後編
先月市役所でもらった母子手帳の予定日の欄には来年の夏頃の日付が書かれている。私はそれを、肌身離さず持ち歩いた。学校にいるときも常にポケットに入れていた。
学校では文化祭の準備が活発になっていた。と言ってもアニメのような派手で楽しそうなやつじゃなくて、グループでテーマを決めて研究したものを発表したり、合唱曲を歌う程度のくだらないものだけど。なんとなくやる気がでなくて、私は準備時間や練習時間のほとんどを保健室で過ごした。高熱を出す日もあるし吐き気だってずっと感じているから、実際に体調が最悪だったことも多いけれど。
保健室のベッドは病院のそれと似ている。けれど保健室自体に病院のような神聖な空気はないし、検査ではなく睡眠を目的としているから温かい布団もついてくる。目を瞑ると、左胸のお腹の下、二カ所に鼓動を感じる。今の大きさであかちゃんの鼓動が聞こえることはないとお医者さんは言っていたけど、私には確信があった。私の子供の鼓動だ、間違えるはずがない。聞こえなかった人たちは子供への愛が足りていないのだろう。
「恵美、大丈夫か?」
放課後のチャイムが鳴ってから一時間ほどしてから、陽くんは保健室にやってきた。黒と赤が混ざったような絵の具が頬や制服をまくり上げて露出した腕についていて、怪我をしているようにも見えたけど、すぐに文化祭の作業中についたものだと分かった。手には水族館で買ったキーホルダーのついた鞄、つまり私の鞄を持っていた。
「うん、寝たら治った」
吐き気はまだあったけれど、家に帰れるくらいの元気は残っていた。陽くんの手を握って、私はベッドから立ち上がった。
「それでね、この間病院に行ったときなんだけど」
陽くんは文化祭の準備で疲れているのか、帰り道で口を開くことはなかった。こくこくと一定のリズムで首を動かし、私の話を聞くことに徹していた。
「多分、帝王切開になるって言われた。私が成長しきってないから普通の出産は厳しいって」
私の身体は他の子よりも一回り小さい。去年からほとんど身長は変化していなかったし、私の子には陽くんに似てほしいと思った。陽くんはバスケ部でキャプテンを勤めていただけあって背が高いし、男の子でも女の子でも身長は高いほうがいいだろう。背が低いことのメリットなんて背の順で自分の場所に迷わないことくらいしかない。
「身体を切られるんだからやっぱり怖いけど、私がんばるから。応援してね、陽くん」
「恵美」
やけに力の入った声で、陽くんは言った。試合中でも喧嘩してても優しい陽くんから出たとは思えない、ちょっと怖い声だった。そこにいるのが別人に思えて、私は立ち止まった。陽くんも同じように立ち止まって、私をまっすぐに私を見た。陽くんの顔を見るのは久しぶりな気がした。私たちはそのまま、見つめ合った。陽くんの二重は相変わらず綺麗で幅もあって、やっぱり羨ましい。鼻の上の方にある骨は角張っていて、彼の鼻の高さはそこに由来するのだろうと思った。うっすらと血の色の滲んだ唇が少しだけ開いて、奥に白い歯が見えた。彼のコンプレックスらしい歯並びの悪さが、私は好きだった。
「産む、つもりなんだ」
先週、陽くんの両親を交えて話したときも、陽くんは同じことを聞いてきた。陽くんの両親は堕ろした方がいいと言っていたが、子供を殺すことなんて私にはできない。
「なんで? 当たり前じゃん」
陽くんの目がじっとりと私を見ていた。逸らしたら負けな気がして、私もまっすぐに陽くんを見た。陽くんの目は、日本人にしてはかなり明るい茶色だ。目は陽くんに似た方がかわいいだろう。
やがて陽くんは勝ちを私に譲ってくれたのか、視線を地面に向けた。
「そっ、か」
誰に向けて言ったのか分からないほどの声量で呟いて、陽くんは顔をあげた。けれど私と目が合うことはなかった。
「悪い、おつかい頼まれてるから、先帰る」
私の返事を待たずに陽くんは駆けだした。バスケ部を引退してもう二ヶ月以上経つからか、以前に比べれば随分と遅い。全力で走れば追いつけそうだったけれど、急な運動は子供に悪いかもしれないのでしなかった。
電話の音で目が覚めた。陽くんからだった。今日は悪阻が酷かったからソファで横になっていたけど、いつのまにか眠ってしまっていたらしい。帰ってきたときはまだ日も高かったが、すでに外は真っ暗になっていた。
「ごめん寝てた。どうしたの?」
寝転がったまま電話に出て、手探りで電気のリモコンを探す。ソファの横にあるテーブルにプラスチックの感触を見つけて、真ん中にある大きなボタンを押した。部屋の隅々まで、光が届けられた。
「あのさ、恵美」
私たちは暇な時間のほとんどを通話して過ごしていたけれど、陽くんからかかってくることは稀だった。そういえば来月は陽くんの誕生日だ。デートのお誘いだろうか。どこかに出かけるのは体調的に厳しいから、できればうちに来てほしい。妊娠中だからセックスはできないけど。
「なに、陽くん」
あくびをすると、電話の向こうから息を吐く音が聞こえてきた。
「子供、堕ろしてほしい」
ぎ、とソファが軋んだ。いつもより深く、ソファに沈んでいる気がした。
「……どういうこと?」
聞き間違いであることを願った。私がまだ寝ぼけているのかもしれないし、陽くんが何かを言い間違えたのかもしれない。そうでなければ説明が付かない。「堕ろして、ください」
陽くんの声とは思えないほど弱々しく、絞り出すような声だった。泣いているようにさえ聞こえた。
「意味わかんない! 堕ろす? なんで? なんで堕ろさなきゃいけないの? 陽くんはこの子を殺したいの?」
電話の向こうで、鼻をすするような音が鳴っていた。泣きたいのは私の方だった。
「そうじゃ、ない、けど」
私はお医者さんから中絶の仕方を詳細に聞いたことがあった。子宮の中にいる赤ちゃんを、ハサミみたいなやつでかきだすのだ。掻爬法というらしい。
「俺たち、まだ中学生だしさ」
陽くんは部活中に腕を骨折したことがあったはずだ。骨が折れるのと、腕を、身体を、頭を切り刻まれることのどっちが痛いか。どっちが残酷か。私の子供に、そんなことをさせてたまるものか。
「子供はさ、また大人になってから作ればいいじゃん」
陽くんは何も分かっていない。それとも男というのはみんなこうなのだろうか。あまりにも当事者意識が低すぎる。
「なんでそんなこと言うの? この子はこの子しかいないのに。また作ったって、生まれてくるのはこの子じゃないのに!」
私のお腹に耳をあてたら、陽くんにもこの子の鼓動が聞こえるのだろうか。そうしたらきっと、分かってもらえるはずだ。この子は生きている。私の子供は、私たちの子供は、私の中で確かに生きている。
「ごめん、恵美」
私は謝罪なんて求めていない。それに陽くんはどこかずれている気がした。これは自分が悪かったと謝っているのではなく、どれだけ酷いことを言ってもこれ一つで許すよう私に求めている謝罪だ。そんなの、欲しくない。
何かを言う前にてろんと音が鳴って、電話は切れてしまった。その数分後に来たLINEは「別れよう」だけの簡素なもので、私はそれに既読をつけることができなかった。
卒業式が終わったあと、このクラスで進路が決まっていないのは私だけだと担任に言われた。クラスメイトは全員進学するらしく、もう合格発表も終わっている。うちの制服はポロシャツがピンクでとか派手目なチェック柄のスカートがとか、友達もそういう話ばかりしていたからそうだろうなとは思っていたけど。お母さんは進学しなさいと言っていたが、七月には出産だからお腹も大きくなってきているし、どうせすぐに休学しなければならなくなる。子供が生まれたあとは働かないといけないし、高校に行きながらの子育ては現実的じゃない。だから入試は受けなかったし、受験勉強も初めて病院に行った日に辞めた。けれど、このクラスの中に妊娠したことのある人なんていないだろう。処女や童貞の割合だって、きっと高い。この中で私は最も早く子供を産み、母として生きていくのだ。高校には行かないが、私は高校も大学も飛び越えて母になるのだ。
今日はスマホの持ち込みが許可されているから、友達は何百枚と写真を撮っていた。私は疲れたので誰よりも早く教室を出た。これ以上この空間にいるのは子供に悪影響な気がした。
「恵美」
校門のところで呼び止められて振り向くと、陽くんは息を切らしていた。陽くんとはあのLINE以来、一切話していない。
「どうしたの、陽くん」
陽くんは私を徹底的に避けていたし、もう話しても無駄なのだと私も悟っていた。別れ話に返事はできていないけれど、四ヶ月も何の関わりもなければ自然消滅と言っていいだろう。
「これ」
差し出された封筒は結構な厚みがあって、形からお金であることが分かった。陽くんの顔を見ると、小刻みに震えていて、今にも泣き出しそうなほどゆがんでいる。
「これ、で、終わりにしたい」
もうとっくに中絶が可能な期間は過ぎている。私たちの関係を終わらせたいということだろう。お腹をさする。私が元々細いせいか、まだ見た目で分かるほど膨らんではいない。けど、確かに、いる。触れば分かる。どくどくと脈が聞こえる。私の子宮を足蹴にしている。
「そう、わかった」
陽くんには聞こえないのだろう。この子の音が。この子の声が。この子が膨らんでいく様も豆粒みたいだったものから徐々に手足ができあがっていく様も何も知らずに、陽くんはこの子とお別れなのだ。
陽くんはスポーツ強豪校に進学してバスケをするのだとクラスの子が言っていた。この子よりも、陽くんは自分のことを選んだのだ。そんな人、この子には必要ない。
「じゃあね、陽くん」
封筒の中に入っていた二十万は、どれくらい足しになるだろう。習い事をさせてあげたいなと、ふと思った。
*
家に帰ると陽くんがご飯を作ってくれていた。お刺身なんて、中卒二人の給料で買うには贅沢すぎるけど、光(ひかり)が生まれて今日で一年が経つ。まだ光に食べさせるには怖いが、私たちへのご褒美ということで。陽くんは光にご飯を食べさせながら、工場で起きた珍事について語る。私もスーパーの来た変な客の話をしながらマグロを食べる。光は口元を汚しながらきゃいきゃいとはしゃいでいた。子供はいつ頃から喋るようになるんだろうか。光はまだ歩けもしないし、陽くんには懐いているけれど私が抱っこするといつも泣きそうな顔になる。お風呂に入るときも寝るときもずっと陽くんと一緒だ。二人が並んで幸せそうにしていると私も幸せな気持ちになるから、それでいいけど。
ホールケーキは高くて買えないから六分の一サイズのケーキを三人で一口ずつ食べて、しばらくして光は眠ってしまった。寝ているときは泣かれることもないので、光のおでこにキスをした。陽くんもほっぺに唇を合てており、光をなで回しているうちに私たちも眠ってしまった。
*
目が覚めてすぐ、ここが病院だと気づいた。神聖な場所に迷い込んでしまったこの感じには覚えがあったからだ。窓の外ではセミが鳴いていたが、病院の白い壁が音を吸い取っているのか、随分とか細い鳴き声だった。じゅん、とおへそのあたりが痛んで、最近は常に感じていた内蔵への圧迫感がなくなっていることに気づく。お腹をさする。
からっぽだった。
お腹には張りがなく、うっすらついた脂肪の感触だけがある。ぶにぶにしているだけで、何もいない。何よりも、聞こえない。あの子の音が、何ひとつ聞こえない。
「目が覚めたのね」
身体を起こすと、壁際の椅子に腰掛けていたお母さんと目があった。
「どうしよう、いない、いないの、お母さん」
お母さんの方へ歩いていこうとするが、不自然に軽くなった身体を上手く動かせない。私の身体じゃないみたいだった。身体にかかっていた布団が足に絡まって、ベッドの上にうつ伏せで倒れ込む。
「落ち着いて、恵美」
お母さんは私を起こし、肩を撫でるように手をおいた。身体の中身だけを揺らされたようにくらくらする。それでも、どこにも見つからない。
「覚えてないの、恵美。あなた、救急車で運ばれて」
そう言われて、サイレンの音が頭をよぎった。お腹の下に感じた鋭い痛みを思い出した。外を散歩していたときだ。内蔵をもぎ取られるような感覚があって、立っていることさえできなくなって、通りがかった人に救急車を呼ばれた。覚えている。救急車の中で、何人かが怒鳴るような声で話していた。
「常位胎盤早期剥離。通常よりも早い段階で胎盤が剥がれて、今回は出血も酷かった。あなたも危なかったのよ、恵美」
いつもお医者さんの話はちゃんと聞いていたから、その現象の名前に聞き覚えはあった。今でも原因不明で、母子ともに危険な状態になりやすい。
「そうじゃな、くて、お母さん、赤ちゃんは? 私の子供は? どこにいるの? ねえ、どこ?」
お母さんは目を逸らして、答えない。子宮の上に張られた皮膚が、熱を持ったようにじわじわと痛んだ。
「あなたが運ばれてすぐ、帝王切開で取り上げたけど、その時にはもう」
お母さんはそこで言葉を区切って、もう何も言わなかった。子宮は赤ちゃんがいなくなるとすぐ、急激に縮んで痛むと言う。私の子宮はいまどれくらいの大きさだ? 私のお腹はいまどれくらいの大きさだ? 私の中にあるのは、私の鼓動だけだった。セミの鳴き声が、遠くで響いていた。
『光』 時無紅音 @ninnjinn1004
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