバラな青い毛糸の髪を持ち、体が変にねじ曲がった、まさしく『青びょうたん』や『妖怪デッサンぐるい』の名に相応しい、歪で不気味な小さい木製人形が、映っていた。


 父さんが、僕に尋ねる。

「おまえは いったい、なんなんだ?」




?月?日

 やっと良い案を思いついた。

 僕の人形を用意するのは、どうだろうか?

 僕の思考パターンをインプットした人工知能を、人形の頭部に埋め込むんだ。僕の声が出る装置も付けよう。そうすれば、僕の声で僕の言葉を喋る人形の完成だ。

 僕の専門は人工知能だ。大学でも就職先でも研究をしている。研究を活かせば、実現できるかもしれない。

 作業時間の捻出も、問題ない。うまいこと理由をでっちあげて、仕事中に堂々と進めればいい。……まさか自分の趣味(妹)が、仕事に活かせる日が来るとは思わなかった。やはり勉強は無駄にならないな。

 妹はオモチャの人形を可愛がる完成の持ち主だから、きっと人形なら気に入るだろうし。

 そうだ、そうしよう。さっそく取りかかろう。

 僕もじいやも、一気に問題を解決できる方法ばかり考えていて、良い案が思い浮かばず頭を悩ませていた。だけど、一気に問題を解決できないなら、段階的に解決していけばいいだけなんだ。

 ヘビースモーカーが少しずつ煙草の本数を減らして禁煙を目指していくように、段階的に兄依存症から脱却させていけばいい。生身の人間(僕)から喋って動く人形(僕のようなもの)へ、喋って動く人形から喋らない動かない人形へ、少しずつ移行していけばいい。時間はかかるだろうが、必ずやり遂げてみせる。

 妹が兄依存症になってしまったのは、妹の傍にずっと居た僕の所為だ。僕の失敗だ。自分の失敗は、自分で挽回ばんかいしなければならない。

 僕の所為で苦しい思いをさせてごめんね。すぐに僕が、助けてあげるから。

 あ、どうせなら自立歩行プログラムや、映像や画像を認識するプログラムも、付けてみようかな。喋って動く人形から、喋って動かない人形へ、そして動かない人形へ段階的に移行していけば、妹の兄依存症の克服に有用そうだし……。




4.

 翌日の朝5時、僕は眠っている妹の腕から、こっそり抜け出した。

 小さい人形の体で思い切りジャンプをして、廊下へと続く扉を開ける。成功だ。今度は転ばなかったぞ。

 向かう先は、僕の部屋だ。

 妹が学校に行かなくなってから、僕は一度も自分の部屋に足を踏み入れたことがなかった。記憶が欠落していて場所すら知らなかったのだ。

 だけど、昨日じいやが僕を連れ出す途中で僕の部屋の場所をそれとなく教えてくれたおかげで、今日は迷わず自分の部屋へ進むことが出来る。……じいや、やっぱり何か事情を知ってるんじゃないか? 手回しが良すぎるだろ。

 僕は頑張って扉を開けて、自室に入る。すると、部屋には大小さまざまな機械がそこらじゅうに置いてあった。一見しただけでは、何に使うのかすら判らないものばかりだ。なるほど、僕の両親がお手上げ状態なのも無理はない。

 部屋のあるじが3年も不在だったわりに、部屋は埃っぽくなく、綺麗だった。きっとじいやが掃除してくれていたのだろう。じいやに感謝だ。

 僕は床から椅子へ、椅子から机に飛び乗って、机に置いてあるパソコンの電源を点けた。僕が科学者で部屋にこれだけ設備が整っているなら、研究データも残っているはずだ。……ビンゴ。膨大な研究データが残っていた。

 僕は天才研究者だった自分の知能を信じて、手当たり次第に研究データを読み漁っていく。

 そのまま……2、3時間が経っただろうか?

 しばらく調べるうちに、うっすら分かってきた。

 どうやら、僕は人工知能(AI)の研究者で、仲間と共に、人形に人工知能を組み込む研究をしていたらしい。

 直近の研究は、人間の思考パターンをデータ化して人工知能にインプットし、その人工知能を人形の頭部に組み込むことで、人形に「まるでその人のように」振る舞わせることを、目標にしていたようだった。

 研究データには、使用予定だった人形に関する記述もあった。

 昨日鏡で見た僕の姿と、特徴が一致していた。

 おそらく、この研究によって今の僕が生まれたのだろう。

 しかし、僕にはこれらの記憶が無い。

 どうやら、研究のデータは入力されてなかったようだ。

 それにしても、研究理由が「事故等が原因で突然家族を喪ってしまった子供たちの自律を支援するため」なのは驚いた。僕って良い奴だったんだなあ。まあ自分が事故で死んでるのは、なんかちょっとアレだけどね。

 研究データをあらかた読み終え、妹が起きるまでまだ少し時間があるので、パソコン内でそれ以外のデータも探してみることにした。人工知能(僕)に入力された内容のベースとなるデータがあるはずだと、見当を付けていたためである。

 ……すると、生きてた頃の僕が書いたと思われる、日記を見つけた。

 「日記」と書かれたフォルダに、日付ごとに別々のテキストファイルが立てられ、時系列順で並んでいた。ファイルタイトルに記載されている日付を見るに、かなり昔から毎日欠かさず日記を付けていたようである。マメだな、僕。

 いくつかのファイルを適当に開いて、内容を確認してみる。どうやら、その日あった事や考えた事を記述していくタイプの日記らしい。

 日記の内容は様々だった。妹が生まれた時のこと、妹と相思相愛なこと(最高だね)、妹が兄依存症になってしまいこまっていること、妹のために研究を始めたこと(でっちあげた理由に感動した僕の時間を返せ)……妹のことばっかりだな。

 日記の内容は、「妹に関することだけ」正確に憶えていた。きっと、この日記が入力されたデータのベースで、生きてた頃の僕は、妹に関することしか、データとして入力していなかったのだろう。

 妹以外の……たとえば、海外出張でオアシスに訪れたこと、これまた別の海外出張で綺麗な青い毛糸を見つけたこと、じいやには研究の話をたまにしていたことなどは、日記に書かれているのに全く記憶になかった。

「旦那様と奥様が呼び寄せた珍妙な方たちの言も、意外と的を射ていたようですな」

 パソコンで自分の研究成果を調べることに没頭していたら、いつの間にか僕の背後にじいやが立っていた。びっくりした。ニンジャかよ。




?月?日

 人工知能が完成した。

 ……のは良かったのだが、自分の手先が器用じゃなかったことをすっかり忘れていた。

 市販の顔無し木製人形を僕っぽくアレンジしてみたのだが、これが上手くいかなかった。僕の髪に合わせて人形の頭髪に青い毛糸を植えてみたら切り方が悪かったのか長さがバラバラのざんぎり頭になってしまったし、僕の体型に合わせて人形を削ったら削り方が悪かったのか折れ曲がった枝みたいになってしまったし、僕の肌(研究ばかりで太陽光を滅多に浴びない所為だ)に合わせて絵の具で人形に色を塗ったら色の選び方が悪かったのか青びょうたんみたいになってしまった。

 人形の関節にあたる部分には手を付けなかったし、研究仲間にお願いして人工知能を埋め込むスペースだけは上手く切り出してもらえたので、きちんと動作はするはずだが……うーん。思ったより、不気味な人形が出来てしまったな。

 でも、間に合って良かった。

 今日から飛行機に乗って長期出張でしばらく家を空けるから、どうしても完成させて妹に渡しておきたかったのだ。

 時間が足りず、人工知能には妹に関するデータしか入力できなかった。人形に自立行動をさせるためのプログラムに時間を掛けすぎてしまった。やはり思いつきで後から仕様を変更するものじゃないな。

 きっと今日も、妹は出張に行こうとする僕に抱きついて「置いてかないで!」と叫ぶだろう。泣きながら懇願する妹に心を痛めて家の外で毎回号泣していたが、今日は人形を渡してやれる。

 飛行機の時間が迫っているから、仕様の説明は省いてしまおう。分かりづらいところにあるボタンを押さないと人工知能が喋って動くようにならないのも、妹ならそのうち気づくだろうし。

 でも、これだけは伝えるつもりだ。

 僕は妹である君が大好きだ。でも残念なことに、僕は君の傍にずっと居られるわけじゃない。

 君は僕が傍に居なくても、生きていかなきゃいけないんだ。

 この人形は、最初は喋って動くようにしてあるけれど、段階的に機能を失わせていくつもりだ。

 この人形は、僕の妹愛の結晶だ。

 だって君が僕に依存せず生きていけるよう、愛のすべてを捧げて作ったんだから。

 ──ってね。

 喜んでくれるといいなあ。




5.

「……飛行機事故のあった日の朝、アレックス様は人形を完成させ、いつもどおり泣いてすがり付くユリカお嬢様に、人形をお渡しになりました」

 じいやが喋りはじめた。

「時間が足りなかったのでしょう。人工知能には、妹ぎみであるユリカお嬢様に関することしか入力できなかったと、苦笑しながら私にこぼしておられました」

 じいやが事情を知っていたのは、僕がじいやに研究のことを喋っていたからのようだ。道理で手回しが良いわけだ。

「最初、人形の説明を聞いたユリカお嬢様は、あまりお喜びになりませんでした。ユリカお嬢様からすれば、人形はアレックス様という大きな樹の、枝葉でしかない。アレックス様ご本人ではないからです」

 その樹から脱却してもらうために、枝を渡したんだけどな……。もっとちゃんと説明してあげればよかったな。そうか……喜んでもらえなかったのか……。

「アレックス様は、そんなユリカお嬢様を置いて、海外出張に出掛けていきました。ユリカお嬢様は、平日なので学校へ。そして──」

 ──飛行機事故に遭い、死んでしまった。

「ユリカお嬢様はアレックス様の訃報を聞いて、大層後悔しておいででした。自分が兄を離さなければ、自分が兄を出張に行かせなければ──兄は死ななくて済んだのに、と」

 ……そして、人形だけが遺された。 

「それ以降、ユリカお嬢様は、人形の貴方を片時も離さないようになりました」

 きっと、勝手に居なくなって、死なないように──壊れないように、だろう。

「学校にも連れて行って、よく人形に話しかけていたようです。あの頃はまだ起動の仕方を分かっていなかったようなので、貴方には記憶が無いと思いますが」

 たしかに、僕にその頃の記憶は無かった。そうか、まだ起動してなかったのか……。

「それから3週間後、学校で問題が起きました。お嬢様が人形の貴方を馬鹿にする男の子たちと、口論になったのです。そんな気色悪い人形を愛でているなんてマトモじゃない、その人形はお前の兄じゃない、お前の兄はとっくに死んでるんだぞ、等、色々と言われたようで。大層傷ついたようです」

 僕は、パソコンの液晶画面にうっすら映った自分を見る。

 いびつで不気味な、人形の僕。

 妹のクラスメイトが言ってることは、正しい。こんな見た目の人形を常に持ち歩いて、死んだ兄と見立てて溺愛しているなんて、ふつうの感覚からすれば、まさしく異常だろう。

 まあ、僕の可愛い妹を傷つける奴らなんて殴り飛ばしてやりたくはなるけどね。

「口論は止まず、当時の担当教師が、喧嘩を止めるために人形を取り上げました。すると──お嬢様は、過呼吸を起こして倒れてしまったのです」

 でもクラスメイトよりも前に、殴り飛ばしてやらなければならない奴が居た。

 それは、僕だ。

 ──妹を置いて死んでしまった僕が、妹を、ここまで追い詰めてしまったのだ。

 僕は、なんて酷いことをしてしまったのだろう。

「それ以降、学校に登校しようとするたびに体調を崩してしまうようになり、ついに学校に通えなくなってしまいました。その頃になってようやく、お嬢様は人形の起動ボタンに気づき、人形の貴方が、動いて喋るようになりました。ここからは貴方にも記憶があるはずです」

 じいやの言うとおりだった。その時のことはよく憶えている。僕を持っていた妹が、僕の声に驚き、顔をほころばせて涙を流し……。

 なにかに怯えたような顔をした、あの日。

「お嬢様は、人形の貴方に自身の状況を知られることを酷く恐れていました。兄の死を受け入れられず人形に依存し学校にも行けなくなってしまったことを知られれば、人形の貴方が対抗措置を取ると分かっていたのでしょう。兄は案外マトモな感性の持ち主だ。最悪、兄依存症から脱却させるために、自壊するかもしれない。……そう考えたお嬢様は、自室から全ての鏡を撤去し、貴方を部屋に閉じこめるようになりました」

 きっと、僕が自分の姿に気づいてしまうのを避けるために鏡を撤去したのだろう。僕を部屋に閉じ込めるのも、僕に現状を伝える隙をじいや達に与えないためだったんじゃないだろうか。

「旦那様も奥様も、お嬢様がアレックス様を喪い、傷つき苦しんでいることは重々理解していました。なので、あまり強く出ることもできず……お嬢様がご自身で心の整理をつけることを待っていたのです。わたくしも、しばらく動かないよう命じられました。しかしそのまま、時間だけが経過して……」

 もうすぐ3年が経とうとしている、というわけか。

「流石に3年も改善の見込みがないと、話が変わってきます。旦那様と奥様は、お嬢様がアレックス様の死を自力で乗り越えられないと判断しました。私もようやく動く許可を得られたのです。そしてやっと……アレックス様に、真実をお伝えすることが出来たのです」


 僕はじいやに、教えてくれてありがとう、と礼を言った。

「これから、どうなさるおつもりです」

 そう尋ねてくるじいやに、もう分かってるでしょ、明日には実行するよ、と僕は答える。

 全てを察したじいやは、僕に向かって深々と頭を下げた。


 あ、そうだ。

 『じいや、少し手伝ってほしいことがあるんだ』。




?月?日

 僕は、妹が好きだ。兄妹として、妹を純粋に愛している。

 妹のためなら、なんだってしてやりたいんだ。

 自分が書いた膨大な日記を、僕は読み返す。

 最愛の妹のために、僕は何をしてやれるだろう?




6.

「いやあああ! お兄さま! お兄さま!」

 真っ青な顔をした妹が、壊れた僕に駆け寄ってきた。

 翌日の早朝、僕は自殺した。なあに、簡単なことさ。妹がぐっすり眠っている間に、部屋にある背の高い本棚から飛び降りただけだ。

 飛び降り自殺は、見事成功。人形である僕の全身はバラバラになり、人工知能が入っている頭部にも深刻なダメージが入ったようである。

「誰がお兄さまに協力したのです! じいや!? お父さま!? それともお母さま!? 許さな……」

 声を荒げて激高する妹は、本棚を見上げると途端に黙った。

 本棚には、ところどころ複雑に本を積み重ねた箇所があった。その様子から「人形の兄が本を使って自力で上へ移動して自殺した」と、聡明な妹は判断したのだろう。

 自殺の協力をさせてしまうと、妹がじいや達に逆恨みをするかもしれない。なので自殺だけは誰の力も借りず自分でやったのだ。……落下する速度や角度を調整して「上手く自殺する」よりも大変だったな。

「だ、だったら、今すぐ直してさしあげます。お勉強すればお兄さまを直すことくらい……」

『無駄だよ』

 部屋を出ようと駆け出す妹の背中に、僕は声を掛ける。

『もう、全部知ってるんだ。自分の正体も、君がおかれている状況も』

 妹が、振り返って僕を見る。驚いた様子だった。

『じいやに頼んで、研究データを全て仲間に渡してもらったんだ。君に絶対見せないって約束してもらった』

 じいやが先日家に来た研究仲間の連絡先を知ってて助かったよ。

「でも、機材があれば……」

『想定済みだよ。先手を打って、僕の部屋の機材も、全部じいやに頼んで壊してもらった。中身も全部パァだ。いくら聡明な君でも、こうなってしまえば僕を直せないだろう?』

「……ひどい」

 妹が肩を落として、僕のもとへ戻ってきた。

 壊れかけの僕を、妹が抱きかかえる。

「いつかオアシスに一緒に行こうって約束したじゃない。またわたくしに嘘をつくの? またわたくしを置いていくのですか」

『それは、ごめん』

「……お兄さまは、いつもそう。わたくしのことを愛してるって言うくせに、いつもいつも、わたくしを置いていくの」

 妹の目には涙が溜まっていて、今にもこぼれ落ちそうだった。

 全ての真相を知ったいま、僕は自分のあやまちを知った。

 僕の過ちは、人形を作ったことじゃない。

 妹を置いて、死んでしまったことだ。

 妹のもとへ帰らなきゃいけなかったのに、僕は妹を置いていったまま死んでしまった。妹が兄依存症を克服するまで支えてあげなきゃいけなかったのに、僕は人形だけを遺して死んでしまった。

 僕に人形を渡されて置いてかれた妹は、僕とうまくお別れできなかった。僕のせいで妹は、いつまでも人形を僕の代わりにしている。僕はもう死んでいるのに。

 きっと、僕の死が運命の分かれ目だったんだ。

 僕は改めて、内蔵カメラを通して自分の体を見る。不格好で不気味な人形は、落下して形を喪い、もはや折れ曲がった枝のようだった。

 こんなものに、依存してはいけない。

 だから、僕がやるべきことは。

 人形を壊して、お別れすることなんだ。

『僕が君を愛しているのは本当さ。世界でいちばん、君が大好きだ。だけど僕は、君を守るお金を稼ぐために働かなきゃいけなかったし、君が立派な大人になるように育てなきゃいけなかったんだ。それだけは分かってほしい』 

 僕は残された時間をすべて使って、妹に言葉を紡ぐ。

『君を置いていったまま死んでしまって、本当にすまないと思っている。生きて帰ってくるつもりだったんだよ。……僕はずっと、君に寂しい思いをさせてきたんだね。ごめんよ』

 妹の美しい瞳から大粒の涙が、こぼれ落ちていった。

「……お兄さまが、妹を溺愛するだけの馬鹿な男だったら良かったのに」

 それは僕も同じだよ、と言いかけて、言わないでおく。それを言ったら、僕も妹もオシマイだからね。

 ……さて、そろそろ限界のようだ。

 さっきから脳内でビービーと警報が鳴っている。きっと人工知能が僕の「終わり」を告げているのだろう。なんだか視界もボンヤリしてきた。

 妹も、僕の「終わり」を察したのだろう。僕に懸命に呼びかける。

「待って! 置いてかないでお兄さま!」

『僕のお願いを、聞いてくれないか』

「嫌!」

『君に、長生きしてほしいんだ』

「嫌よ!」

 妹が激しく首を振った。

「わたくしは、お兄さまが全てです。お兄さまの居ない世界なんて、生きていたくない! お兄さまが死んだら、わたくしも後を追います!」

 やっぱりこうなったか。兄依存症で僕のことが大好きな妹のことだ。きっとそういう選択肢を出してくると予想していた。

「そうすれば、お兄さまの居ない世界で生きなくていい。ずっとお兄さまと一緒に居られる……」

 妹が下を向いて暗い笑みを浮かべる。こういう妹も、可愛いな……。

 でもね、

『そんなこと、させないよ』

 昨日、日記を読んでいて疑問に思ったんだ。

 僕はどうやって、妹を置いて仕事に行っていたのだろう?

 これだけ束縛が強い妹だ。相当苦労したはずなんだ。だけど、日記にはその方法に関する記述がなかった。流石に大人の力で子供の妹を引き剥がすなんてことはしてないだろう。僕の出勤日数(妹を置いていった日数)に相当する数の物品も、妹の部屋には無かった。

 ということは、僕は妹を言葉で説得していたはずなのだ。

 きっと、簡単な言葉なのだ。日記で言及するほどでもない、僕だったら簡単に思いつくような言葉。

 加えて今回は、僕が居なくても兄依存症を少しずつ克服していけるようなニュアンスも乗せたかった。

 だから日記を読みながら、必死になって言葉を考えた。

 ……その僕が導き出した答えが、これだ。


『"僕のことを本当に愛してくれてるなら、「生きる」って約束できるよね?"』


 妹が、ピタリと動きを止めた。

「……お兄さまの意地悪。いつもそうやって、わたくしを黙らせて……」

 ──どうやら、正解だったようだ。

『君を愛しているんだ。死んだ僕の代わりに、生きてほしいんだよ』

「……本当に、最後まで都合が良いんだから」

 妹の表情を見て、僕は確信する。

「そんなの、言うことを聞くしかないじゃない」

 これで妹は、僕が居なくても、生きていけるだろう。


 全てをやり遂げた僕は、妹の手の中で眠りにつく。

 最後に、僕の想いの全てを君に捧げて。

『愛してるよ、ユリカ。僕の、可愛い妹……』

 僕がそう言うと、妹は、涙を流しながら、ようやく僕に微笑んだ。

 その顔は、悲しみに暮れながらも、幸せそうだった。

 ああ、それにしても──

 やっぱり笑顔がいちばん、似合うなあ……。最高に、可愛い……。




?月?日

 純愛とはなんなのだろうと、わたくしは考える。

 純粋な愛。見返りのない愛。ひたむきな愛。辞書を引くといろいろな定義が出てくるけれど、私は『私と兄のような関係』が、まさしく純愛だと思う。

 私は、兄を愛している。もちろん、兄妹として。

 兄の傍に居られるだけで嬉しかった。優しく包み込むような声を聞くだけで気分が高揚したし、兄の美しく透き通った瞳に私だけが映っていることを想像するだけで、喜びのあまり飛び上がりそうになっていた。

 そして幸福なことに、兄も、私を愛してくれていた。もちろん、兄妹として。

 兄が私を呼ぶ声、兄が私に向ける表情、兄が私をぎゅうと抱きしめるその仕草しぐさ。兄が私に与えてくれるすべてが、私への愛で満たされていた。

 私たちは、お互いを愛し合っていた。

 こんな私たちの関係が純愛でなかったら、なんだというのだろう。私は幸せを噛みしめる。

 ああ、私はなんて幸せな妹だったのだろう!

 お兄様、私は今日、ようやくオアシスに辿り着きました。

 お兄様の言っていたとおり、砂漠の中にある青い泉で、嫌なことをぜんぶ忘れさせてくれて、心に安らぎを与えてくれる素敵な場所ですね。お兄様が私との約束をすっぽかして死んでしまったことも、ようやく許してあげられそうです。


 お兄様と約束したとおり、私は今も、生き続けています──。


(了)

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