『光』

時無紅音

前編

 娘が生まれたのは中学を卒業してすぐの七月だった。窓の外の世界が揺れて見えるほど、暑い日だった。十三時間もかけて私の中から出てきた赤ちゃんは三キロに満たないほどの重さしかなくて、けれど数字以上の重さを、私の腕は感じ取っていた。

 ふにふにの頬に指を当てるとゴムのような弾力で跳ね返ってくる。うっすらと生えた髪は綿毛のようにふわふわで、関節と関節の間が狭いせいでしわだらけに見える手は、人のものとは思えないほど真っ赤だった。

「かわいい」

 頭を撫でながら呟くと、娘は泣き出した。そんなに私にかわいいと言われるのが嫌だったのか、それともお腹が空いているのか。娘は何も教えてくれない。あれこれ試してようやく涙は収まり、眠りに落ちた娘はやっぱりかわいかった。犬や猫に感じるそれとは違う、町中で見かけた顔立ちのいい子に思うそれとは違う、胸の奥から滲むように暖かさの広がる、かわいさだった。私は恵美という人間から、この子の”母親”になったのだと思った。


 *


 私の中に、心臓がもう一つある。浮かび上がってきた二本の赤い線がそれを教えてくれた。

 もしかして、と思ってはいた。生理の予定日はとっくに過ぎている。数日程度であれば遅れることは頻繁にあったが、十日は異様な長さだった。ゴムは必ずつけさせていたけれど、どんな避妊方法も確実でないことは保健の授業で習っている。正しくゴムを使用した場合の妊娠確率は2%と教科書には書いてあった。

 薬局で売られていた七○○円のプラスチックの棒にどれだけの信憑性があるのだろう。バカバカしい。ゴミ箱の方を向くと、先に捨ててあった検査薬の箱が目に入った。そこにはデカデカと「99%以上の正確さ」と書いてあって、2%を引いたあとに99%を外す確率はいくつだろうと考えた。数学の授業はほとんど寝ている私に、そんな高度な計算ができるはずもなかった。ただ、ほとんどゼロに近い数字であることだけは容易に想像できた。

 だって、だって私は、まだ中学生だ。妊娠なんてしているはずがない。生理はとっくに始まっているし、セックスだってしたのだから、原理として妊娠する可能性があることは一般常識として知っている。実際に中学生で出産にした例もあると知っている。けれど、まさか私が妊娠するなんて。年が明けて一月もすれば高校の入試がある。そのあとには卒業式も控えているし、卒業旅行の計画だってしている。妊娠なんて、そんなの、困る。

 何度見たって、妊娠検査薬には陽性の判定がでていた。


「私、妊娠してるっぽい」

 学校から帰るときは陽(はる)くんと二人きりだ。夏まではお互いに部活があって時間の合わないことがほとんどだったけれど、引退した今はホームルームが終わると隣のクラスまで陽くんを迎えに行くのが習慣になっていた。

「恵美(めぐみ)、急にどうした?」

 近くに知り合いがいないことを確かめてから、鞄から妊娠検査薬を取り出した。結局捨てられなかった。お母さんは勝手に私の部屋を掃除することがあるから、学校に持って行った方が安全だと思ったのだ。それはそれで誰かに見られる可能性があるなと今更のように思った。

「え、なにこれ。本物?」

 陽くんは笑い半分の顔で私から妊娠検査薬を奪い、二本の線を見る。おもちゃだと思っているようだった。

「本物。この間、生理こないって話したじゃん。一応やってみたら陽性だった」

 陽くんは意味もなく検査薬の裏や側面を物珍しそうに見た後、キャップに手をかけた。キャップの内側には採尿部があって、昨日私はそこにおしっこをかけている。検査薬をひったくるように取り返し、鞄の奥底にねじ込んだ。

「え、でもこれ、薬局とかで適当に買ったやつだろ。絶対正しいってわけじゃないだろ?」

 そういえばこいつと付き合いはじめた理由はなんとなく気が合うからだったなと思いながら、箱に書かれた数字を伝えた。さ、と陽くんの顔から血の気が引いた。

「ど、どうすんだよこれ、俺たちまだ中学生だぞ」

「私だってどうしていいかわかんないよ。でも、陽くんが産めって言うなら、産む」

 産んだあとのことは上手く想像できなかった。きっと私や陽くんのお小遣いじゃ賄いきれいないほどのお金がかかるし、ちゃんと高校や大学に通えるかも怪しい。けれど、陽くんならなんとかしてくれると思った。

 陽くんは私から地面へと視線を移していく。車が一台、私たちの横を通りすぎた。エンジン音が聞こえなくなってから、彼は言った。

「ごめん、ちょっと考えさせてほしい」

 私は頷いた。その後は分かれ道まで、会話はなかった。


 電子レンジの中にラップのかかった晩ご飯が入っているのが見えた。どうやら今日もお母さんは夜遅くまで帰ってこないらしい。手を洗ってうがいをして、ソファに寝ころんで適当にユーチューブを見る。いつもならこういう時間は陽くんと通話しながら過ごすけれど、今日はそんな気分にならなかった。

 お母さんと最後に会話したのはいつだったか。離婚を期にお母さんが働き始めて、もう三年が経つ。それからは顔を合わせる機会自体が減っていた。嫌いではないし仲が悪いわけじゃないけれど、生活リズムが合わないと自然こうなってしまう。けれど妊娠したことはいずれ話さなければならない。産むにしろそうじゃないにしろ。そもそもそれだって、私や陽くんだけで決められることじゃない。どちらにしたってお母さんにも迷惑をかけるだろう。出産費用も堕胎費用も、私や陽くんに出せる金額ではない。

 動画では鼻筋の整った男が何かを喋っているけれど、内容は一切頭に入ってこない。と思ったら音量がゼロになっていただけで、場面が台所に移り変わったところでそういえば大食いの動画をタップしたんだったと思い出した。

 現実みがない、というのだろうか。昨日からずっと身体がふわふわしている。重力が半分になったような、頭が上へ上へと吸い寄せられているような感じ。おへその下あたりに手を当てる。今もそこにいるのだろうか。まだきっとすごく小さいから、触っても本当にいるのか分からない。じんわりと手のひらが熱くなったのはお腹と手のひらの体温が合わさったからで、お腹を内側から蹴られることもないし、つわりもまだない。私がこの子の存在を感じとれるのは、妊娠検査薬に刻まれた赤い線でだけだった。どんな子になるのだろう。男の子か、女の子か。私に似るのか陽くんに似るのか。私は一重がコンプレックスだから、陽くんのようなくっきりとした二重になったらいいと思った。私も陽くんもスポーツは得意だけど勉強はあんまりだから、塾に通わせるべきだろうか。ネットに転がっている色々な体験談を読んだけれど、中学生の妊娠・出産は当然のように大変らしい。テレビでもたまに公衆トイレで子供を産んでその場で殺してしまう人のニュースが流れているけれど、私たちならそうはならない自信があった。私と陽くんなら、きっと幸せな家庭を築ける。


 産婦人科の壁は染み一つない真っ白だった。風邪のときなんかに行くいつもの病院とは比べものにならないほど清潔で、静謐で、神聖で、年齢制限がかかっていても不思議じゃない。少なくとも中学生がいていいところではないように思える。実際、私を除いた最年少は髪を明るくした大学生らしきお姉さんだった。生理が重いなどの理由で、中学生でも来ることはあるのだろうけど。

 お母さんは私が妊娠したと知ると、途端に泣き崩れた。仕事帰りで崩れかけていたメイクがさらにぐずぐずになって、頬の横にあるシミの主張が強くなった。お母さんが私を産んだのは十九の時だったと聞いている。私ほどではないにしろ世間的にはかなり早い妊娠だろう。専門学校を辞めて結婚し、私が生まれたけど、妊娠してからは苦労が絶えなかったと言う。だから堕ろしなさい、と赤く腫れた目を私に向けてくるのだ。陽くんの希望をまだ聞いていないので、私は何も答えることができなかった。とりあえず病院に行って検査をしなさいと、お母さんは見たこともないくらい怖い顔で言った。

 十五分ほど座って待っていると、私の名前が呼ばれた。お母さんに背中を撫でられて、立ち上がる。診察室の扉を開けると、少し皺のついたベッドが目についた。お医者さんは茶色いフレームのめがねをかけたおばさんで、三人くらい子供がいそうな顔だった。「朝倉さん」と確認するように名前を呼ばれて、頷く。お医者さんは不自然なまでの笑顔で私を見ていた。

「妊娠しているかもしれない、とのことですが」

 私が丸椅子に座ったところで、おばさんは笑顔を崩さないまま固い口調で言った。用件はすでに電話で伝えてある。ここは一週間探し回ってようやく見つけた、中学生の妊娠でも取り扱ってくれる数少ない病院だった。

「検査薬つかって、陽性で」

「最後に生理が来たのはいつ?」

「先月の下旬です」

 いくつかの質問をされ、それらに答えていく。私の後ろに座っているお母さんは全て黙って聞いていた。十分ほどそんな時間が続いて、お医者さんは「とりあえずエコー検査しましょうか」と言った。

 診断室よりもさらに奥にある、固そうな椅子と教室にあるようなやつの小型版みたいなディスプレイ、それといくつかの機械だけがある部屋へと通される。椅子に座って待つよう告げるとお医者さんはどこかに消えていった。

 一分も経たないうちに、いくつかの道具を抱えたお医者さんと助手らしき女の人が部屋に入ってきて、四畳ほどしかない部屋は人でほとんどが埋め尽くされた。

「それじゃあ、はじめますね」

 電気が消され、部屋の中は薄暗くなる。ディスプレイが何も写さないまま、黒く発光していて眩しかった。

「今からこの棒を膣内にいれていきます。痛みを感じたら教えてください」

 お医者さんの手には直径数センチほどの白い棒が握られていた。長さはそれほどないが、おそらく柔らかい素材ではない。これを膣内に、いれる?

「え、え、膣内って、アソコってことですよね?」

「そうですよー。赤ちゃんが出てくるところですね」

 お医者さんは平然と答えた。彼女からしたらよくあることなのだろう。私以外にも当然、同じ検査をしているのだろうし、あくまで仕事という割り切りが感じられた。

 私に検査の場面が見えないようにという配慮なのか、胸のあたりにカーテンが垂らされた。だが今から下半身を、陽くんにしか見られたことがないようなところを見られるわけで、私にそれが見えなかったとしても事実は変わらない。見られるだけならまだマシだが、あの固そうな棒をいれられるのにはどうしても抵抗感があった。そこにはこれまで、陽くんのモノと、彼の指くらいしかいれた経験がない。自分の指すら、怖くていれられなかった。いくらここには女性しかいないとはいえ、そんなところに機械をいれるなんて嫌だし無理だ。

「すみません、ちょっと」

 今からでも検査をやめられるだろうか。そう思って上半身を起こそうとすると、すでにお医者さんの手が私のズボンに触れていて、もう一秒遅ければ脱がされていただろう。

「あの、別の検査の方法って」

 身体を完全に起こすことはできなかったので、中途半端に上半身が浮いた状態になってお医者さんを見る。彼女は感情の読みとれない目を私に向けていた。

「お腹の上からする方法もあるんですけど、妊娠初期であればこちらのやり方のほうがより正確なんですよ」

 教科書みたいな説明だった。事実をぶつけてくるだけで、私に寄り添ってくれることはない。何を言っても無駄なのだろう。それに、正確さを持ち出されては反論できない。妊娠しているのか、確証を持つためにここに来ているのだから。

 上半身を元に戻すと、お医者さんの目は私から私の下半身へと移っていた。ゴム特有の摩擦を腰に感じる。人に服を、それも下半身の服を、あまつさえ下着まで脱がされるのは奇妙な体験だった。陽くんはいつも脱がしたがるけれど固辞して自分で脱いでいるし、子供のころはともかくこの歳になって、という恥ずかしさがあった。

「朝倉さん、力ぬいてくださーい」

 そう言われても、力んでいるつもりなんてない。どうしていいか分からないままでいると、入り口に固いものが当たった。例の器具だろう。機械らしい冷たさが、お医者さんの声がしたあとでぬる、と私の中に入ってきた。見た目ほどの太さは感じないが、異物感とえぐられるような痛みがあった。セックスは気持ち良さとかはないし、陽くんに愛されてる、求められてる安心感がある。けれどこの機械は当然、キスをしてくれることも頭を撫でてくれることもない。私の体温になじんでもくれない。

 やがて異物感はおへその下あたりで動きを止め、ベッドの横にあったディスプレイの画面が動き出した。

 そこには多分、私の子宮の中が映し出されていた。白黒でよくわからないけれど、真ん中のあたりにぽつんと離れ島のようなものがあった。それは人の形にはほど遠い、また手も足も頭もできていない、ゆがんだ豆粒のような形をしている。

 けれど、分かった。一目で判別がついた。これがそうなのだと。

「あかちゃん」

 こく、こく、と小刻みに動いている。お医者さんが何かを言っているような気がしたけれど、意味のある言葉には聞こえなかった。左胸の奥に、突き刺すような熱さがあった。

「わたしの、あかちゃん」

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